韓国・世界遺産U

05.5.17〜5.20



    海印寺を出て、この辺りは山が多く、水の引かれた田んぼが一面に続き、水鏡の様に
          白い雲を映す。

    所々、農作物のハウスが見られる。  バスは忠清南道の高速道路をブンブンとばす、
        皆さん疲れたのかすっかり、寝入ってしまった様だ。  日が西に沈みかけた頃、大田市
         (テジョン)に着いた。

    大田は人口140万の韓国五番目の都市で、科学EXPOを開催したこともある。
    
    今夜のホテルは ユソンホテル http://www.seoulnavi.com/hotel/hotel.php?id=3031

    ホテルは洗練されていて、ビジネスマンも見かけ感じがいい。 

    荷物を置き、夕食は近くのレストランへ、ぶらりと出る。

    ハイテク関係の会社が多い為か、店も清潔で何処かあか抜けしている。

    テーブルに座ると、シャブシャブが出てきた。 肉は脂のないもので薄くスライス
    されて
いる。

    見た目、美味そうには見えなかったが、胡麻だれを付けて食べると、これが美味かった。

        ホテルは温泉で、昨夜は風呂へ入った後、体がほてり寝つけなかった。

    しかし、このホテルと、シャブシャブは、もう一度来てみたいと思った。


      

                     朝の YOU SUNG HOTEL


 水原へ ホテルを出て高速道路に入ると、やはり水田が続き、田植を待ち受けるかの様だ。

       水原(スウォン)への途中、鎭川の大清ダムの側に旧大統領別荘・青南台が公開

               されていている。


         

全 斗煥大統領が現役時代に造られ
国会で問題となり、盧 武鉉大統領の時
忠清北道に払い下げられた。

広大な敷地の中に、ゴルフ場やプール、
釣り場、茶室を持ち本館は内部が宮殿
造りで、撮影禁止となっていた。

左は本館の外観。







     この後、京畿道に入り、水原市に到着。  水原市は人口100万の都市で、1794年、
          朝鮮王朝の正祖王が築城して新都市を造った。 

              これが世界遺産・水原華城である。

      周囲5.5kmの城壁で、近代技術を用い、城郭の建物が一つ一つ違い、夫々特徴を
       
             持っている。

      この城は正祖が王権党争で悲憤の死をとげた父の霊をおさめる為、墓の移築と併せ

      王権の強化を図る為、城と街まで移したと言われる。
      

水原城には、三国志に出て来るような、
黒ぽい旗が初夏の風になびいていた。

何にか中国にいるよう。

左、長安門、華城の四大門の内一番
北側にあり、事実上の正門、城門の

外側には半円形の城を築き城門を
攻め難くしている。









長安門は二層の楼閣があり、国の安泰

を祈り長安門と名付けられたそうだ。















北西敵台、

城の外に城壁の一部を突出させ敵を
側面から攻撃できる様、工夫された所

ここにも黒い旗が見える。













華虹門

華城には南北に水原川が流れ、
城と交わる所に水門を設置した。

7つのアーチ型の門を造り、水量の多い時はしぶきが上がり虹を掛けるという。












北西砲楼

雉城の上に楼閣を持った建物

* 雉城とは雉の様に身を隠し相手
   を見張る事の出来るという意味












将台

将台は東西二つあり、将兵の
訓練を司る所
















城壁に沿うて市内を一周する龍の
華城列車

平和でなによりの風景。












     ソウルには北漢山城と南漢山城とあるが、この城は技術と質のレベルが高く、

     当時、清国の占領下で、これだけの城を築いたのが不思議に思われる。

     よほどの屈辱感を味わい、密かに事を進めたのであろう。

     その後、清国が日本に敗れたのも当然かもしれない。


     

ソウルへ 水原市を出て高速道路へ、やはり、ソウルへ近づくと高層ビルが目立つ。 

         8年前と比べると随分増えている。  

         やがて、蚕室(チャムシル)にはいり、ロッテデパートで買い物となる。

         こちらは用がなく、ちらり覗いて、ロッテホテルの方へ行く。

         と言うのは、以前、いた時、此方の大学の先生の還暦祝パーテイーに、

         オープン早々のこのホテルに招待されたことがあった。
      
         地下駐車場よりロビーに出て、吹き抜けの大きさに驚かされ、ソウルにも、

         凄いホテルが出来ものだと、当時思った。 

         最近は韓国映画で、このホテルでの場面がよく見かけられ、当時が

         懐かしく思い出される。

         堂やら買い物の時間も終わり、ホテルへと向う。  

         漢江を渡り、梨泰院(イテウォン)で骨付カルビの夕食を取る。  

         この辺りは小さな店が並び、アメリカのキャンプがあった為、アメリカ人が多く、

         ここを通ると店の若いアンちゃんが、日本人と見るや、部長サン!、社長サン!

         と呼びかけ、活気があった。 肩書きが最低、部長サンには、思わず笑った。

         今はキャンプが引っ越したらしく、寂びれていた。

         食事を済まし、南山トンネルを抜けて太平路に出る。  

         景福宮より左手に折れ、青瓦台の裏にあるオリンピアホテルに到着。

         今夜は此方で、
        
          オリンピアホテル  http://www.seoulnavi.com/hotel/hotel.php?id=34

        設備が完備され、綺麗な庭で、部屋から北漢山の眺めが素晴らしいホテルである。

        以前はラマダ・オリンピアと言っていたが、アクセスの悪さが不人気なのか、ラマダ系が

        手を引いたようだ。
   
        フロントが一人で、随分合理化している様だ。  しかしサービスは充分のものだった。  

        ホテルのショップのママさんが、何か買って欲しいと盛んに言うので、あまりにも高いよ

        と言うと 堂にも、ならないらしく、こぼしていた。


         

                                 ホテル・オリンピア玄関前





         

部屋よりの北漢山の眺め。

昨夜、東大門へ買い物に出かけたが、
行きはホテルの

ハイヤーで行ったが、帰りは地下鉄で
東大門より四号線に

乗る為、販売機で切符を買おうと、
もたもた、していると、







   
    若いお嬢さんが、見るに見かねて飛んで来たのであろう、親切に教えてくれた。

    硬貨がなかった為、両替までして貰った。

    この所、竹島問題で日韓がギクシャクしているので彼女の親切心に胸が熱くなった。

    *韓国の地下鉄切符はヨーロッパ方式で最初に行き先の金額を入力し、その後、

       コインを入れて行く、
引き算方式となっている。

    地下鉄に乗り吉音(キルン)で降りたが、タクシーが捕まらず、やっと乗りこみ

     ホテルに戻る。


    
今日で旅行も最後、朝食を済まし

鐘路の歴代李王朝の廟所である

世界遺産の宗廟
へ行く。

左は宗廟の門で、日本の宮城前

の様な松が植えられ公園の様な

広場があり
朝、早くから失業者







     なのかベンチに腰を下ろし、ぼんやり我々を見詰めていた。

     韓国も雇用情勢が日本同様厳しい様だ。  中に入るとカササギがいた。

     日本ではあまり見かけないが、九州には、いるそうだが韓国ではよく見かける。

    宗廟は朝鮮王朝時代の歴代の王と王妃の位牌が祭られ、敷地には宗廟の正殿を始め永寧殿




                                                            功臣堂、香大庁等の建物がある.
                                      
左は正殿で善政の王と妃が祭られ

その他の王と妃は永寧殿に祭られている。

歴代国王の内、燕山君と光海君の

位牌は暴君として外ずされている。

功臣堂には83人の功臣が祀られている。

この宗廟は1394年朝鮮王朝がソウルに

遷都した時造られ1592年豊臣軍の


  侵攻で焼失した。


  1608年に再建された。正殿は横に長く110mあり華美を押さえシンプルな美を表現している。

  朝鮮王朝時代は春夏秋冬の最初の月と12月に祭礼を行っていたが、現在は毎年5月に儒教方式

  に則り祭礼を行い、その祭礼樂は無形文化財となっている。

  帰りがけ、香大庁の方より雅楽が聞こえ、ガイドがこれが祭礼樂だと言っていたが、日本の

  雅楽の旋律と同じなのに驚いた。  日本のものは唐より朝鮮半島を通じて伝わったものを

  ヒュ−チャ−した物だと思っていたが、3・4年前、天皇誕生日に、天皇が、”桓武天皇の生母が

  百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されている事に韓国とのゆかりを感ずる”

  と言われたことを思い出し、やはり韓国と同じで納得できた。

  通常、先進文化に憧れるのが自然ではなかろうか。

  明治政府の時期、富国強兵、国の威信と体裁を造る為、神道を国教化して廃仏毀釈をしたり、

  都合の悪い歴史や伝統は省かれてきた。特に日韓関係は併合の為、その影響が多かった様だ。

  宗廟を出て、景福宮の前より西大門を通り、延世大学前を走って幸州に出る。

  幸州には砦があり秀吉軍が攻めてきた時、砦より女性たちが石を落とし秀吉軍に抵抗したと言う。

  やがて、漢江と臨津江の合流地点の統一展望台に到着。 

  これで韓国を南から北まで走った事になる。

  統一展望台は小高い高地の上にあり、昔、百済と高句麗が主導権を争った歴史的な軍事要所で

  1992年に南北統一を願って建てられた。  現在は南北の境界線となっている。


      
                                                館内には北朝鮮の軍事、産業、生活実態等の

展示がされている。

左は北朝鮮にいる家族や亡くなった祖先に

対する石碑で、毎年8月15日には、大勢の人々

が北に向って、お祈りをする。

他でもないが土産物を買うのであれば、ここで

買うとよい、公営でぼられることもなく定価で


   値打ちに買える。   特に民芸品等はお値打ち。



 


       展望台より見える北朝鮮、左手よりの流れが漢江、右手からの流れが臨津江、正面で合流して

   西海に注いでいる。   当日は天気が良く、実に雄大な眺めだった。


  予定通り韓国の新緑と田園風景を堪能し、中でもニセアカシアの花の盛りに出会え、韓国に、

      これほど多く,この木あるとは思わなかった。

   最後にイムジンガン(臨津河)の歌の一節を披露し旅を終えるとしよう。

    ”イムジンガン水清く、静かに流れ、鳥は河よぎり自由に飛び交う
         ふる郷へ何故に帰れぬ、 イムジン(臨津河)の流れよ答えておくれ” 
             
                               ♪南北分断の悲しみの歌♪


 おまけ 
   *武寧王は百済25代目の王で517年に日本へ五経博士の段楊爾を遣わせ儒教を伝えた。
    又、武寧王の子、聖明王は538年仏像と経本を伝え、僧侶をも派遣してきた。
    1971年に韓国で武寧王陵が発見され、金の王冠飾りを初め副葬品が発見された。
    その中に王と王妃の墓誌まで見付かった事により、王陵では始めて人物の特定でき、生没年
        まで(461〜523年)判明された唯一の例となった。
  *桓武天皇の生母は高野新笠といい武寧王の子、淳陀太子の子孫と言われる和乙継が父である。
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