恵那市 女城主の里・岩村
2013.10.14

今年は松茸が豊作と言うので、岐阜県の松茸・名産地である恵那市岩村町に子供達と出かけた。

快晴の秋晴れに恵まれ、猿投グリーン道路を走って山中インターより信号の少ない田舎道419号線に

入り和紙で有名な小原町を通って山間部を走って瑞浪より岩村に入る。 目的の岩村山荘は街の東高台

にあった。 昼食まで時間もあり山荘の係のお姉さんに車を預け、岩村の観光図を貰って商家の並ぶ

歴史的な街並みを散策する。 岩村町は鎌倉時代からの城下町で、岩村山荘の傍には1601年、城主・

松平家乗が藩主邸を建てた所で再建された「太鼓楼」がある。 江戸時代は政治の中心地で城下に時を

知らせるため太鼓楼を設けたそうだ。 この屋敷跡には岩村歴史資料館や藩校・知新館などもある。 

太鼓楼を眺めながら坂道を下って左に行くと川があり、橋を渡ると歴史街道の本町通りへ出る。


太鼓楼と松平家屋敷跡

真直ぐに明智鉄道の岩村駅に向って1.3kmの通りである。 上町、中町、下町と三つに分かれ家々は

主屋の殆どが木造2階建の切妻造りで、全体的には軒の低い街並みが続いている。 通りの始まりには

常夜灯があり、秋陽の陰影の際立った道を下って行く。 まず最初に江戸時代からの カステーラの老舗・

松浦軒がある。 江戸時代、岩村藩の医者が蘭学を学ぶ為、長崎に赴いた時、カステラの製法を持ち

帰り、松浦軒に伝授したのが始まりだそうだ。 中に入ると試食を奨められ、戴くことにする。 女達は

早速買っていた。 歯触りが堅めのカステーラである。



常夜灯




カステーラの松浦軒

次いで「女城主」の旗を揚げる黒光りの連子のある町家造りの酒屋に入る。 店内を物珍しく

眺めていると、”どうぞゆっくり見て行って下さい” とおっしゃる。 それではと、あまえて。


左側 旗を掲げる酒屋

表の店場にはスタンドもあり、多くの酒が陳列されている。土間にはトロッコレールが引かれ、昔は

かなり繁盛であったことを物語っている。 レールは奥深く伸び中庭があり酒蔵へとつながっている。

奥に入って行くと、有名人のサイン色紙が張られ、多くの有名人たちが訪れている。

野茂投手や元総理の小泉さん、安部総理、NHK内田アナウンサー・・・・と 他にも判別の

出来ない色紙がいっぱい張られている。



店内



サイン色紙を眺める女性客

こちらは江戸中期からだそうで当時は岩村藩御用達の運送業で酒は副業だったそうだが、

明治になり廃藩から酒造りが本業となったと言う。 岩村の老舗らしい家構えで総理が寄る

だけに往時はかなりの羽振りであったのであろう。 帰り際に試飲をどうぞ!と言われ

戴くことにする。 飲み比べてさっぱり味の辛口「女城主」を息子と買って店を出る。


金箔の屏風のある居間




中庭と蔵

岩村は 幕末期、儒学思想の大御所である「佐藤一斎」の出身藩で、街の家の玄関や軒先には

彼が著した「言志四録」の戒め言葉が掲げられ、郷土の偉人の力を町興しにも活用し啓蒙している。



町屋のおもてなし

次いで観光案内所の前の紅殻格子の犬矢来のある木村邸である。 恵那市の重要文化財に指定されていて

中に入ると、一人の女性が、” ご案内しましょうか?” と遠慮がちにうながす。 ”お願いします”と答えると

”この邸宅は住人の方が市に寄付をなされたもので、今は市が街並み保存の為に管理していて、こちらは

江戸時代中期から末期に栄えた問屋で、藩の財政困窮の時、御用金を手当てしたりして藩を救い、藩主より

特別な存在として認められ、藩主自身が幾度も訪れたと言う、そのため 藩主出入りの玄関・表通りに面した

武者窓があり江戸時代の町家の様式で建てられていると言う。 木村家は挙母藩(豊田市)の藩主丹羽氏

が1638年に転封によりそれに隋行してきたのが始まりで、苗字帯刀を許され士分待遇であったそうだ。




木村邸 恵那市文化財の表示がある



居間 商い部屋

中に入ると商いの部屋があり、壁には佐藤一斎の言志四録の含蓄のある語録が飾られている。

木村家の八代目・知周は佐藤一斎との交流が深掛かったことから、一斎が知周の

墓碑文まで残していると言う。


店舗部屋 大きな金庫がある




言志四録の語録




言志四録の語録

奥は土間部と居室部に分れ、片側住居となっている。 邸内には城下町の疎水が引かれ

奥には蔵があり書院座敷の庭がある。 書院座敷と庭は痛みが酷く現在は修理中で公開

されていない。 これだけの構えであれば入場料を取っても良いがと思うのだが、無料だ

そうで、書院座敷の庭が整備されれば変わるかもしれない。


書院座敷の庭と蔵 工事中の看板あり

木村邸をでて次は藍染の土佐屋である。 こちらは平成11年4月に再建され「工芸の館」土佐屋

としてオープンしたそうだ。 今から約260年前に染物業を営んでいた商家で
当時の藍染めの行程

が展示されている。 染工場や、土佐屋の歴史をおさめた土蔵の展示室、庭への疎水の取り入れ

が見え、染工場が昔の侭残っていて当時の様子が伝わってくる。
 係りの人に植物の藍を訊ねる

と、今も裏庭に植栽されていて、親切に案内して教えてくれた。 藍は一尺程の丈で赤い茎に小さな

花を咲かせていた。 こちらも入場料はなかった。 「損して得とれ」と言う諺があるが・・・

そういうことかな?



土佐屋




染槽毎に七輪が入れられた当時の染色場




時代を残す道標




街並み

通りの終わりの岩村駅の近くに鴨長明塚があった。 伝える所によると、彼は賀茂神社の宮司になれず

晩年は方丈記を表した後、各地を放浪、鎌倉の実朝に願うも和歌の力は認められず、遠山景廉の好意で

岩村の領家に滞在したが、その後、病で亡くなったと言う。 辞世の歌が残されている。

「思いきや都を余所に はなれきて 遠山野辺に雪消えんとは」


岩村藩の家老が建てた鴨長明の塚

鴨長明塚を見て、道を折り返し岩村山荘に戻る。 山荘は破風のある白壁の城郭の様な

造りで内部も白壁と無垢の木材で組まれた和風の吹き抜けのある落ちついた雰囲気である。

食事は白壁に柱と梁が黒く際立った天上のない城造りの広い部屋に通される。 こちらは

炭火焼きの料理」が売りで、既に何組かの先客が炭火炉付きテーブルに座っていた。


岩村山荘玄関

料理は前もって予約を入れていたので、奥の席が確保されていた。 もう炭火が赤々と燃えていた。

我々を見て、係りの人が低い椅子をもってきてくれた。 ” 最近、膝や腰の悪いお年寄りが多いので”

と係のお姉さんがおっしゃる。 まず前菜が出てきて炭火焼き用の飛騨牛と松茸、ネギ、芋などの野菜

が運ばれ、前菜をつつきながら、飛騨牛と松茸を網焼きに載せる。 その周囲には野菜を置く。

”お疲れさん”の乾杯で久しぶりの松茸を味わう。 昔は焼き松茸と言えば、一本を手で裂いて網焼き

にしたものだが、今は貴重となりスライスしたものである。  余計に、よく味わって食べなきゃと思う。

ところが飛騨牛が速く焼け頃合いになる。 早速、口に頬張ると、脂がさしとろける様に柔らかい。 

歯医者通いの者には柔らかいのがありがたい。 しかし、蛋白摂取制限のある身、二切れほど食べ

後は、孫達に譲ることにする。 成長盛りには幾らでも大丈夫の様だ。 やがて松茸も湯気が立ち

やっと食べる。 懐かしい薫りと、松茸独特の歯ざわり、脳は忘れずにその感覚を記憶している。 

やっはり松茸は美味い。 しかし、こういった希少なものになると、味の他に情緒まで持っている。


吹き抜けのロビー

次いで揚げ物が出てくる。 松茸と季節の野菜である。 松茸のてんぷらは、焼き松茸ほど

薫りはないが、しこしこと歯応えがいい。 続いて今日一番の楽しみであった土瓶蒸しがきた。

 早速、汁を飲む。 実にいい薫りと風味である。 と、その時、孫娘が ”お爺ちゃんこの松葉

 なに〜?” と言う。 見ると土瓶蒸しの差し口差された松葉を指差す。 なるほど、それは

ちょっと解らないな〜。 すると配膳のお姉さんが、”中の汁が出なくなった時、その松葉で突いて

飲んで下さい”と言う。 孫娘は盛んに突いて猪口に注ぎ、美味しい!美味しい!と飲んでいた。

後は松茸ご飯と松茸の吸い物と松茸づくしである。 これでどうやら酒も美味いし言うことなし!

後はデザートで、ご馳走さま!


城壁

腹も一杯となり、この後、岩村町の南東に向けて山道を上って行くと標高717mの城山に着く。

辺りは森林に囲まれ、昔を偲ばす立派な石垣が残っている。 岩村城は全国の山城の中でも

最も高地にあり、日本三大山城の一つである。 鎌倉時代、遠山影朝がこの地を治めたのが

始まりで戦国の動乱まで遠山氏が居城した。 戦国時代には武田の将・秋山信友に城を奪取

されるがその後、織田軍に破れ城主は目まぐるしく替わり、関ヶ原合戦以後は松平家が治め

丹羽氏5代、松平氏7代と替わり明治維新の廃城まで700年に亘って城と城主が残った例の

ない城と言われている。 



城址跡からは御嶽山や恵那山も眺められ山の眺めが素晴らしい。 往時は岩村町の城下も

見えたのであろうが、今わ大木にふさがれ城下町は見ることが出来ない。 


岩村城は女城主で有名であるが、彼女は織田信長の叔母にあたり織田信定の娘である。

岩村城・城主遠山景任に嫁いたが、1571年、遠山景任が病死したため織田信長の五男・

坊丸を養子に迎えるが、幼少であった為、自分が後見役となり、事実上、女城主として采配

をとった。 その後、武田軍の将・秋山信友に城を攻められるが、堅固な守りで防ぎ秋山信友

の和議申し入れを受け入れ敵の将と婚姻までする。 この時、養子・坊丸を人質として武田家

におくる。その後、信玄が亡くなり、信長軍は岩村城を攻め、手強いと見るや、謀リごとで和議

を申し入れ開城させ、信長は秋山信友以下を皆殺しにし、叔母である女城主も磔刑に処した

と言う。 女城主は「敵方であった秋山信友は開城に際し約束を守ったのに身内である信長

は和議の約束を反故にした、この非道は天が許さない」と言い残したと言う悲惨な物語である。

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