アンコール遺跡と古都アユタヤ
05.12.13


タ・ソム

こちらは林に囲まれた静かな僧院で珍らしく仏教である。 

と言うのは、建てられた年代が12世紀でヒンズー教と平行して

仏教がかなり普及し始めた年代で、ジャヤバルマン7世により建立された。



塔門の観音菩薩


東西200M南北240mのこじんまりした寺院であるが、四面の穏やかな観音像を

持つ塔門があり、我々の気分には、やはり親近感がもてる。


 
仏教寺院とは言えレリーフはヒンズー教の名残を残しているようで

12世紀とは言え、かなり風化していて塔門が一番形を留めていた。






午前中の観光はここまでで、午後のアンコールワットに備え、昼食を済まし、

ホテルで休憩する。  暑さを避けて3時過ぎの出発となる。

今朝が早かったので、我々には大助かりだ。


と言いながらも、昼寝もせず食事が済むと、ぶらり街に出る事となる。


 
シェムリアップの街の風景、若者達はバイクが楽しくてたまらないと行った様子。
嘗て、この街で一の瀬泰造も住んでいて彼の通ったレストランもあるそうだ。




シェムリアップ川の公園の観音菩薩像


シェムリアップの街はスーパーマーケットが1軒あり、観光客の見たい様な所は未だ未だの様だ。

陽射しがきつく、早々に切り上げ、部屋で、やっぱり一休みとする。


ホテルの部屋




アンコール・ワット


早朝、アンコールワットの西塔門まで入ったが、いよいよ、これからアンコールワットの大奥

まで行くことになる。  暫らく休むと、やはり体がスッキリした。

3時を過ぎると、少し暑さがやわらいだ様だ。  バスに乗り込み

今朝、暗闇の中で、入場券の確認のあったゲイトに到着する。

朝と同じ様にチケットの確認があり、域内へと入っていく。

アンコールワットは死ぬまでに一度は見たい世界遺産の第一位だそうだが、

期待して楽しむ事にしよう。


アンコールワットは元はお墓であったが、アンコールはクメール語で「王都」、

ワットは「お寺」の意味だそうだ。 従って、寺院になってから付けられた名前である。

1113年から34年間かけて、スールヤヴァルマン二世によって、王の墓と併わせ

ヒンズー教のビシュヌ神をも祀る寺院宮殿として建設、13世紀後半より仏教に移行していった。



朝は気が付かなかったが入口に大きな7頭蛇の欄干が左右に、大きな鎌首をもたげていた。

この蛇はインド神話に出てくる不死のシンボルと言われている。

それを越えると西塔門まで濠の中に一直線の参道を進む。


西塔に向った参道

朝のイメージだと西塔門は尖塔の様に思ったが、上部は丸くなっていた。

環濠は、そよ風で小波がたち、時折、名前の知らない魚が光った水面に顔を出す。

西塔門に来ると、こちらにも7頭蛇の欄干があった。  この欄干はシャム(タイ国)との戦いで

クメールの水軍の戦勝記念に造られた、と言われる。



西塔門の7頭蛇の欄干


西塔を貫けると周壁の中は芝生が広がり、アンコールの三つの尖塔が正面に見えた

その尖塔に向かって石畳の参道が真直ぐに伸びている。

何とも言えぬ開かれた風景が展開する!!



石畳の参道が聖堂まで続く


中どころに経堂が設けられ、それを過ぎると、聖池(蓮池)があり、アンコール・ワットの

偉容は大きくなり迫って来る。 聖池を更に左手に行くと、アンコールの尖塔が5本となり、

真言宗の寺やチベット仏教でよく見かける曼荼羅を立体で見た様な錯覚に陥る。




聖池に姿を映すアンコール・ワット


聖池の左手には土産物屋がずらりと並び、店の呼び込みを、断わり、断わり、楼門へと一目散。



土産物屋が軒を並べ売り込に来る

アンコールワットの配置は一番外側を190mの幅を持つ環濠で囲み、その内側を

東西1040m南北820mの周壁が造られ、中央に三重の廻廊に守られた中央祠堂がある。

各廻廊と中央祠堂とは中廻廊で繋がれている。

各廻廊の囲む地域は中央に向って高くなり、第三廻廊の中心にある中央祠堂は

65mの高さがあり、ピラミッド型に造られている。



我々は、左手楼門の階段を登り第一廻廊に入る。



第一廻廊の左手楼門


第一廻廊の西面はインド古代叙事詩のクリシュナ神、ラーマ王子、猿軍の勇ハヌマ−ンの

戦闘シーンが描かれ、南面東側には人間の死後の世界を描いた、天国と地獄

それに閻魔大王の裁きを待つ世界が描かれ、昔、子供の頃に見た覗き絵を見る様だ。


東面南側の壁には50mに渡り、ヒンズー教の建国神話「乳海攪拌」の浮彫りが

石の壁面に為されており、仕上に漆が塗られていたらしく、所々茶色く残っている。

大亀に乗ったビシュヌ神を頭とする神々と大勢の阿修羅との綱引きで山を回転させ、

海を攪拌する様子が浮彫りとなっていた。

人気のある浮彫りは、大勢の人が撫でていく為、黒光りしている。


何れにしても、この彫刻にかけた匠達のエネルギーは神への信仰と

王への忠誠の為せる技であろう。



第一廻廊より第二廻廊へ渡る中廻廊にはデバター(女神像)の浮彫りがなされているが、

信仰か? いたずらか? 一部のデバターのオッパイを人が撫でる為、

黒光りしていて、妙に親しみを感じた。




デバター像

廻廊の中庭を見ると浴場の様な水槽になっていて、当時は、こちらに聖池から水を引き

中に薬草を入れて、王宮の地位の高い者達が病気治療の為、沐浴をしたそうだ。

奥の中廻廊まで行くと、其処の柱に墨で書かれた落書があった。

Mr.ポーが、これは森本右近大夫(肥州熊本の住人)という日本人が1632年に

父の菩提を弔い、母の後生を祈る為に、仏像を奉納した時に書かれたもので、

日本人の為に大事にしなくちゃ、と言っていた。 

お世辞だろうと良く言ってくれることは嬉しいものだ。

内容はよく読み取れなかったが、アンコールワットは1860年にフランス人の探検家

アンリ・ムオーが森林の中から発見したと言われているが、その200年も前に

天竺への憧れからか、かなりの日本人が東南アジアに進出していた様子が判る。

プノンペンやウドンにも朱印船で渡った人達で造った日本人町があったそうだ。


第二廻廊より見る中央祠堂


ヒンズー教では中央の祠堂をヒマラヤの須弥山(世界の中心)と見たて

廻廊をヒマラヤ山脈とし、環濠を海に例えていると言う。

従って、第一廻廊から第二、第三とステージが高くなり、神へ近づくことを意味するそうだ。



第三廻廊へは急勾配の階段があり、又階段の蹴込みが12・3cmで踵が飛び出す。

足を横にしないと不安で、蛙が這うような格好で、下を見ない様に登って行く。

やはり神のステージには、苦労を掛けさせて、

登った時の有り難味を感じさせる仕掛けなのであろう?

これは、やっぱり日中には暑くて無理だ。  夕方でも汗が出て、汗が出て!

喘ぎながら、やっと登る。  御利益があるぞ−!


登って窓から眺めた光景が素晴らしく、アンコールの樹海が広がり、その手前に、

我々が通った塔門や参道、廻廊が見えて遠くに霞んでいく。


表参道と西塔門が見える



外を眺めているとアンちゃんが寄って来て、” コチラへ、コチラへ” と言う。

行って見ると7頭蛇を背にしたビシュヌ像があった。
  

何時頃のものか彼に聞くが、要領を得ない。






彼が ”コチラ、コチラ、” と言うので、ついて行くと、赤く光った仏陀の涅槃像があった。

漆で仕上てある様で、始めてみる釈迦像であった。

此方は現在も崇拝されているのか鬱金の法衣が着せられ、蝋燭や賽銭もされていた。

自分も貧者の一灯を挙げる。



釈迦涅槃像


廻廊を一周して、降りようと出口に来ると、大勢の人が並んでいて、往きの登りの様に

大勢が1度には行けず、帰りは流石に、手摺の付いた降り口に集中していて、

此方で待つことになる。 すると、さっきのアンちゃんが手を出している。

あ−、 そうかと気付きお布施(一ドル)を渡し、バイバイ!



中央祠堂を見ると、折りからの傾きかけた太陽の光を浴びていた。

降りて行くと、皆さんお揃いで迎えてくれ、全員が登って降りて、目出度し目出度し。 


外に出る頃には、アンコールワットは夕日を浴びて赤みを増し、

何時の間にかクメ−ルの白い月が小さく上がっていた。



夕日のアンコールワット


今日の夕食は、クメールの踊りを見ながらの食事と云うことで、シェムリアップの街に戻る。

場所はオールドマーケットの有る街の「クーレン」と言うレストランであるが、レストランと云うより

規模が大きくシアターに近い、日本のパチンコ屋の様にキラキラと電飾を光らせ、

中に入ると、トロピカルな雰囲気で正面が舞台となっている。

我々が最初の客の様で前の舞台右手に陣取った。

やがて食事も出て、民族舞踊が始った。

何時の間にか、大きな客席がイッパイになっていた。


民族舞踊



 


踊りは古典舞踏と庶民の踊りとがあり、古典舞踏はサンスクリット語で「アプサラ」と云い、

天の踊り子が豊作と王国の繁栄を祈る踊りであった。

庶民の踊りは日本の安来の「ドジョウすくい」を彷彿とする踊りで、漁師姿に扮した

男女の踊り子が漁の様子をコミックに表現して、動作が「ドジョウすくい」に

そっくりなのに驚いた。 やはり人間、あまり変わらない様だ。

古典舞踏を見ていると、ヨーロッパの民族舞踏の様な飛んだり跳ねたりする動きがなく

能や日本舞踊と同じ様に「靜」の踊りである。

腰の位置が上下せず、すり足で歩き、目の動きと、手足の繊細でしなやかな動きで

表現する優雅なものである。 元はインドのバラモンあたりが持ち込んだものであろう。


この古典舞踏はクメール王国時代、ジャヴァルマン7世が亡くなると国力が弱り、シャム(タイ国)のアユタヤとの

長い戦いで、遂に王都が陥落。 その時、技術者や踊り子はシャムに連行されていった。

一分逃れた踊り子が、子孫に伝えていったと言う。 従って、タイの踊りのルーツは

カンボジャからという事になる。  韓国から日本が陶芸家を連れて来た状況と同じ様だ。


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