京都・東山地区
08.4.15

京の桜も終わりを向え、東山の装いも若葉へと移りかえたようである。

これから5月に掛けては、暑くもなく寒くもなく、外歩きには最高の季節。

今日は東山区7条の三十三間堂から4条の祇園界隈まで、そぞろ歩きを楽しんだ。


散策コース(徒歩4時間)

三十三間堂―豊国神社―方広寺―耳塚―六波羅密寺―建仁寺八坂の塔

石塀小路―高台寺―ねねの道―四条通り―祇園白川―祇園新橋通―祇園花見小路



国宝三十三間堂(蓮華法院)

三十三間堂(蓮華法院)

この界隈は平安末期、後白河院のあったところで政治文化の中心地であった。

三十三間堂は、正式には蓮華法院とよばれ、平清盛が1164年、後白河上皇の命により造営され

五重塔など諸堂が多く隆盛を極めた。 その後、焼失し現在の本堂は1266年再建されたものと言う。

全長は121mあり正面の柱間が33あることから三十三間堂と呼ばれたそうだ。

かつて宮本武蔵が吉岡伝七郎と決闘をした廊下もそれらしい雰囲気を持っている。


境内は季節がら修学旅行生が大勢いて結構な賑わいである。 

中に入ると千手観音像が竹林の様に並び圧巻、願わくば参拝者が少なければ更によかったろう。

残念ながら撮影が禁止されていて撮ることができず、瞼に残すこととする。

流石に700年の時間を経て檜の大柱は参拝者の手油で黒光りし、実に風格を感じる。

昔は極彩色に塗られていたらしく天井や壁に漆喰下地が残り微かな色を留め歴史を伝えている。

堂内の中どころに一際大きい十一面千手観音像が鎮座していて

湛慶(運慶の子)の作と言われ檜の寄木造りである。 左右には500体づつの観音菩薩を従え、

全てで1001体の菩薩像。 それらを躍動的な姿態で国宝の風神・雷神像が護っている。

更に前列にはインドの神々である28部衆像のリアルな動き、その表情の豊かさ。

鎌倉彫刻の素晴らしさに惹きつけられる一時である。


全長は121mの濡縁廊下

三十三間堂は長さで有名であるが、江戸時代にはこの廊下で各藩の弓術家により通し矢が競われた。

今では大的全国大会として西側の特設射場で60mの遠的競技が行なわれるそうだ。

この敷地はもともと後白河上皇の建てた離宮・法住寺殿の一画だそうで、

南面の築地塀と南大門は豊臣秀吉の寄進のものだそうだ。

三十三間堂を出て、7条通りを横断すると、そこは洋風宮廷様式の国立博物館がある。

博物館の西、大和大路を北へ行くと博物館の先に大きな鳥井が右手に見えて来る。



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豊国神社

豊国神社

石の階段を上り鳥井をくぐると、そこは豊国神社、豊臣秀吉が祀られている。

1598年63歳で亡くなり豊国大明神となる。 遺骸は神社後方の阿弥陀ヶ峰の中腹に葬られたが、

豊臣氏滅亡後は、その廟社は徳川幕府により取り壊されたが、1880年に

当地に社殿が再建され、廟所も阿弥陀ヶ峰の頂上に再建されたそうだ。

何時の時代も権力争いにより歴史は塗り替えられて行く。

社殿は金細工の装飾がなされた豪華なもの、やはり太閤らしい。

豊国神社の直ぐ北側に梵鐘が見える。 

神社にしては可笑しげなと思うが、国立博物館からこの辺りは

元は方広寺の敷地内で、ご本尊の方広寺は、今ではお粗末な本堂が残るだけであるが・・・



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方広寺

方広寺本堂

方広寺は豊臣秀吉が1586年に建立した天台宗派の大寺院であった。

奈良の大仏を真似し、それより大きい高さ49mの大仏殿が造営したそうだが、

地震により倒壊し、哀れに秀吉はその落慶法要もできずに亡くなったそうだ。

その後、秀頼により再建されたが火災で消失し、当時のものとしては梵鐘だけが残った。

この梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が有名な豊臣家と徳川氏の争いの元となった。


秀吉の死後、1614年大仏殿の再建と梵鐘が造られ、南禅寺の禅僧に銘文を起草させ落慶供養を迎えたが、

家康より銘文について「家と康を分断し豊臣を君主とするものだ」として開眼供養の中止を求めた。

これが、世に言う「徳川家康の豊臣つぶし」であったと言われている。


国家安康の銘文のある梵鐘

左上の白い枠に「君臣豊楽」「国家安康」の銘文がある。

鐘楼の天井には絵画も残り、珍しく大きな梵鐘で現在の方広寺本堂の規模からは不釣合いに大きい。

又、国立博物館より方広寺まで続く石塁が途轍もなく立派なのに驚く、当時の方広寺の隆盛ぶりがうかがえる。


豊国神社の門前、大和大路を挟んで西に古墳状の盛り土をした耳塚がみえる。




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耳 塚

耳塚(鼻塚)と五輪塔

此方は秀吉が朝鮮に侵攻した文禄・慶長の役(1592〜1598)で、朝鮮・明の兵士の耳や鼻をそぎ、

塩漬けにして日本に持ち帰ったものを葬った塚で、当時は戦功の証として身分の高い者は首を

足軽など身分の低いものは鼻(耳)を持ち帰ったという。 何れにしても残酷な話である。


徳川の世になり朝鮮との国交も回復し朝鮮通信使を迎え、時代によって大徳寺、本国寺、本能寺など、

その宿舎は変わったが、方広寺での迎えの時、寺の前にある耳塚を隠す為に幕府接待役は奔走したと言う。

しかし、耳塚は朝鮮の知るところであったそうだ。 今でも権力者の考え一つで酷い世界をもたらしている。


耳塚の前では修学旅行の生徒達が耳塚の歴史について先生よりの話しに耳を傾けていた。

彼らもさぞ驚いたことであろう。 世の平和は何時来るのやら・・・


耳塚より大和大路通りを北上すると5条通り(1号線)に出る。 

そこを横断して、道路工事のガードマンに六波羅蜜寺を尋ねると、ぶっきらぼうに「縄手通りを真直ぐや」と言う。

「縄手通り」がわからず確認すると大和大路のことだった。 何か今一つはっきりしない感じ??

大和大路を北へと歩く、しかし、京都の道は歩きよく飽きないのが何よりである。

暫くして、出会った小母ちゃんに尋ねると、「すぐ其処入らはったらありますえ」と教えてくれる。

大和大路を右折すると左手に鉄製のフェンスに囲まれた丹塗りの六波羅蜜寺があった。

もうこの辺り、かつては平家の縄張りであった。



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六波羅蜜寺

六波羅蜜寺と十一面観音像

此方は空也上人(醍醐天皇第二皇子)により951年、開創された天台別院である。

本尊は上人自らが十一面観音像を刻み祀っている。 平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を留めてより、

清盛・重盛に至り広大な境内には権勢を誇る平家一門の邸館が並び、その数5000余に及んだと言う。

1183年、平家が没落の時、兵火を受け諸堂は焼け、独り本堂のみ焼失を免れたそうだ。

現本堂は1363年に解体修築されたものと言う。 


平家滅亡により敷地が狭められたのか今の建物は街中に押し込められた様で

正面よりの参道がなく左手より入る変則な造りである。   

しかし建物は極彩色で彩られ艶やかさをもち、在りし日の平家を忍ばせる。


この寺には国宝の十一面観音像の他に念仏を唱える空也上人立像や平清盛坐像、

地蔵菩薩立像、運慶坐像等、平安・鎌倉期の重要文化財の宝庫である。


左は平清盛塚、右は遊女・阿古屋の塚

境内には遊女・阿古屋の塚がある。 彼女は平家の残党である景清の恋人で、

代官・畠山重忠は景清の所在を知る彼女を捕らえるが、彼女の弾かせられた三味線や琴の調べに

一点の乱れもなかったことに畠山重忠は感動し彼女を釈放したと言う歌舞伎18番である。 


六波羅蜜寺を出て、松原通へとでる。 この辺りまで平安末期には平家の兵が街を跋扈していたのであろう。

松原通より大和大路通りに出て北へと歩く。 大和大路と言ってもこの辺りは道も狭く

車も殆どいなくて、ぶらぶらと散策を楽しめる。



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建仁寺

建仁寺勅使門

建仁寺は1202年栄西禅師が建立した日本最初の禅寺で臨済宗建仁寺派の大本山である。

京都五山3位の格式を持ち、俵屋宗達の国宝・風神雷神図など多くの重要文化財を保有している。

境内は松の木が植えられ直線の石畳の参道が敷かれ街中でも静かな佇まいである。


勅使門は重文に指定され矢の根門とも呼ばれ扉に矢痕があるそうだ。 応仁の乱の時にでもついたのか?

方丈にて風神雷神図を展示しているとのことで、行って見ると複製だそうで、がっかり。

模写技術が上がり本物とは区別がつかないと言うが、人間感情の所為か気分が凪いでしまう。

因みに原本は京都博物館に保管されているそうだ。

最近は本物の劣化を恐れ、レプリカの展示が多くなってきた。 


法堂

法堂は1765年に建てられたもので、此方には本尊の釈迦如来が祀られている。

白壁に禅宗独特の花頭窓が並び美しい安定感を感じさせている。


建仁寺より八坂通に出て八坂の塔へと向う。

暫く歩くと、車の通る東大路通に出る。  そこを横断し、更に東えと歩く。

この辺りは車も入らず、京都らしい雰囲気を漂わせ、歩いていても心地よい。 アルファー波が活発な様だ。

正面には八坂の五重の塔(法観寺)が見える。 この景観は誰もが知る風景、やっぱり美しい。

なだらかな石畳の道を上り、塔が近くなると登りもきつくなる。 塔が迫って来て仰ぎ見る。



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八坂の塔(法観寺)

八坂の塔

八坂の塔は臨済宗建仁寺派の寺であるが、古くは飛鳥時代、渡来人・八坂氏の氏寺として創建されたと伝わる。

その後、何度も消失し、現在は1440年足利義教により再建されたそうだ。

高さ49メートルで興福寺の五重塔に次ぐ高さを誇り、重文に指定されている。

風化した古さは何故か良さを醸し出す、見ているだけで何となく心が落ち着く。


塔の下を半周し八坂通より右折し下川原町通りを歩む。 この辺りは小路が繋がり歩くにはもってこい。

やがて右手に「石塀小路」と書いた街灯を乗せた門が見える。

その小路へと入る、そこは別世界! 実に不思議な魅力を漂わす。

 脳からドーパミンが出まくる!


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石塀の小路

石塀小路

小路は右とみるや、また左と、その折れ曲がりの具合が実に粋で洒落ている。 

京都人の遊び心か、それとも客人の為に、見通しの効かない折れた小路に?

並ぶ町家は全て木作り和の世界。


一軒一軒、家は違うが相通じた色を持ち調和して、料亭や旅館などが連なっている。

古き良き時代の祇園甲部奥座敷! こんな小路が「ねねの道」まで続いて行く。


石塀小路の終り、正面は高台寺公園


何と見たことか!  舞妓さんがいる〜 !! 


他でもない此処は祇園の一画、伝統建築物保存地区に指定され、粋な昔の情緒をもっている。

石垣と石畳、折れた小路と茶色の板塀、しっとりとはんなりと風情が何とも心地よし。


次には、夜来て見たいもの、皆さんも一度見においでやす!

きっと、別世界に、いざなってくれまっせ。


高台寺前・ねねの道


この後、食事をすまし高台寺公園より高台寺へ、



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高台寺

庫裡前

石の階段を上り石畳を進むと境内に、尼寺らしく小作りであるが、敷地は広く何処となく女性的な造形である。


高台寺は豊臣秀吉の死後その菩提を弔うため正室北政所が創建したもので

1624年建仁寺の三江和尚を迎え開山された臨済宗建仁寺派の寺である。

過去幾度の火災に遭い、今は重文として表門、開山堂、観月台、霊屋と茶室傘亭・時雨亭が残っている



桜が

庫裡前では、まだ桜が咲いていて、係りの人に写真にある枝垂桜を訊ねると

「もう散りはて今は、この木だけが残っています」とのこと。


方丈前・枯山水の庭と枝垂桜

方丈より見ると枯山水の庭の正面に勅使門があり、その右手に看板の枝垂桜。

今はやはり散りはて柳の様になっていた。 花の頃は白砂と花の色でよく映えたであろう。


開山堂

方丈の東には小堀遠州の作とと言われる開山堂の庭が広がり、池を配し観月台を設けた

桃山時代を代表する庭園と言われていて国の史跡・名勝に指定されている。  

確かに禅寺の剛に対し、麗と言った趣きをもっている。

開山堂は開基・三江禅師を祀る塔所で北政所の兄夫婦の像も安置されている。

建物の造りが漆仕上げで、かなりの財政支援が家康よりあったのだろう。


茶席・遺芳庵




霊屋

開山堂の東には霊屋があり、其処へ移る間は臥龍廊で結ばれている。 

霊屋は秀吉と北政所が祀られ、入ると厨子の左右に秀吉と北政所の木造が安置されている。

内部は有名な高台寺蒔絵と言われる漆工芸の粋を集め装飾されていて黒と金の世界。

この辺りは政所の徳のもたらすものか家康の政治的配慮か意見の分かれるところ。



高台寺より見る祇園閣の尖塔

境内の庭を一周すると、結構広く見がいがあり、散歩にはうってつけ。

「ねね」も何度となくこの露地を歩んだことだあろう。

帰りは木々に覆われた石の階段を(台所坂)下り、「ねねの道」に出て北へいく。


これからは高台寺圏より祇園界へ、道は突き当たり左へ東大路にでる。

八坂神社前を4条通りを西へ、流石、この通りは観光客が多く何時も雑踏である。

花見小路の交差点で右折し祇園花見小路をぶら〜り。 

2つ目の信号を左に入り新橋を渡ると、其処は祇園白川。



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祇園白川

祇園白川通り

祇園は江戸時代八坂神社の門前町として開けたところ白川沿いの界隈は祇園の北の端ではあるが

祇園の中では昔の風情を残した街並みで、伝統的建造物群特別保存地区に指定されている。

新橋より加茂川までの白川沿いの宵桜のライトアップが有名であるが6日に終っていた。

それでも今日の祇園白川通りは遅咲きの桜が咲き、柳の緑と春を歌い上げていた。


祇園白川通り

春爛漫! 舞妓二人と出会い、こっそりシャッターを落とす。



祇園白川通り

川沿いには割烹や旅館、お茶屋、スナックが立ち並び、人々は宵ともなれば此処を訪れる。

赤い灯を眺めて食事を味わい、白川の瀬音を聞き、寛ぎを求めるのであろう。


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