吉良温泉から平瀬やな
09.8.8〜8.9愛知県吉良町


盆休みに、息子一家と吉良温泉へ出かけた。 この温泉は愛知県の南部、三河湾国定公園の先端に

湧出する温泉で江戸時代は吉良上野介の所領であった。 海の風景が広がり風光明媚なところである。

孫たちの希望から、海水浴場に便利な所と言うことで、こちらに決まった。


高速道路の割引で渋滞が予想されたが、知多道路は、さほどの混雑もなく走ることが出来た。

2時間弱で吉良町に入り海岸の方へ右折すると高台に出た。 三河湾が一望され、左手から

渥美半島の稜線が伸びて見える。 正面にはハンバーグの様な形の梶島が浮かんでいる。


高台を下りて海岸に目指す竜宮ホテルはあった。 フロントへ行くと、息子たちは

既に到着していて海水浴へ出かけたと言う。 昼前だったので荷物を預け、海の見える

ロビーで休憩する。 やがて、息子たちが、海水に濡れて戻ってきた。

孫は唇を紫色にしている。 余程長く海に浸かっていたのであろう。


昼食は一階のレストランで、カレーや海老ピラフ、中華そば等、各自が好きなものを注文した。

孫娘は寒くなったのか中華そばを頼んでいた。 こちらは、ハヤシライスを頼む。

甘い香りで子供の頃に食べた懐かしい味がした。 昔の唄を聞く様な感じで・・・




海岸より見る竜宮ホテル


息子一家は午後からも海に行くという。 こちらも付き合うことにして海へ。

海水浴場はホテルの前の並木を越えると、折からの太陽に輝き広がっていた。

孫たちは、あっと言う間に海に駆けていく。 海水浴場は防波堤に囲まれ堤防のない所は

サメ除けのネットが張られ、波も静かで安全な遠う浅の海岸である。 昔、吉良の殿様はこの辺りで

塩田業をさせていたのであろう。  吉良も播州赤穂と同じく海に面し、塩田では先進の赤穂を羨み、

余程、吉良公も製塩技術が欲しかったのであろうが、権力に頼り過ぎたのか、浅野家とは共に

亡ぶこととなり、人間欲が過ぎると、こんなことになると言うことである。




恵比寿海水浴場







防波堤の合間に張られたサメ除けネットと、息子らのビーチテント


孫たちの写真を暫く撮って、ビーチテントで、時々、心地よい浜風に涼んでいると、

孫娘が「お爺ちゃん! これ採れたよ!」と飛んできた。 見ると小さなビンの中に

貝が入っていた。  「これアサリ?」と聞くので、よく見ると確かにアサリだった。

「未だ一杯いるよ!」と言って、また行ってしまった。

目の前に見える梶島はアサリの有名なところ、春には大勢の塩干狩りで賑わうそうだ。

小さなのは、この浅瀬にもいると見える。



アサリを持って走る孫娘





梶島を背に遊ぶ孫たち




 


泳ぐよりアサリ採りに夢中?


こちらは、どうやら、飽きが来て家内と吉良の街へ出かけることにする。

吉良町は、吉良三人衆と呼ばれる吉良上野介の他に吉良仁吉と尾崎士郎がいたことで有名である。

その吉良仁吉は横須賀の源徳寺に葬られ墓があると言うので訪ねてみた。



源徳寺


源徳寺正門

門の前に、吉良仁吉墓所の石碑が立ち正面奥に本堂があった。

人影もなく、本堂左手に「任侠、吉良仁吉之墓」のたて看板があり、

五段積みの大きな墓があった。 清水次郎長が仁吉の一周忌に建てたと言う。

その隣には箱がおかれ、中には沢山の紅色の袋のお守りが置いてあり

見ると「必勝、かち勝石」、墓石を削らずに、こちらをお持ち帰り下さい、とあり、

勝負事に熱心な人達が、お守りに墓石を削って持ち帰るのを防ぐ為にもうけた

ものであった。 以前、遠州森町の大洞院に行った事があっが、こちらにも

仁吉と同じ侠客である森の石松の墓があり、墓石が削られて何代目かの墓石に

なっていたが、古い墓石を削った石を勝負や商売繁盛のお守りに売っていた。

こちらもやはり、ここ一番の競馬や賭けごと勝負の願掛けの人が絶えないようだ。

筆者は、一番当てようとの気持ちは、更々ないので念の為。



仁吉の墓

吉良仁吉(きらのにきち)は通称で、本名は太田仁吉と言い天保10年(1839)吉良町横須賀で

没落武士の子として生まれ、身体が大きく相撲に強く、相撲に勝ったことから喧嘩をして

「寺津の間之助」の世話になったことから侠客の道に入った。 間之助の紹介で「清水次郎長」

のもと18歳から3年間世話になり兄弟分の杯を交わす。 その後、故郷に帰って吉良一家を興し

西三河一帯の縄張りを任され、義理人情をわきまえ、義理の為なら命を惜しまない男と呼ばれた。


慶応2年(1866)4月8日、兄弟分の「伊勢神戸の長吉」が「桑名の穴太徳」 に縄張りを奪われ

仁吉に助っ人を求めた。 仁吉の妻は穴太徳(あのうとく)の養女、長吉に助勢することになり、仁吉は

妻と離縁し清水一家と共に鈴鹿・荒神山に乗り込み喧嘩は勝利したが、仁吉は敵の銃弾で亡くなる。

わずかな恩に報いるために、恋女房と別れてまでも戦に挑み亡くなって行った仁吉は、

任侠の鏡と称えられた。 享年28歳でった。



源徳寺を見て、吉良吉田駅の少し北へ上ったところに、吉良三人衆のもう一人、尾崎士郎の

記念館が旧糟谷邸の裏庭に併設されてある。 時間もあるので、こちらへも立ち寄る。

町立図書館の横をぬけて糟谷邸の裏庭右手に白い記念館と東京の書斎が移築されていた。

入場者がいなく、管理人の人が、お急ぎでなければ、ご説明しますと言うので、

こちらは、急いでもおらず、お願いすることにする。


尾崎士郎記念館


 尾崎士郎は1898年横須賀の裕福な商家の三男としてに生まれ、父は自宅が郵便局で局長をしていた。
 愛知二中より早稲田大学に入学し、雄弁会に入り在学中から山川均らの社会主義の道へと進む。 20歳
 の時、郵便局を継いだ兄が公金横領でピストル自殺したことから一家は没落し、月謝滞納等から退学除籍
 処分となる。 1921年、時事新報の懸賞小説「獄中より」で第2席に入選、本格的作家活動に入り第1席を
 とった宇野千代と結婚するも、不縁となる。 その後、古賀清子と結婚、一女をもうけ、1933年、都新聞に
 「人生劇場」を連載。 内田吐夢監督による映画化「人生劇場」が評判となり、2年後、川端康成の激賞から
 ベストセラーとなる。 1937年には川端康成の「雪国」と共に「人生劇場」が文芸懇話会賞を受賞する。
 
 戦時中はペン部隊として中国やフィリッピンに従軍、戦後は横綱審議会や外交問題懇談会、池田内閣の
 人造り懇談会などの委員を務め、1964年、腸癌で永眠す。 享年66歳。



記念館には今までの足跡の書籍が展示され、彼が使っていた帽子、鞄など日用品の展示もあり

士郎の写真パネルや、大佛次郎など作家仲間との写真、原稿など。 親しかった武者小路実篤や

小説の挿絵を描いた中川一政の書などが展示してあった。 


士郎は大商家であった一家没落後、故郷を離れ、彼の自叙伝とも言われる「人生劇場」は28年を要した

彼のライフワークとも言える作品で、仁吉をはじめ郷土からうけた影響が大きいと言われ、武者小路実篤は

尾崎士郎を 「多くの人を愛し、多くの人に愛され、ずばり真情を吐露する男」と評している。


人間関係の希薄になった今の社会、士郎の求めた素朴な義理人情の重要性が痛感される。

情がなければ、この世はすさび 義理がすたれば情けも消える。



糟谷邸案内


旧糟谷邸は250年前の18世紀前半の建物で、糟谷家は当地きっての大地主として木綿問屋、金融業、

肥料、日用雑貨の卸小売で財を成し豪農、豪商であった。 領主・大河内松平家の御用商人を務め

苗字帯刀を許された。 建物は主屋、長屋門、土蔵、屋敷神、茶室、庭園と富裕階層の生活が窺える。



裏庭





主屋





店部、番頭のいた商い場




煤で年代の古さと重厚観がある





座敷より見る庭





座敷床




数寄屋造りの表千家久田流茶室





前輪ぺタルの自転車と人力車

使われている材料が素晴らしく今では手に入らない様な見ごとなものが使用され

これだけの建物が都会にあれば、かなりの見学者をひきつけようが、残念かな

訪問者は我々だけで少し寂しい気がする。 

丁度、時間も来たので、ホテルへ戻ることとする。



部屋より見る三河湾


4時過ぎにホテルに着いたが、息子達は未だ、帰っていなかった。 五時過ぎになって帰ってきた。

えらく遅かったな〜 と聞くと、息子が、これ〜 と ビニール袋を差し出す。

見るとアサリがぎっしり入っていた。 どうやら今日の日当が出たようだ??

さすが、名に聞くアサリの産地である。


風呂へ入り、6時過ぎより夕食が始まる。 料理は海辺だけに海老や魚の海鮮もの、

鯛しゃぶが、さっぱりしていて年寄りには打ってつけ、酒も弾み、孫達がいなくなったと思ったら

1階で抽選会があったとか言って、兄孫が大きなダチョウの卵の様な金の玉を抱えて帰って来た。

開けて見ると、中には小さなオモチャや駄菓子がぎっしり、孫娘は1等が当たったと得意顔。


 聞いて見ると阿弥陀籤を引いて、鐘が鳴ったのでびっくりしたと言う。

孫娘が、おもむろに出してきたのは1等賞の金券(1000円也)であった。

売店で好きなものを買えるという。 孫達には素晴らしい一日であった様だ。

こちらも、いい気分で、どうやら食堂には料理皿の模様のように残るは我々ただ一組。

そろそろ引き上げるとするか。  仲居さんが、ごゆっくりどうぞ! と言うが・・・

気持ちを汲んで、やはり引き上げることにする。 仲居さん!ありがとう!


部屋に戻って、明日の行き先をどうするか、話しあう。

兄孫が鮎が好きと言うので、鮎簗は如何かと聞くと、兄孫が飛びつき、一挙に決まり。

明日は海から山へ、下山のヤナに行くことになる。



部屋より見る朝焼け雲

朝起きると、少し雲が出て空模様がおかしい、兎に角、行って見ることにする。

ヤナは豊田市北部の三河高原の巴川にある。 食事を済ませホテルの皆さんに見送られ

ヤナへと出発。 幸田町から岡崎に出て額田に入ると、すっかり山間となり三河高原へ向かう。

走ること2時間半、平瀬ヤナに到着したが駐車場が一ぱいで、一つ手前の駐車場に留める。

やはり夏休みで川遊びの客が多い。 ヤナに入るが、列を作って順番を待っている。

鮎の掴み取りは、拡声器で順次呼び出している。 兎に角、列に並び、鮎の塩焼き定食と

掴み取りの切符を購入する。 掴み取りは1500円以上で、一匹500円で買い取る仕組み。

どうやら、鮎は落ちて来るのではなく、上手で注文者ごとに生簀から流している様だ。


見ていると、注文通りの数の鮎が巧くヤナに流れてくる。 魚の習性か上って行く鮎は

ない様で、巧くヤナへと流れ商売が能率よく仕組まれている。 

よって、注文した鮎は必ずその数を掴める様になっている。


やがて案内のアナウンスがあり我々の掴み取りが始まる。 6匹の鮎を頼んだが

僅かの間に、孫どもが、あーという間に掴み取ってしまった。 

面白うて やがて悲しき 鵜飼かな 芭蕉



川遊びをする客





鮎やな、右手より鮎が来る。





掴んだ鮎は塩焼きにしてくれるが、暫くのおあずけで、待ちぼうけ。


やがてお待ちかね、塩焼き定食と掴んだ鮎が串に刺されて鰭を伸ばし

狐色に塩梅よく焼かれている。 やっと食事にありつき 全員乾杯!!

こんがりと焼かれた鮎は、香ばしく、塩加減も看板どうり巧く仕上がっていた。

孫たちも、鮎の掴み取りもできたし、腹も膨れて満足げ。

大人どもも、どうやら腹もおさまり、家路につく。

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