おまけ 張尾・甚目寺
愛知県海部群甚目寺町甚目寺

甚目寺町は名古屋中村区と庄内川を挟んで接した隣の町である。 人口は4万人に程度の小さな町である。

木曽川により土砂が運ばれてできた地形で、甚目寺と呼ばれるようになったのは鎌倉時代だそうだ。

街を鎌倉街道がはしり、伊勢路、美濃路の合流点でもある。 こちらでは古くから甚目寺観音が信仰厚く

霊場として栄え、鎌倉時代より小田、豊臣の時代に掛け栄えてきたが、徳川家康の代となり清洲城から名古屋城へ

世に清洲越しと呼ばれた6万人の引越しがなされ寂れていった。 丁度、街の名鉄甚目寺駅の南に甚目寺観音がある。  


    甚目寺は真言宗の寺で縁起によると7世紀の中頃天智天皇より宝鏡を下賜され、天武天皇からは鳳凰山の額を
    送られ栄えたが、その後、盛衰があり1103年の大地震で崩壊、その後、再建七堂伽藍が整い16世紀には秀吉
    より、17世紀には尾張徳川家より寺領を受ける。その後も歴代藩主の保護を受け尾張四観音の筆頭として栄えた。

  





甚目寺仁王門(重文)

1196年に源頼朝の命により梶原景時が奉行となり建立、二王像は運慶の作とされる。

鉄の網がかかり、ほこりで見えにくいのが残念ではある。

柱や柿葺きの屋根が経年で黒ずみ木が炭素化、化石の様に見える。



三重塔(重文)

三重塔は江戸時代初め1623年の建築で両替商・吉田半十郎政の寄進したもの

日本一と言われる高さを誇り、28mの三重塔は数少ない。

丹塗りの色があせ長年の歴史を経た魅力を放つ。 

こちらを訪れる人々の人間模様を眺めてきたのであろう。



本堂

本堂は再建されたコンクリートの建物であるが、造りが金の飾り金具などで飾られ豪華である。

かなりの寄進が寄せられたのであろう。 内部は表の様子と違い昔からの飾り付けや

漆仕上げの古さものこり古寺の荘厳さを持っている。



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尾張・裕福寺
愛知県愛知郡東郷町春木屋敷


こちらは名古屋市の南東部に接する東郷町にある古刹で、後醍醐天皇の1328年達智上人が

明智城主・小野田長安の帰依を受け伽藍を立て念仏道場としたのが始まりで、後小松、後柏原、後奈良の三帝より

勅使を受け、その後、織田信長、信忠、徳川家康、徳川義直など大名よりの寺領承認の黒印を認められて来た。

今では訪れる人も少なく、忘れ去れているが、見がいのある寺である。




裕福寺三門(重文)


三門の阿吽の二像は台湾のケヤキ像で台湾人仏師の作、胸から腹への腹筋の膨らみが細かく独特で

見得(みえ)の形も夫々お国の流儀がある様である。 何れも大きさといい素晴らしい仁王像である。




  






 
     勅使門                                         勅使門の菊の御紋







方丈と庫裡





本堂

丁度ツツジの季節、境内は緑の中にツツジが点々と陽に際立ち和ませてくれる。





今川義元公本陣跡 永禄3年(1560年)5月18日

今川義元は、こちらに本陣を構えたとあるが、この先の沓掛城は歩いて3・40分の所、本陣を置いたと言うより、

知立市より沓掛に入る前、こちらに一服でもしたのであろう。 しかし、 この翌日、桶狭間で今川義元2万5千の大軍は

織田信長軍2千人の急襲を受け、運命の大敗北。 これを契機に今川は上洛を果たせず没落をする。

織田信長は畿内の地盤を固め上洛。 天下統一を眼前にして本能寺の露と消える歴史の皮肉。


信長は5月18日、清洲にて出陣前の能を舞う

人間五十年、 下天の内をくらぶれば  夢幻のごとくなり  一度生を得て滅せぬ者はあるべきか

本能寺での「光秀謀反」と聞き、辞世の言葉

是非に及ばず ! (善悪を問うまでもない

当時の武将は何時も死を覚悟し潔く、無常観をたたよわす。

それに引き替え、今の政治家の堕落加減!


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尾張・建中寺
名古屋市東区筒井1丁目

建中寺は名古屋城の東に位置する武家屋敷街の先にあり、

尾張徳川藩、初代・徳川義直(家康の7男)の菩提を弔う為、2代藩主徳川光友が1651年に建立し

天明の火災で多くの建物を消失し、現在は三門と総門を除き再建されたものである。

往時は広大な敷地をもち多数の塔頭を擁したが、前大戦で整理され、公園や区役所、学校などになって、

歴代藩主の墓所も平和公園に引越し、二代目藩主・光友だけが残っている。

現在、寺院は尾張徳川家の菩提寺として存続している。



総門(市指定文化財)

総門は建中寺公園の前にあり、市民の憩いの場となっている。

門は1652年に建てられたもので名古屋市の有形文化財に指定されている。

門には白い築地塀が繋がり公園の入口にもなっている。



三門(市指定文化財)

三門は公園を挟んで背後(北)にある。 総檜造りで総門と同じく1652年の完成、市の文化財に指定され、

入母屋でけらばが反り返り重厚な構えに見える。 本山の知恩院の三門を小さくした感じ。

2階には釈迦と十六羅漢が安置されていると言う。 

法然上人の法要が控えているのか2階に垂れ幕が下がっていた。




本堂(市指定文化財)

門を入ると正面に本堂がある。 1787年江戸中期の建立。

こちらは浄土宗の寺である。




本堂横のツツジ







御霊屋(市指定文化財)

本堂の左奥まった所に御霊屋はあり門は閉ざされ今は公開されていない。

1786年に建てられたもので、伊達家の瑞鳳殿等に比べると質素なものである。





鐘楼(市指定文化財)

鐘楼は1787年に作られ袴腰をもった格式のある造りである。





経蔵(市指定文化財)

1828年に建てられた大蔵経5800巻が納められているそうだ。

やはり随所に尾張・徳川家の威光が窺がわれる。

因みに尾張徳川家は初代・義直より現在、22代目・徳川義嵩氏(徳川美術館々長)が継いでいる。

義嵩氏HP

尾張・三河地区は小田、豊臣、徳川と三大英傑の出生地だけに歴史的スポットが多く、

これからも又、訪ねてみたい。

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