桑名・七里の渡し界隈
08.5.23


揖斐川・長良川二川の合流する河口の西側に東海道五十三次・42番目の宿場・桑名「七里の渡し場」がある。

江戸時代、この辺りは千石船の出入りも多く、熱田の宮宿に次いで旅籠屋(旅館)が多く、栄えたそうだが、

明治になって関西線が開通すると街の賑わいは西へと移って行った。 しかし、この界隈は、

水辺に面した見晴らしのよい所で、今は防波堤ができ舗装もされ、歩くには素晴らしいところである。

今日は、この界隈の次のところを散策した。

諸戸氏庭園・六華苑〜住吉神社〜七里の渡し〜播龍櫓〜九華公園(桑名城址)〜春日神社〜海蔵寺





諸戸氏庭園 桑名市太ー丸18番


桑名駅より八間通りを真直ぐ東へ一号線を超えて次の信号を左へ2・300m行くと右側に木が茂り塀を

廻らせた屋敷が見えてくる。 露地を入ると水路があり石塀が続く.。 かなりの豪邸の構えである。

水路の先に広場があり今は見られなくなったレトロな赤い郵便ポストがポツリと立つ、その奥に黒漆喰に塗られた壁と

屋根に大きな鬼瓦をのせ、どっしりと重量感のある町屋豪邸と言った構え、

こちらが旧諸戸清六の本邸(主屋)である。


 
水路と石塀


   諸戸清六氏(1846−1906)は桑名郡長島村の代々庄屋の家に生まれ、清六氏の父の代に商売で失敗し
   その後、米、肥料を売り各地を渡ったあと、船宿を当地で営んだ。 家督を引き継いだ時には1000両を越える
   謝金があったが2年で借金をを返し明治維新を機に事業を拡大し、西南戦争では軍用御用(兵糧調達)で多くの
   政府要人や三菱財閥の岩崎弥太郎などの信頼を得て、明治11年には大蔵省御用の米買付方で財を成した。
   明治18年には桑名藩御用商人であった山田彦左衛門屋敷跡を購入し居を移した。 その後は公共事業にも広げ
   揖斐川下流の湿地帯であった桑名は水に恵まれず飲料水に困っていたので上水道を造り町民に無料で開放。
   当時、大都市を除いて水道設備を持つのは稀であった。 清六氏の死後、水設備は桑名町に寄付されたと言う。





見越しの松となまこ壁

本邸の右手には、なまこ壁の黒塀が続き見越しの松が茂る。 

前には運河が引かれ、堀をめぐらした城の様である。




諸戸本邸(重文)


1884年から数年かけ建てられたそうで、本邸正面の弁柄格子の角材は太くケヤキの柱、梁、一枚板

皆素材が素晴らしく主人の拘りが窺がえる。 

玄関を入ると土間となり左側の部屋は当時の店舗らしい雰囲気を残している。

現在は見学者の入場料の受け取り場所となり、右側の部屋には簡素な籠が置かれていた。

古い窓ガラスを使っているのか外の景色が陽炎の様に揺らいで見える。

こう言った古い建物を見ていると、何故か心が落ち着いく。

変わらないものへの一種の安心感なのであろう。


諸戸清六氏は、こちらの玄関外の脇に縁台を置き、せんべい座布団に座っていたそうだ。

自室には東海道線の時刻表を掲げ、何時でも出かけられる支度がされていたと言う。




部屋に掲げられていた初代・諸戸清六氏(1846−1906)





柱と梁の素材と木組みの隙のない技のよさ






大門(重要文化財)

本邸の左に続いて御殿の大門がある。 1894年頃御殿建築の時、造られたといわれ薬医門形式で

門の棟心がやや前方に片寄ているのが特徴とされている。 本邸と続いて重厚な感じの門である。

 ここを入ると広場となり、中央に大きな庭石が置かれた芝生のさっぱりした築山がある。 

その裾に日露戦争の戦勝記念の砲弾が立っている。



玄関前の庭、左端に砲弾が立っている

奥には玄関があり、1890年に清六氏は妻を亡くし商売もうまく行かず、家相に詳しい佐野常民子爵の

助言で御殿着工を決意、玄関は当時の外務大臣・大隈重信の指図で外務省の大広間に模し

寄せ木張りの床にしたと言われてる。




御殿玄関

玄関の右手より本庭園へ入る。 この庭園は国の名勝地に指定されている。

  案内によると、この付近は室町時代には『江の奥殿』と呼ばれ邸宅・庭園があったと言われ、

  江戸時代に桑名藩・御用商人山田彦在門が下屋敷として買い入れ沼築庭が造られた。 

  しかし、明治維新で山田家は没落し、その後、諸戸清六氏の手に移り御殿と池庭が加えられ

  2代目諸戸精太の代に更に手を加え今日に至った。 現在、三つの部分よりなっていると言う。




入口



第一庭は菖蒲池を中心とした部分で推敲亭、藤茶屋に囲まれた歴史的に一番古い庭。



推敲亭

苔がむし飛石を伝い入るに従い、その空気に引き込まれて行く。 出会う大小、色とりどりの

味わいを持った灯篭の素晴らしさ、その質と数の多さに驚く。 これだけの数の庭はそうは見れない。

それに加え庭石の数と種類の多さ、それらが実に巧みに配置されている。

こちらは春と秋だけの公開であるが、是非、見る価値がある。



伴松軒

伴松軒は4畳半に一間床を加えた茶室である。 尾張藩の茶頭の松尾流の10世松尾宗吾の好みであった。

以前、名古屋の文化の道で松尾流の家元を訪れたが、千利休と同じ師匠から始祖は学んだそうだ。

山田彦在門邸の時代からの橋杭灯籠が庭石と苔の茂りで一体感をつくり上げている。




切石と玉石による苑路





藤茶屋

茶屋と言うだけに茶室と庭を眺める座敷もある数奇屋風。

江戸時代には、藤を愛でる為、桑名藩主が立ち寄ったと言われている。





中心の菖蒲池、6月には花が見られるそうだ。

左手に「知立の八つ橋」の様に石橋がある。 

昔は杜若であったそうだが今は菖蒲が植えられている。




反対側よりの推敲亭

江戸時代からある草庵で千家の覚々斎原宗匠の作といわれこの佇まいは何とも素晴らしい。

 3畳に障子をめぐらせた開放的な珍しい造りとなっている。 

小さく見える灯篭は切支丹灯籠とも呼ばれ中間に飛び出た部分があり全体として

十字を表し、古田織部が茶庭によく用いたといわれるもの。



第二の庭は御殿の前にひろがる池庭である。


御殿前の池庭

庭は宮内省技師・小平義近を招いて設計し琵琶湖を模して造られ右手の岩は竹生島に見立てている。

大きさの違った雪見灯篭が配置され、第一の庭に比べると池が大きく見晴らしが広い。

皐月、ツツジが月初めは華やかであっただろうが、もう終わりのようだ。


諸戸清六は謝金から苦労をして事業を大きくしてきた為、当初は、仕事一辺倒で他のことは

無意味と考えていたそうだが、渋沢栄一に家に招かれ渋沢の点ててくれた一服の抹茶の戴き方が分からず

往生したことがあり、以後、子供達に茶道を通じて「もてなす心と、もてなされる心」を教えてきたと言われる。

第三の御成書院のある庭は非公開で見れなかった。


御殿

御殿の建築には桑名の御料材や東京から建材を取り寄せ使われたと言う。

庭が見やすい様に床が高く作られ柱の少ない豪放な造りとなり御殿は国の重要文化財に指定されている。

大隈重信や山県有朋など著名な政治家も、こちらを訪れたと伝えられている。

又、明治20年代には諸戸清六は地主日本一となり、全国の大地主の家を訪ね教えをこうたと言う。




御殿座敷

天井は格天井建具は黒漆で仕上げられた立派な座敷。 

こちらに多くの来客が訪れたのであろう。



御殿・二の間

二の間は大分汚れが目立つよう。




赤レンガの倉庫

この倉庫は運河に面して明治のシンボルの赤煉瓦で明治28年に建てられたが昭和20年の空襲で2棟を失い

現在、3棟だけが残ったと言う。 煉瓦の表面に小口面の段と長手面の段とが交互に出るイギリス積みとなっていて

米蔵として利用し、前の運河に船をつけ搬入していた。 倉庫の煉瓦に合わせ運河の堰堤も赤煉瓦で築かれている。


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