桑名・七里の渡し
六華苑を出て揖斐川の堤防に上がる。 すっかりコンクリートで舗装し固められた堤防は伊勢湾台風の後
整備されたのであろう。 これで余程のことがない限り決壊の心配はなくなった。
堤防より見る揖斐川の風景は長良川の河口堰が設けられ、鮎の遡上やハマグリ漁の問題で漁協組合と
行政との摩擦が聞かれたが最近は聞かれなくなったがうまく行っているのだろうか?
揖斐川の堤防よりの眺望、
左に小さく見える伊勢大橋、右は長良川の河口堰、堤防をぶらぶらと海に向って歩く。
様は変われど相変わらずこちらからの眺めは素晴らしい。 住吉神社の鳥井と灯篭が先に見える。
この辺りは昔、廻船の舟溜りで全国から多数の廻船業者が集まったと言う。
この人たちが航海の安全を祈り、住吉神社(大阪市)から勧請してこの住吉神社が建立されたそうだ。
石灯篭は、江戸時代の材木商達が寄進したものと言われる。
住吉神社
住吉神社の先に船津屋(料理旅館、昔は本陣)と山月(ホテル、元は脇本陣)の建物が一際高く見える。
何十年も前に、こちらにハゼ釣りに来たことがあったが、すっかり整備がされ様変わりちょっぴり寂しい。
住吉神社より運河を越えると 大きい鳥井が見える、ここが「七里の渡し跡」
江戸時代、東海道五十三次が設けられ桑名はその42番目の宿場として栄えた。
熱田の宮の渡し(名古屋市)から海路、「桑名の渡し」まで約七里(28km)を船で往来した。
言わば尾張の国から伊勢の国に入る玄関口であった。 伊勢参りが盛んになり、江戸中期
伊勢神宮・一の鳥井が伊勢国の東玄関「七里の渡し」に建てられた。
七里の渡し跡、一の鳥井と常夜灯
当時の桑名宿は東海道を行き来する全ての人達がここを利用したことで街の賑わいは
大変だったと言われるが、実際は四日市宿(三滝川河口)までの「10里の渡し」に人をとられたそうだ。
桑名〜四日市の3里8町を歩かずに済むんだから、旅人にとっては魅力、勿論、船賃が払える人達
にとってのことですが。 その為、桑名と四日市が客引きで争ったそうだ。
しかし今では、その面影もなく、夢のようだ。
静かな佇まいの「七里の渡し」が鎮座して感慨もひとしお。
七里の渡しの運河を隔てた対岸には旧桑名城址の三の丸地内、当時は51の櫓があったと言われる。
今はその一つ「蟠龍櫓」が復元され水門管理所が入り、住吉・川口・三の丸の水門の管理をしている。
2階は展望台と資料室となっている。
蟠龍とは天に向かって登るうずくまった龍の姿をいい、龍は水を司る聖獣であることから「蟠龍櫓」も
海に対する守護神として造られたと伝えられている。 広重によっても東海道の名勝として描かれ
”桑名の時雨蛤”と共に有名であった。
蟠龍櫓と川口水門
九華公園(旧桑名城址)
蟠龍櫓より防波堤を歩き九華公園(旧桑名城址)に入る。
九華公園は維新以後、荒廃していた桑名城・本丸、二の丸に昭和2年に造られた公園で
四季折々の桜やつつじ、花菖蒲などが植えられた市民の憩いの場となっている。
桑名城は戦国時代1513年伊藤武左衛門が城館を構えたのが起こりとされ豊臣時代に
一柳氏が桑名を領し本格的築城したのが始りで、その後、徳川四天王の一人
本多忠勝が1601年に領主となり街の大改造を行い同時に掘割を設け城を整備したと言う。
本多忠勝の後、長男である忠政が引継ぎ、その後は松平家が幕末まで勤める事となる。
本多忠勝
三の丸跡に造られた芝生広場で、入口にある本多忠勝の銅像である。
彼は「蜻蛉切」と呼ばれた槍を持ち鹿角脇立兜をかぶり大数珠を下げていたそうだ。
トンボ切とは彼が幾多の戦果をこの槍で挙げたことから天下三名槍の一つと言われている。
本多忠勝は世が安定するとともに文治派が台頭し忠勝らの出る幕は少なくなり長男・忠政に城を引きつぐ。
忠政の子・本多忠刻は家康の孫・千姫をめとり桑名城内に住んでいたが、その後、忠政の移封の為
松平家に譲り本多家は姫路城に移ることとなる。
吉の丸を望む、
大きな吉之丸堀に遊ぶ水鳥
本丸跡
本丸は長方形で、四方は堀で囲まれ、西北と西南とに入り口があって、
東北角に天守閣、西北、東南(辰巳)に三重櫓があったそうだ。
西南角には伊勢神戸城から移した三重櫓があったが、幕末には櫓台だけだったと言う。
最後に幕末を迎えた松平定敬は福井の松平容保らと同じ様に佐幕派であったため
明治元年(1868)の戊辰の役で桑名藩は逆賊として新政府軍に取り潰された。
辰巳櫓の跡、砲台がある
辰巳櫓は本丸の東南角にあり三重櫓であったそうだ。 天守閣が元禄大火で焼失して再建されなかったので、
辰巳櫓が桑名城のシンボルとなっていた。その為、明治維新の時、落城のしるしとして新政府軍により焼き払われてしまった。
春日神社
桑名城をまわり、すき焼きで有名な「柿安」に一服、以前、来た時と店がすっかり変わっているので
訊ねると八間通りの先にあるとのことで、新たにできた店であることが分かった。
この後、船入り橋を渡り八間通りにでる。 通りの欅並木がすっかり青葉になり美しい。
駅に向かって行くと春日神社の標識があり左折すると、こちらは旧東海道で少し歩くと春日神社があった。
春日神社随神門
正式には桑名宗社と呼び桑名神社(三崎大明神)と中臣神社(春日大明神)の総称で総鎮守社と言われる。
楼門(随神門)は1833年15代藩主松平定永が建立したが、昭和20年の空襲により焼失した。
現在、建っているものは平成7年に再建された。 春日大明神らしく大きな上がり藤の紋がついている。
楼門の奥に本殿があり御祭神は天照大御神の第三御子、天津彦根命とされている。
海蔵寺
八間通りに戻り、更に駅に向うと右手に海蔵寺が見えた。
昔、木曽・揖斐・長良三川の氾濫で被害が多く、幕府は薩摩藩にその工事を命じた。
それは幕府が外様藩の軍事・経済力を抑える巧妙な政策としてなされた。
悲惨な宝暦治水の難工事で多くの薩摩藩士を亡くした。その墓がこちらにある。
入ると真先に丸に十の字の薩摩藩の家紋が目に飛び込んでくる。
海蔵寺
この工事は奉行・平田靭負他藩士約950名と予算30万両で約1年半の工期で完了したが
病気や事故で85名の犠牲者と多大な費用を費やした。 これにより長年流域の人々を苦しめた
大河川の氾濫を抑える事が出来たが、大幅な予算超過と多数の藩士を失ったため
平田靭負と24人の義士達は切腹もって責めを果たした。
90万石に近い薩摩藩も厳しい知らせであったろう。
薩摩藩士
真ん中の大きい墓石が平田靭負、それを取り巻くように24義士の墓がある。
千本松原の松
義士によって築かれた岐阜県海津町の油島の堤防には数千本の松が植えられ、今でも
千本松原として人々に、その偉大な功績を伝えている。 こちらの輪切りの木はその松原の
木が松食虫の被害により枯れて伐採したもので、その中でも幹が一番太く「守り松」と
呼ばれていたものだと言う。 幹回り 3.5m 樹高 約29mだったそうだ。
平田靭負 辞世 宝暦5年5月25日 52歳の春であった。
住み慣れし 里も今さら 名残りにて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧
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