京都 : 黄檗山万福寺と東福寺
13.9.22.

先日、息子に誘われ宇治の平等院に出かけた。 現地に到着し観光客が少ないので驚いていると、 なんと

平等院は世紀の大改修中で拝観することができなかった。 案内によると、来年3月に完成の見込みと言う。

修復後は平安時代の色調に復元され、柱や屋根瓦を赤や漆黒に、屋根の鳳凰は金箔を施すそうだ。 きっと、

見違える姿で参拝客を魅了することになろう。 残念ながら、こちらは鳳凰堂はシートに覆われ見ることが出来ない

ので境内を散策する。 境内には観音堂や鳳凰館もあり、宇治川の合戦で平知盛軍に破れ平等院内で自刃した

源頼政の墓などもあった。



平等院南門、 右手鳳凰館

鳳凰館は国宝の鳳凰を初め扉絵、、梵鐘、雲中供養菩薩像26体などの国宝を収蔵・公開していた。

館内の鳳凰と雲中菩薩像の展示が唯一鳳凰堂のイメージを呼び起こすものであった。 現在の

鳳凰堂の屋根にはレプリカが据えられている。 平等院は1052年、藤原頼道により当時の極楽浄土

信仰から創建され阿弥陀如来を安置した阿弥陀堂が建てられた。 周囲は極楽浄土を思わす借景の

庭園に囲まれている。


鳳凰堂の裏側にある浄土院

浄土院は平等院の塔頭で浄土宗の栄久上人が15世紀後半、平等院修復のために開創した

寺と言われ、平等院に残された多くの文化財が保管されていると言う。



源頼政の墓

源頼政は西暦1180年、以仁王(後鳥羽法王の第三皇子)の命を受け、平家打倒を掲げ

宇治川の決戦で平知盛軍に破れ、平等院で辞世の和歌を残し自刃した。

「埋もれ木の 花咲くこともなかりしに 身のなる果 てぞ 悲しかりける」



鳳凰堂の右手に建つ観音堂

観音堂は創建当時の本堂跡に鎌倉時代初めに再建された建造物とされており、藤原時代の

作と言われる檜の一本彫りの十一面観音立像が祀られている。 他に法橋徳応のニ天像、

不動明王像も祀られている。 前の池は鳳凰堂を取り巻く海を模す。


境内を周り、昼になったので宇治川沿い少し上った所の川床のある店に入る。 部屋からは宇治川

と十三重塔のある中ノ洲が見える眺めのよい所であるが、川は京都府を襲った豪雨で、まだ水量

が引かず、中の洲への喜撰橋は立ち入り禁止になっている。 仲居さんが、嵐山の方は大変な浸水で

こちらは浸水はなくて、お陰で助かりましたが、この水量では鵜飼も今年は、これでお仕舞い。

  商売が出来ないと、欲が出たのか嘆いていた。


宇治川の増水模様 鵜飼舟

食事を済まし、平等院が見られなかったので、同じ宇治にある黄檗山・万福寺に寄ることにする。

宇治橋を渡って三室戸から黄檗に入る。


黄檗山・万福寺
宇治市五ケ庄三番割34

黄檗山・万福寺は中国式の禅寺で江戸時代の1654年に中国福建省から渡来して来た

隠元禅師が時の将軍徳川家綱の帰依を得て開創された寺院で、日本の三禅宗の一つとなり

黄檗宗の大本山である。 本尊は釈迦如来で、建物や仏像の様式は中国の明時代風で

日本の一般の仏教寺院とは異なった趣きがある。 創建当初の姿を残しているため、落ち

着きがあり風格を持っている。 国の重要文化財に指定されている。



三門

境内は赤松が植えられ中国式境内である。 三門を入ると境内の参道は縦横碁盤の目の様に

仕切られ左右対称で、真直ぐ正面に中国寺院では玄関と言われる布袋の祭られる御堂・天王殿

があり、その奥には本堂である大雄宝殿が立ち、西から直線状に並んでいる。 こちらには

本尊の釈迦牟尼佛の他、十八羅漢像が安置されている。


大雄宝殿(本堂




大雄宝殿・釈迦牟尼尊像




羅漢像

大雄宝殿の奥には法堂がある。 法堂は中国風の卍くずしの文様の高欄が設けられ、

こちらでは説法が行われている。 大雄宝殿の右手の回廊を渡ると斉堂がある。こちらは

僧侶が食事をする食堂で前には魚の形をした開版(かいぱん)が吊るされている。 これが

木魚の原型とも言われ、これを叩き時を知らせる。



法堂




中国風の高欄と風変わりな丸窓





斉堂と開版

斉堂よりランタンの下がった回廊を通って大雄宝殿の左前にある祖師堂に行く。 こちらは釈迦から

28代目に当たる達磨大師が祀られている。 大師はインドから中国にわたり禅を教えた初祖である。

達磨大師の左右には歴代住職の位牌も祭られている。


大雄宝殿より各堂宇へ続くランタンのある回廊




祖師堂の額




祖師像と歴代住職位牌

最後は三門の左手にある開祖・隠元禅師を祀る開山堂を参観する。 隠元禅師は中国明代末期の臨済宗を代表する

高僧より法を受け継ぎ、中国福建省福州の黄檗山萬福寺の住持であったが、日本らの強い招請に応じて1654年、63歳

で弟子20人ほどを伴って来日し、禅師の弟子となる妙心寺住持の龍渓禅師や後水尾法皇、徳川幕府の帰依を仰を受け、

宇治に約九万坪の寺地の寄進をうけて本寺院を創建、念仏禅を特徴とする明朝禅をもって当時の日本禅宗界に多大な 

影響を与え、特に曹洞宗の改革にも大きな影響を与えた。 また日本の生活の中に煎茶を広め煎茶道の開祖となった。

なお日本の隠元豆や西瓜、蓮根など隠元禅師が持ち込んだ作物である。 宇治には普茶料理屋が多くあり、これは

隠元禅師の広めた精進料理の一つでもある。



開山堂




隠元禅師の祭壇

万福寺は創建当時の伽藍配置と多数の伽藍をのこす素晴らしい寺院であった。 宇治市のあとは、

伏見を経て京都東山の南端にある京都五山の東福寺へと走る。 寺は鳥羽街道の狭い通りに

あったが駐車場が見当たらず、一周して幼稚園の駐車場があったので、其処に止めようと、

すると、前に「寺の駐車場は門の中にあります」との案内があり、その通り車を進めると

大きな境内に駐車場があった。


大本山・東福寺
京都市東区本町15丁目

大本山・東福寺は臨済宗東福寺派の大本山で京都五山の第4位の寺院である。 開祖は鎌倉時代の

関白・藤原道家が南都・東大寺と興福寺から「東」と「福」の二字をとり藤原九條家の菩提寺として造営され

開山は園爾上人によりなされ当初は天台・真言・禅、の三宗を兼学し壮大な堂塔伽藍をを誇っていたが、

火災や明治の廃仏毀釈等で、規模は縮小されたが、今尚25の塔頭を誇っている。


三門の前には大きな蓮池があり、現存の門は室町初期に足利義持により再建され、現存する禅寺の

門としては日本最古のものであり、国宝に指定されている。 扁額の「妙雲閣」は足利義持の筆による。


三門

三門の背後には法堂(本堂)がある。 このお堂は昭和9年に再建されたもので入母屋造りの

昭和初期の木造建築では最大級のもので高さ25.5メートル、間口41.4メートルの大きさである。

本尊は釈迦三尊像、中尊は立像、脇侍は阿難と迦葉が祀られ鎌倉時代の作である。 本堂連子

の隙間より中を覗くと、天井に今にも降りてきそうな睨みの蒼龍が見える。

この絵はローマ法王より勲章を授与された日本画の堂本印象の作である。

 
法堂




天井の蒼龍図 堂本印象筆

本堂に参拝して方丈を見る。 建物は明治の大火のあと再建されらもので、唐破風の玄関を入ると

内部は3室2列の間取りで南面に広縁を持ち、禅宗の方丈には珍しい東西南北と四面に庭を持つ

「八相の庭」と称し、東福寺独特の構えである。 作庭家・重森三玲の作で鎌倉時代の質実剛健

の禅宗の気風を基調にするが、現代的なセンスを取り入れた禅の世界をつくっている。


方丈

南庭は広さ210坪の枯山水庭で神仙思想の四仙島を長石を中心に巨石を豪快に配し

て渦巻く白砂で八海を表し、右手の西方には、五山の築山を設け苔地にして砂紋にて

浮き立たせている。 正面には昭憲皇太后からの恩賜門がある。


方丈正面の南庭




仝 白砂の波紋

西庭は皐月の刈り込みを砂地で方形に区切り市松模様に形どって中国の田制に

似ていることから、「井田市松」と呼ばれる洋風を思わす庭園である。



西庭

北庭は緑の杉苔の中に市松模様に敷かれた敷石は杉苔を浮び上がらせ、皐月の丸刈りと

対照的な感じの庭を形造っている。 



北庭

東庭は雲文様の砂紋に円柱の石で北斗七星を表し「北斗の庭」と呼び、後方には

天の川に見立てた生垣があり、夜空が足元に広がる小宇宙をつくり出している。

禅寺の庭と言えば竜安寺の庭が有名であるが、こちらの庭も背景の壁が白く

竜安寺ほど寂びた感じはないが、4面の庭の雰囲気の変化が楽しめる。



東の「北斗の庭」

方丈を出て本堂の隣にある禅堂へ行く。 こちらは三門や東司と共に明治の大火でも消失を免れた

建物で中世期より現存する最大最古の禅堂である。 切妻造りの単層であるが、中世の豪壮な

姿に往時の隆盛ぶりが窺われる。  1347年の創建で国の重要文化財に指定されている。



禅堂  重文



通天橋の入口横にある経堂



通天橋

東福寺の最後は紅葉の眺めで有名な通天橋を渡る。 東福寺の広大な境内には

北谷、中谷、南谷と三つの渓谷があり、中谷には通天橋が架かり、偃月橋と臥雲橋

を合わせ「東福寺の三名橋」と言われている。 残念ながら、紅葉は今しばらく

かかりそうで、緑の楓が一面に広がっていた。

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