遠州・掛川市
06.5.31


掛 川 城


訪問先        掛川城―加茂花菖蒲園―大洞院     



NHKの大河ドラマ「功名が辻」も、半ばに差掛かり、盛り上りを見せてきた。

今日は、山内一豊に、ゆかりのある遠州・掛川に出かける事にした。


名古屋インターより東名に入ると市内の朝の渋滞とは、

とって代わり車が少なく運転が心地よい。

上郷を越えると、伊勢湾岸と東海環状道に繋ぐジャンクションが

幾重にも複雑なループを描き、すっかり、この辺りの景色が変わってしまった。

豊田を過ぎ、岡崎・美合あたりの山間となり、いつの間にか山の若葉は濃い緑に変り

色のコントラストが薄くなって来ている。   音羽・蒲郡を過ぎるころ迄、カーブが続く。

豊川を過ぎて直線の道が続くかと思ったら、早や三ケ日のトンネルに入った。

最近、視力がめっきり弱くなり、トンネルに入ると眼が暗さに順応できず往生している。

トンネルを出ると、逆に眩しくて、しかめっ面をして走る有様。

やがて視野が広がり、浜名湖に出た。

もう後僅か、袋井を過ぎ、暫く走るって、掛川に着いた。


東海道線を横切り、ナビが予め入れていた大手門駐車場に導いてくれた。 

立駐の駐車場であった。  年の所為か近頃は立駐に入るのが鬱陶しく感じる。


街は、小じんまりしていて最近整備されたのか真新しい敷石の舗装がされている。


城に向かって少し歩くと、交差点の左手角に大手門が現れた。




掛川城大手門


立ちの低い街並みにある為か、やけに大きく見えた。

明治に入り、間もなく火災で焼けたものを再建したそうだ。

門を潜ると古い小さな建物があり、市の文化財に指定されている大手門の番所だった。

柱や梁の木材は、風雨の為にかなり風化していたが壁の漆喰は塗り替えられたのか真新しい。

 やはりこう言う物は古びていたほうが似合うようだ。





大手門番所

この番所は場内に出入りする者を監視又は警備する役人の詰め所で、
1854年の安政の東海地震で倒壊後、1859年に再建された物である。
明治の廃藩の折、元静岡藩士谷庄右衛門が居宅用として譲り受け、
使用していたが、昭和53年に谷家より市に寄贈された。 大手門に、
付属した番所が現存するのは全国でも珍しく、昭和59年に市の重要
文化財に指定された。                掛川市教育委員会


番所を見て、川沿いに出ると、柳の枝が風になびき

折からの大河ドラマの「千代と一豊」の幟りが揚がっていた。


川の向うには掛川城の天守閣が聳えている。





城は小高い丘の上にあり、一豊がこの城に移ったのは、信長が光秀に討たれ

その後、実権を握った秀吉が一豊と小田原の北条氏を攻め滅ぼし

諸国統一をして、駿府の徳川家康を関東へ移封し、

旧家康領に秀吉配下の大名が配置された時である。

その1590年から一豊は天守閣のなかった掛川城に天主を造り、戦乱でいたんだ

城の改修と城下町の整備を行い、10年間に、現在の基礎を造ったと伝えられている。

その後、関ヶ原の戦いで、一豊は家康側に組し、その功績で土佐20万石の

大名として出征して行った。


元々、この城は今川義忠が遠江進出の為に家臣朝比奈氏に築かせたと言われる。

桶狭間の戦いで、今川義元が信長に討たれると、徳川家康は、

義元の子、氏真が武田氏に追われ駿河から、この城に立て篭もった

のを攻め倦んだと言われていて、堅固な城だった様だ。  

又、霧噴きの井戸等の伝説もある。





天守閣への入口の左にある井戸で、1569年、家康が、立て篭もった今川氏真を

攻めようとしたが、この井戸から霧が噴出し城を包んで、

家康軍の攻撃から城を守ったと、伝えられている。





霧噴きの井戸


城域は天守閣の本丸を囲む三日月堀、十露盤堀などの内堀によって囲まれ、

昔は場外に外堀が巡らされていたと言う。





三日月形をした三日月堀の遺構






十露盤堀の遺構(そろばんの箱の様)


現在の天守閣は1994年に再建されたもので、元の城は安政の東海大地震(1854年)で

損壊し、当時の物は御殿、太鼓櫓、蕗の門などが現存している。

外観は3層に見えるが、内部は4階建てとなって、全て木造で作られている。





安政の大地震で損傷を免れた太鼓櫓、当時は時を告げる為、
こちらで太鼓が鳴らされた.






天守閣の内部で、屋根の鯱と同型の物が飾られていて、その横で

うら若き女性が無頓着に鯱の真似をして寝そべっていた。

以前、芸妓がよく逆立ちをして金の鯱を演じていたのを、ふと思い出す.

内部には槍や甲冑などが展示されていた。





山内家より寄贈された甲冑


  

天主より見た掛川の市街

城の再建も最近はコンクリートでなされたものが多く味気ないが、此方は昔に習い

木で造られ壁は白漆喰で塗られているのに親しみを感じる。

天主を一廻りして、御殿へと向かう。




城から見る御殿全景

この御殿は1855年に建てられたもので1869年まで掛川藩で使用されたが、廃藩置県

と共に掛川宿に払い下げられ、聚学校として利用され、その後も女学校、町役場、

市庁舎など転用されてきたが、昭和55年に藩の政治や大名の生活が偲ばれる

城郭御殿としては、京都二条城など全国数箇所しかない貴重なもので

国の重要文化財に指定された。       掛川市教育委員会





大書院の棟

御殿は7棟からなる書院造りで部屋は20室あり、最も重要な儀式や対面を行う

大書院棟は主室の上の間と、謁見者の控える次の間、二・三の間からなっている。




大書院上の間、こちらで藩主が謁見を行った。
床の造りや襖等、比較的簡素なつくりであった。


次の小書院棟は藩主の執務室である小書院と、藩主の居間として使われた

長囲炉裏の間から構成されている。



藩主の執務室小書院





長囲炉裏の間


書院の裏側にある東棟には藩政を司る役所の目付・奉行などの役職の部屋、

警護の詰所、帳簿付けの賄方、それに書庫、御文証などがあった。

鴨居の飾り付けの金具や襖、畳など全体的に質素な感じをうけた。


この後、域内にある二の丸美術館をのぞいて見た。



二の丸美術館より見る天主





二の丸美術館

二の丸美術館では、鎧兜・刀剣・刀装具に見られる「武士の美」というテーマで、

戦国時代から江戸時代までの刀工や金工師達の造った武具の形や装飾に

日本の伝統的な職人技や機能美が展示されていた。

特に刀の柄の細工や刀の鍔の象嵌、他、印籠や根付に

精緻な美しい物が見られた。

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