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草津白根山と軽井沢
04.10.14ー04.10.15


今年は、温暖化の為か上陸する台風が多く、快適である秋も、すっかり天気が乱されて
しまった。
とうとう、痺れを切らし、出かける事にした。

行き先は上信越国立公園の秋をねらって。

朝の予報では東海地方は晴れとの事、息子の東京出張で、何時になく家内が

早起きで、7時に出発する事とした。

中央高速道に出ると、仕事場への車か、トラックやライトバンで混んでいた。

瑞浪を過ぎると、その車もめっきり少なくなった。

天気予報は何処へやら、恵那山は雲の中、山々は見えない。

恵那トンネルを潜りぬけると、長野側は更に雲が多く、南アルプスは裾野が見える程度。

ひきかえ、道路状況は良く、カーブ、とアップダウンは少なく、

トンネルを貫ける前とは違い、車は快調に進む。

駒ケ岳SAで休憩する事にする。

SAより見た木曽駒、上は紅葉が進んでいるようで紫ががって来た。


一休みし更に北上、岡谷ICで降り、諏訪湖を右に見ながら142号線を進む。

 昔と違い新和田トンネルが出来たことにより、20号線をバイパスできる事になり
随分楽になった。

下諏訪を通り和田峠のトンネルを一挙に貫け、一路、佐久へ向けまっしぐら。

 立科町を貫けると、佐久の道標を見つけた。
佐久市はかなり広い様、走れども走れども、佐久がつづく。

やっと中山道より北国街道に出る。
こちらは大分、雲が厚く、この分だと浅間山は拝む事が難しそう???

軽井沢に近かずけば、近づくほどガスが出てきた。

追分宿を貫け中軽井沢より、新軽井沢に入ると林が増え、会社の保養所や
別荘、テニスコートがポッポッと目につく。

やっと、旧軽井沢に到着、旧軽ロータリーの先の駐車場に止まり、散策とする。

旧軽井沢銀座


旧軽銀座はロータリーから続いていた。

夏の姿を写真で見たのとは違い、どんよりと曇った鉛色の空に人気の少ないその通りは

軽井沢とは思えない、何処か東北の町に来ている様に思えた。

老舗のパン屋や、ジャムの店、小さな店が連なっていた・・・・

ぶらぶらと歩く、彼の有名な、天皇と皇后美智子様のロマンスを撮った
土屋写真店があった。

中を覗くと、美智子様の写真がイッパイ・・・・・



 土屋写真店


200M程の通りは、やがて店並が無くなり、おり返す事とする。

駐車場に戻り、旧三笠ホテル(重要文化財)に向う。

道は両側、林に囲まれ静かな別荘地帯となり、所々細い道が林の奥深く続いている。

暫らく走ると、右側に見えた。

直ぐ先に駐車場があり、そこに車を止める。

三笠通り


三笠ホテルは明治後期に造られた木造の洋風建築であるが
窓枠等は和大工の匂いを残している。

屋根には望楼を持ち、鹿鳴館の雰囲気を漂わす。

ここは、明治政府の重鎮や貴族旧財閥の要人がよく利用したと言われ往時を
覗わせる。

庭の紅葉が一際栄え、印象的だった!

旧三笠ホテル


                                   
三笠ホテル望楼


旧ホテルを出て、三笠通りを北上、別荘地帯を通り、
白糸ハイランドウエー終盤の白糸の滝による。

こちらは、駐車場のスペースも小さく、夏場には、とても混雑して、
大変そうで、秋に来て正解のようだ。

ゆったりと、拝見させてもらう。

駐車場より渓流に沿って小道を登ると、直ぐ滝が見えた。
何と可愛らしいもので、あった。

白糸の滝と言えば、富士宮市のものを、思い出すが、スケールが小さく
高さが2・3Mのもので、日本庭園を見ているようである。

あまり大自然を意識して行くとガッカリ、日本庭園を見るつもりで、又楽のしい。

白糸ハイランドウエーより鬼押しハイウエーにでると、
浅間山の展望がいい所があるそうだが、今日は天気が悪く
146号線を通って、浅間牧場により、草津に向う事にする。

北軽井沢の別荘地帯の雑木林は黄色く紅葉が始まっている。

浅間牧場に寄るも、家畜は牧場には見ることが出来ず、雲の垂れ込めた
草原に新しく造られた白い柵と、ススキの黄色がやけに目立っていた。

146号線を走り、長野原より嬬恋村に近くなると、先日の浅間の降灰の仕業か、
傷んだキャベツが、沢山、畑に取り残されていた。

浅間牧場


146号線より292号線を、暫らく走ると、草津町に入った。

ナビを頼りにホテルを探すが、細い道路に入りこみ、近くの人に場所を訊ねる始末。

何とホテルの周りを一周しているではないか、 一筋はやく左折をした為、こんなことに・・・

ホテルにチエックインして、フロントで、めぼしいスポットを聞き、街に出かける。

まず、その一つは湯畑(湯元)、ホテルの裏側で、温泉街の中心地だった。

湯畑の廻りをホテルや飲食店、土産物屋が取り巻いて、辺りは湯気の中!!

この様子じゃ、こちらでは源泉かけ流しでない風呂は、先ず無かろうネ??
 他の温泉場と違い!

”草津よいとこ、一度はお出で、お湯の中にも・・・・”と草津節を思い出す。
若い時代、酒宴で歌われた通りの風景!  懐かしい!!

湯畑


湯を噴出す岩が湯の花で黄色くなっている                 湯畑と温泉街       ブルーグリーンは湯壷のお湯                                                     



湯揉みショウが有ると言うので行ってみると、四時半からとのことで諦め
一廻りして、西の河原公園(湯元)に行くことにする。

狭い賑やかな温泉街の道を抜け、広い通りにでて、間もなく、
松林の山地に入ると、そこが公園だった。







西の河原公園、渓流と思いきや湯が流れ、ゴロゴロと不揃いな岩がころがり、
あちこち、河の中から蒸気を出して、秋夕刻の幻想的な雰囲気に浸る。
さすが天下の湯!  湯量の豊富さに驚く!



自然が造ったのであろうが、まるで庭園の様。
この奥に、草津一と言われる、池のような大露天風呂が広がっている。

彼方此方に噴出す湯元を散策して、ホテルに戻る。



嬬恋高原144号線より見た浅間山


昨夜の湯は酸性で、皮膚をピチピチと刺激し、湯上り後も、身体がぽかぽかしていた。
すっかり疲れが取れるのかと、思ったが、そうでもなかった。

朝、家内と食事をしながら白根山の話をしていると、隣の席の夫婦連れのお客が
話してきた。
” 白根山に行かれるのですか?私達は昨日行って来ましたが、ガスで駄目でした”
とのこと、 ”どちらからですか?” と聞くと、樫原市から来たと言う。

”樫原神宮へ4・5年前に言ったが、子供の頃に行った時とちっとも変わっていない”
と言うと ”子供の時って、何時頃ですか”と聞かれ、昭和15年の
紀元2600年大祭のとき”と言うと、
”私は生まれていない”との事で、大笑い!!

どうも近頃は、自分の年齢を若い様に思っているが、そうではない様だ。

部屋に帰りテレビをかけると、昨夜の雪で、渋峠が凍結で通行止めとアナウンス。
コリャ大丈夫かなと思いきや・・  フロントに聞くと、白根山への道も通行止めと言う。
9時にもう一度確認するとのことで、暫らく待つが、結局駄目だった。

予定を変更し、浅間山の麓の鎌原観音(日本のポンペイと言われる)と
真田氏ゆかりの上田市と真田町に行く事にする。

292号線より59号線に入り、笹平より鬼押ハイウエーに入ると、直ぐ鎌原観音の
案内が見えた。

大きい駐車場が二つも有り、既に観光バスが二台も止まっていた。

観音堂と残った石段、赤い橋の下に35段埋まっていた


ここは日本のポンペイと言われる所で、嬬恋村の説明に寄れば、
天明の浅間山の大爆発(1783年)で鎌原村は浅間山麓の拠点的な集落であったが
噴出した岩石で一瞬の内に埋まってしまったと言われ、477人の人が亡くなり、
生存者は93人だったとされる。

昭和54年に観音堂の石段の発掘調査がなされ、その段数は全部で50段、
その内35段が埋没し、土石層の厚さは、6M前後と判明した。
その時、二人の被災者の白骨が発見された。

浅間山の大噴火は、群馬県内は勿論、全国的にも社会的、経済的、政治的に
影響をあたえ,天明の大災難として伝えられている。

1815年に被災者の菩提を弔う為に建立された石碑


鬼押しハイウエーより144号線に出て、浅間山を左に嬬恋高原をまっしぐら。
ヤットコサ!鳥居峠を越え、真田町に入った。
144号線から左に五分程入った所に、真田氏発祥の地が有った。


真田歴史館、真田三代の資料が展示されている


こちらは真田氏館跡公園として整備され、真田氏の上田築城以前の館があった所で
中世豪族の居館の形態が保存されており、当時の土塁が残っている。
当初は真田信綱の為に建てられたが、長篠の戦で戦死してから昌幸が
上田城を築城するまでの間、住んでいて、この周囲に武士や商人が
城下町を形成していたと、いわれる。



次ぎは真田城の上田市へと向う、144号線にでて、南下し18号線を北西行くと
上田城の標識が見えて、直ぐ到着した。


上田城櫓門よりの南櫓                  本丸東虎口櫓門  


この城は二代目真田昌幸が天正11年(1583年)に周辺の上杉、北条、徳川といった
強豪の狭間で生き残る為に造られ、石高は10万石足らずであるが、
上田から沼田までを治めた。

1585年と1600年の二度にわたり、徳川の大軍と戦った昌幸・幸村親子は有名である。
その後、大阪夏の陣の後、1622年に真田氏は松代へ移封となる。

現存する三つの隅櫓は真田氏の後、城主となった仙石氏が
1626年に再建したものである
。    上田市


城址公園の中には博物館があり、真田、仙石、松平と三時代に渡っての具足や絵画、
書等が展示されているが、真田の展示品が少なく、

これは真田信之の時代に松代(長野市)に移封された為でもあろうが、

松代の真田宝物館の展示の方が目を見張るものが揃えられている。



西の櫓より見た上田市街



城散策の後、時間があるので、信濃国分寺に寄ることにする。
国道18号を東へ上ると、道沿いに大きな案内があり直ぐ見つかった。

こちらは聖武天皇の奈良時代に信濃国の鎮国道場として建立され、元は向い側に
建てられていて、奈良東大寺や平城京の影響を受けていたようで

その後、寺の衰えと共に、土地の民衆によって、鎌倉時代に
現地に再建されたと言われ、今はそう大きくない本堂である。


信濃国分寺薬師堂(本堂)



信濃国分寺三重の塔
室町中期に建てられたと推定されており、高さ20M、国の重文指定






時間も過ぎ、帰りがけ又、駒ケ岳SAで休憩する事にする。
黄昏の空に、南アルプスの仙丈ヶ岳が夕映えに栄えていた。

今度の旅は異常気象にたたられ、白根山、横手山と行けなかったのが心残りになった。

それにしても、今年の台風の数、降雨量、夏の初めからの異常高温等、
地球温暖化による世界の気象条件の変化だと、言われているが、

人間の競争意識から来る地球資源の急激な奪取に依るものであり、
何時か突然取り返しの付かない状態が来るのでは?

もう少し、我々の消費も地球の回復力に合わせた生活に
頭を切り替える必要が急務ではなかろうか。

お終い

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