新緑の奥琵琶湖
08.4.22



今日は新緑の奥琵琶を訪れた。 奥琵琶は琵琶湖の奥、滋賀県の北端地域にあたる。

久しぶりに見る田園風景が広がり、こちらでは、もう田んぼに水が輝き間もなく田植えが始まろうとしていた。

田んぼは人為なものであるが、なぜか自然を感じ、気持ちを和ませてくれる。


訪れたところ

高月町(雨森芳州庵)〜高月町(渡岸寺)〜木ノ本町(賎ヶ岳)〜西浅井町(菅浦)


先ず、高月町を訪れた。 昔、高月町は高槻と言われ、「高い槻=ケヤキのある地」だったからだそうだが、

平安時代に月の名所として歌に詠まれたことから高月と変わったそうだ。

町に流れる高時川の畔に100戸程の雨森地区がある。 集落には水路が走っていて

豊かな水が流れている。 水には色鮮やかな鯉が放され水車が幾つか回わっている。

水路端には集落の人達が飾り付けたのか花々の鉢が置かれ、訪問者を迎えてくれる。

初めに、その集落の中心にある雨森芳洲庵を訪ねる。




水路に置かれた花の鉢






水路に廻る水車




雨森芳州庵



芳州庵の入口にある大きな槻(ケヤキ)町名の元となった


案内によると雨森芳洲は江戸中期(1668年〜1755年)に活躍した日本を代表する儒者で

朝鮮語と中国語にたけ、対馬藩の宗家に朝鮮方左役といして仕え、日朝親善外交に生涯尽くした人物と言う。


 18歳で江戸に上り木下順庵の門下となり、その後、新井白石などと5人の高弟の1人に数えられ

22歳の時、順庵の推挙で対馬藩に仕えた。 当時は、鎖国中であったが朝鮮とは交流がもたれていた。


残念ながら月・火曜が休みで、中の展示品は見ることが出来なかったが、館内は

芳洲や朝鮮通信使の資料が展示され、芳洲の遺志を継ぎ韓国や中国を

中心にした東アジア交流ハウスにもなっているそうだ。



雨森芳州庵入口






芳州庵と露地





芳州庵裏に広がる白砂の禅式庭園




庭・灯篭と五輪塔





白砂の禅式庭園





庭の古椿

やむを得ず庭だけ見せてもらい、この後1km程南にある渡岸寺へ向う。

薄い黄土に舗装された雨森集落をぬけて広い道を南下すると高槻町の渡岸寺集落に入る。


此方も、やはり高時川から水路が引かれて、綺麗な水がたっぷりと流れている。 

東の山は新芽の薄い緑と常緑樹の緑が斑となり、この季節野山は美しい。

そこには信長軍に落された小谷城址があり、浅井長政がねむっている。

南東には長政が戦いで敗れた古戦場の姉川が流れている。

この辺り沖積層の肥沃な田で、採れる米も、さぞ美味かろう。



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渡岸寺

 
水路横に古木の槻(ケヤキ)がある。

この集落にも、ケヤキの古木があり、高月の「いわれ」が書かれていた。

先に渡岸寺が見える。 この集落にしては、えらく落ちついた立派な寺である。


渡岸寺は真宗大谷派の寺であるが、奈良時代、疱瘡がはやり、聖武天皇の勅願により泰澄が十一面観音立像を

刻んで観音堂を建立したのが初めと伝えられ、平安に入り最澄が七堂伽藍を建て栄えたと言う。

戦国時代に入り、浅井と織田軍の戦いで寺は焼失したが、本尊の十一面観音立像は住職達の手で

土中に埋められて災禍を免れたそうだ。 その後、住職の功円や土地の住民たちで再建し、

寺は真宗に改宗された、現在の本尊は阿弥陀如来像が祀られ、国宝・十一面観音像は

隣の慈雲閣(収蔵庫)に重文・大日如来像と共に安置されている。


  
三門





三門を守る金剛力士二像





 
本堂





本堂

十一面観音像の慈雲閣(収蔵庫)の拝観料を払っていると、中年の男性が欧米人の小母さんを伴ってやって来た。

欧米人の小母ちゃんはショートパンツをはいている。 中年の男性は土地の人らしく、寺の人に「家でホーム・ステイしている

学生のお母さんです」と言って紹介していた。 中へ入ると欧米人の小母さんは、説明を聞き盛んに”アメージイング!”と言っていた。

残念ながら菩薩像は撮影ができなかったが、2m程の高さの一木造りで、少し腰をひねった感じで足を踏み出しそうな姿態。

十一面夫々の顔が喜怒哀楽をリアルに表現いている。 井上靖の小説「星と祭」で、愛する娘を湖で亡くした父親が

娘と共に死んだ青年の父親に誘われて、琵琶湖周辺の古事を巡り、この十一面観音像と出会う、と言う話しだが、

そんな思いで眺めると、益々、惹きこまれる美しさをもっている。 http://www.mapple.net/photos/I02500008603.htm



井上 靖の文学碑

本堂、左手に井上 靖の文学碑も建てられ、文字はさだかでないが、00秋風、湖北の寺とある。


寺を出て、コンビ二で弁当を仕入れ、北隣の町・木ノ本の賤ヶ岳へ向う。

賤ヶ岳は余呉湖と琵琶湖の間に位置し戦国の賤ヶ岳の合戦がなされた有名地でもある。

8号線を通り大音の三叉路を右手に入り坂を上ると、賤ヶ岳のリフト駅の看板が見えてくる。

のぼりの上がった細い道を登り、リフト駅に着いた。 山は若葉の緑で萌えている。

誰も居なくリフトの小父さんが一人。 上まで何分かかりますかと訊ねると、6分と言われる。



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賤ヶ岳古戦場



「片桐且元のぼり」の上がった道

「足のマーク位置に立って下さい」と言われ、幼稚園の子供の様に其処に立つ。 

後からゴツンと椅子が来て身体をすくって行く。 檜林を割ってリフトはコトコト音をたて

僅かな振動を響かせ登って行く、風もなく実に爽快な気分、 やがて頂上到着。



リフト





頂上駅近く

係りの小父さんに「冬はスキー場になるのかね」と尋ねる、3月から11月までの営業で冬は休みだそうだ。

此方の高さは430mあり、春風が頬をかすめていく。  気分は最高!

これから歩いて坂道を登る。  何処からか鶯の鳴き声がする。 ケキョ!ケキョ!

高い為か、まだ桜が盛りである。 桜を眺め更に登ると石碑があった。



登りの道











「賤ヶ岳合戦々歿者霊」とあり 、賤ヶ岳の合戦は余呉湖側の山麓で秀吉と勝家で戦われた。

死者を弔う石仏が野べに点在していたものを心ある里人が集め此方に合祀したと記されている。


更に登ると視野が開け頂上に出た。 かなり広いスペースがあり、賤ヶ岳合戦々跡碑や

豊臣方の7本槍の武将の像などが設けられ、休憩のベンチもあった。



賤ヶ岳合戦々跡碑




辞世の句

秀吉は織田信長の弔いで、光秀を打ち、その後、柴田勝家と織田家の主導権争いとなり

この山麓の戦いで勝利する。 柴田勝家は北の庄城内に逃げ延び、お市の方と共に自害する。 

柴田勝家とお市の方の辞世の句が紹介されていた。



豊臣方の7本槍の武将像

賤ヶ岳の合戦は「七本槍の武勇談」で有名であるが、ここに建つ「7本槍の武将」はうつむきげで、

「戦いに勝利したが、その疲れも出て安堵した」と記されているが、秀吉が子飼いの家臣を引き立てる為

喧伝したとも伝えられ、加藤清正や福島正則はそれを嫌ったと言う。 その為か武将の名前が記されてない。


つづく