鎌倉は小学校時代と高校の修学旅行で来たことがある。
今度は藤沢市の親戚が家を改築したので訪問をするついでに
鎌倉にも何年ぶりかで寄ることにした。
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鎌倉は武家の棟梁である家柄の源頼朝が伊豆で旗揚げし最初に開いた都である。
相模湾を南に山に囲まれた天然の城塞の様なところである。
貴族文化より禅宗を中心とした武士文化の発展した時代の都で、
当時の禅宗寺院・仏閣が多く見られ京都ような人工美が少なく自然と溶合っている。
訪れたところ
江ノ島ー腰越ー稲村ガ崎ー鎌倉大仏-円覚寺ー東慶寺ー浄智寺ー建長寺
ー鶴岡八幡宮ー寿福寺ー長谷観音ー鎌倉文学館ー杉本寺
長谷地区
1日目は親戚の車に乗せてもらい藤沢より南下し鎌倉の海岸線をおとずれる。
残念なことにカメラを忘れてしまった。 まず片瀬の江ノ島へ、松並木の海岸が
なんとも子供の頃の郷愁を思い出させてくれる。
島へは自動車専用橋が出来ていて、埋め立てが進み、駐車場やヨット基地で、
すっかり大きくなっていた。 島の真ん中には大きな鉄塔が建ち、何かと思ったら
灯台を建替え60mの展望台になっていた。
昔訪れた時は古い弁天様が祭られ、土産店等もありはしたが、信仰の場所という
雰囲気が残っていたが、今はすっかり観光が中心のよう。
江ノ島より海岸線を少し走ると小さい岬が見えた。 これが稲村ガ崎だと思ったが
腰越の岬だった。 やはり前に見たよりは、えらくちいさいと思った。
ここは義経が平家との戦で勝利をおさめ鎌倉に凱旋したが、
頼朝よりの使者により阻まれ、涙の腰越状を残し、引き返した処。
義経は、この岬より鎌倉を恨めしくながめたことであろう。
鎌倉高校前を通り七里が浜に来ると、波が高く、黒いスーツのサーファーが
盛んに波乗りを楽しんでいる。
右手に見ながら先へと進む。 高校時代の修学旅行の記憶が蘇る。
これが稲村ガ崎だ。 腰越の岬より大きな岬、やっぱりそうだ。
新田義貞が鎌倉攻めの時、この岬で祈りを込め剣を海に投じると潮が引き海から
侵入出来たと言う皇国時代の歴史の話で、子供心にかっこよく聞こえたものだ。
由比ガ浜では、更に波は高くサーファー達はテンションが上がる。
この辺りは、まだ素晴らしい砂浜が残り、素晴らしい風景が残っている。
対岸には逗子のホテルが夕日に光る。
長谷に入り左折して北上、長谷観音の入り口を過ぎ更に進むと
茂みの中に鎌倉大仏の高徳院が見える。
もう陽も傾き、駐車場も比較的空いていた。
院内に入ると、大仏の広場がやけに小さいのに驚き、以前には、
これだけ多くの木立ちがなかった感じ、しかし、樹を見ると高野槙や古木が多く
昔からの木立であることには間違いない。 当時は大仏だけに夢中でだったのだ。
やはり年齢とともに興味の対象も変わって行くのに気付かされる。
大仏は少し俯き加減で、真下に行くと丁度穏やかな尊顔。
合掌をして裏に廻る、記憶どうり大仏の体内に入ることが出来た。
背中にある窓から当時は外が眺められた。 今回は梯子が登れなくなっている。
寺の説によると、この大仏は阿弥陀佛で700余年前に僧の浄光が
勧進して建立したが1247年の台風で崩壊し、その後1252年に起工し
数年で再建したそうだ。 今は、大仏殿はなくなっているが、背景の小山や
木立と溶け合い、大仏の存在感が浮かび上がる。 本日はこれで終わることにす。
北鎌倉地区
円覚寺
今日は北鎌倉地区を廻るため藤沢よりJRで北鎌倉の駅で降りる。
大勢の修学旅行生が、もう大勢あちこちにみかける。
掃除をしていた小父さんに円覚寺を訊ねると、すぐ先の左手にあるという。
行って見ると円覚寺の碑があった。
この調子で手頃なロケーションに他の寺もあれば好都合なんだが。
若いもみじの緑に覆われた総門があり総門を潜ると階段へと繋がり流石鎌倉五山の
二位の寺院であるだけに壮大な三門が構えていた。
円覚寺総門
三門には大勢の旅行生がたむろしている。 こちらは迂回して仏殿へと向かう。
円覚寺は臨済宗円覚寺派の本山で、元寇による戦死者を慰霊する為に
時の執権北条時宗が中国より無学祖元を招いて1282年に創建したと言う。
三門
仏殿
この仏殿は震災で倒れたものを昭和39年に再建したそうだ。
本尊は釈迦如来が祀られ、珍しく宝冠を戴き、御身体の黄金が残り輝いていた。
仏殿の裏には、方丈や北条時宗の廟所などが続いている。
方丈
方丈の更に先へ行くと、時宗の廟所・開基廟が左手にあった。
現在のものは江戸時代に改築されたもので、時宗以外に貞時、高時も
祀られているそうだ。
北条時宗廟所門
北条時宗・開基堂
お堂の下には遺骨の入った石櫃が納められていると伝えられている。
正伝庵
円覚寺では膳の修道場があり在家の修行者を専門に受けつけているそうだ。
本山の中には他に舎利殿や国宝の梵鐘もあるが、
今回は諦め、見送ることにして東慶寺へ。
東慶寺
東慶寺は江ノ電の線路を挟んで反対側にあった。
この寺は円覚寺派の寺で駆け込み寺・縁切り寺として有名で、時宗の夫人が開き、
鎌倉時代、夫に苦しめられても離縁できない婦人を助けるため縁切り寺法の
勅裁をえて、この寺に逃れてくる婦人を救ったと言う。
参道
門構えもこじんまりと、石畳の参道が一直線に奥へ伸び、道の右側に主な建物が
配置されている。 寺内には菖蒲や牡丹、梅などの植木が植えられ、
茶室などもあって尼寺らしい雰囲気がただよう。
明治になって男僧寺に代ったそうだ。
入り口より見る本堂
本堂
本堂には釈迦如来が祀られている。
寺内の奥には墓所があり、著名人の鈴木大拙、西田幾太郎、和辻哲郎、高見順
など多数の文人が祀られている。
浄智寺
東慶寺を出て街道沿いに南へ進むと右手に浄智寺の案内があり、そこを入って行くと
木立ちに包まれた風情のある三門がある。 仕事衣を着た住職風の人がいたので、
場所を尋ね三門を見ていると、「近頃の人は、この額の字を反対に読んでいて
困ったものです。 先生が近頃は教えていないのですかねえ」とおっしゃる。
「宝所在近」:仏教の教えで「大事なものは探したってなく、自分の足元にある」
と言う意味だそうだ。 青い鳥は遠くにいなく、灯台下暗し、てとこか。
三門の額、宝所在近
三門の足元に井戸があり、ついでに訊ねてみると、鎌倉時代に天然痘がはやって
飲み水が汚染され、この水だけは飲むことが出来たそうだ。
それ以来、甘露の井と称し、名水として茶の湯などに利用されているという。
甘露の井戸
この寺は鎌倉五山の第4位に位置し、1281年執権北条時頼の3男宗政の菩提を
弔うため創建された。 森閑とした境内を行くと階段の上に釣鐘を持った真新しい
楼門があり、中国風の花頭窓を持ちめづらしい形である。
釣鐘を持った楼門
こちらは鎌倉七福神の一つ布袋尊が祀られ、シダなども生え鬱蒼とした山地である。
洞窟を見ていると、修学旅行の1グループが、道もない所から出てきた。
「何をしているの」と聞くと、「探検に行って来た」という。
大人には考えられない好奇心である。
洞窟前の布袋尊
建長寺
浄智寺より鎌倉街道を南へ歩くと建長寺の立派な真新しい石碑が立ち、
門構えもさすが鎌倉五山の1位の風格である。
こちらは北条時宗が、わが国、最初に開基した禅寺で1253年創建、
南宋の蘭渓道隆が開いた臨済宗建長寺派の総本山寺である。
総門、三門、仏殿、法堂、方丈と一直線に並ぶ禅宗の伽藍造りで、
それを多くの塔頭が取り囲んでいる。
建長寺入り口
総門から見る三門
三門
この門は1775年の建立で重要文化財に指定され、唐破風の屋根は
銅板葺き、屋根下に大額の建長興国禅寺の文字が輝く。
樹齢759年の柏槇木
仏殿の前には敷石道の両側に僧・蘭渓道隆が植えたと言われる7本の柏槙が
宋風の前庭を造り上げ、750余年の古木が主のような存在感を以って迫ってくる。
仏殿
この仏殿は芝の増上寺にあった徳川秀忠夫人の霊屋を建てかえた際
こちらへ移築したため禅宗式でなく寄棟となっていて天井も格天井となっている。
1647年の移築で需要文化財に指定され堂内には本尊の地蔵菩薩が安置されている。
仏殿・地蔵菩薩
仏殿のすぐ後には法堂があり、この建物は純粋の禅宗様式で平板な鏡天井である。
1814年に再建され当時には天井に絵はなかったが、平成14年創建750年を記念し
小泉淳作により禅様式どうり雲龍図が描かれた。
小泉淳作雲竜図
堂内には千手観音が祭られ、前には痩せた釈迦座像がある。
見覚えのある釈迦像と思もいきや愛知万博時に見たものだった。
パキスタンの好意で、こちらに寄付されたと言う。 パキスタン館に安置されていた
ガンダーラの激しい絶食修行をする仏陀像である。
ガンダーラの仏陀像
法堂を参り、更に進むと白砂の敷かれた所に唐破風の勅使門が見える。
もとは、仏殿の前にある中門で勅使が通る所であった。
勅使門
勅使門の裏手は方丈で、その背後には大覚禅師(夢窓疎石)の作と言われる
禅式庭園がある。 池には島を作り松を植えた単純なつくりである。
得月楼と庭園
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