尾張・豊国神社
08.5.8


名古屋駅の西側、中村地区は大正から昭和にかけ東京の吉原と並んで大きな郭を連ねた中村遊郭があり有名であった。

その更に西の位置に中村公園がある。  こちらは豊臣秀吉の出生地で公園となり、その一画に秀吉を祭る豊国神社がある。

こちらへは10年以上も前だと思うが、ウオーキングで一度来たことがある。 


先日、近所の林に淡紫の桐の花が咲き誇っているのを見た。 桐は古くから高貴な花で霊鳥の宿す木とされ、

日本政府の国章にもなり豊臣家の家紋でもある。 今日はその豊臣家ゆかりの地、中村公園を訪れた。


中村公園は地下鉄・東山線・高畑行きで四つ目の中村公園で降りると、交差点に日本一の大きな赤い鳥居

(24m)が見える。  それを潜ると参道が公園まで真直ぐに伸びている。

  豊臣秀吉は言わずと知れた戦国時代から安土桃山時代に掛けて一介の百姓から大名になり天下を統一した。
  秀吉は、この中村で生まれ、初め今川氏に仕えて、その後は織田信長の下で頭角を表し、信長が本能寺にて
  明智光秀に討たれると、山崎にて光秀を破り、更に織田家の後継争いで柴田勝家を倒し主導権を掴む。その後
  大阪城を築城し関白太政大臣となる。 天下を統一するが、慶長の朝鮮出兵の最中、病で亡くなる。 その後、
  豊臣家は徳川氏に滅ぼされ、秀吉の縁のものは不景気になったが、明治新政府になり復活されることになる。



豊国神社

二の鳥居を潜ると、年月を経た楠木の多い林に囲まれた奥に豊国神社が鎮座している。

幕府の大政奉還後の1885年に土地の有志で豊臣秀吉を祭神として建立されたそうだ。




豊国神社

一の鳥居の大きさから見れば本殿はちょっと小さい様で、太閤さんも不満であろう。

 拝殿前には家紋の桐の提灯が下がり、楠木の青葉が清々しく、霊験は結構ありそうだ。 

合掌かしわ手! とり敢えず健康を祈願する。 果たして霊験は?




秀吉の誕生地の碑

神社の右手に円形に御影石で囲まれた所が、秀吉の出生地であることが説明されている。

その東側の敷地は秀吉の義父の宅址で「南無妙法蓮華経」の昇り旗が立ち日蓮宗の太閤山・常泉寺がある。

 加藤清正が秀吉の御霊を祀る為、一族の日誦上人と建てた寺である。




常泉寺

境内には秀吉の銅像が建ち、秀吉産湯の井戸や秀吉手植えの柊の木が植えられている。




秀吉像




 
秀吉・産湯の井戸





秀吉の植えた柊、但し植え替えられ5代目とある。






木下勝俊邸址

長嘯子(ちょうしょうし)木下勝俊は、木下肥後守家定の長子、北政所の甥である。

豊臣秀吉のもとで若狭九万石を領していたが、関ヶ原の戦いでは去就に迷い

所領を失ったと言われ、京都東山に幽閉されて風月を楽しんだ人物。

歌文に優れ和歌史上に一時代を画くしたものがあると高く評価されていると言う。 





妙行寺の門

常泉寺の前は加藤清正の生誕地があり、今は、清正が名古屋城築城の際、その余材で妙行寺が建てられ

祖先の菩提が祀られている。 清正は母が大政所(秀吉の母)と従姉妹であった為、子供の頃から

秀吉にかわいがられて仕えることになる。 境内には清正の銅像や生誕の石碑がある。

本堂の隣には破風が金細工で飾られた清正公霊社もある。

  加藤清正は安土桃山時代から江戸時代前期にかけて中村の郷士の家に生まれ大名となった人物で、若くより秀吉に仕え
  本能寺での信長死後、山崎の戦に参加、その後、賤ヶ岳の戦いでは「7本槍」の勇士として活躍、その後、秀吉が関白に
  なると九州征伐に参加、肥後の熊本城の城主となる。 文禄・慶長の朝鮮出兵では、これに参加、数々の武勲を立てた。
  秀吉死後、石田三成と合わず、関が原の戦いでは徳川方につき九州で西軍勢力を破った功績から52万石の大名となる。
  戦闘の武将としても優れているが、築城や治水技術にも優れ、熊本を初め、名護屋、蔚山(韓国)、江戸、名古屋と各城を
  築いている。 彼は日蓮宗の信徒で日蓮宗の寺を数多く創設している。



清正公霊社





清正公銅像





清正公生誕の地・碑





八幡社

こちらは加藤清正が出陣のとき、必勝祈願したと伝えられている八幡社。 

加藤清正が名古屋城築城の際、こちらの大木を利用したと伝えられている。



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中村公園の南西の一画に文化プラザがあり、その2階に秀吉清正記念館が設けれている。

そちらを覗いてみた。 名古屋市博物館の出先と言うことから規模は小さくスペースが

狭いい為、展示物を逐次、入れ替え展示している。



アヤメの花を模った秀吉の兜





桃山時代、秀吉の馬廻り衆が着用したと伝えられる甲冑





秀吉が天下統一し、刀狩りを行なった時の条目、1588年7月8日







秀吉の第1次朝鮮出兵時、明との講和交渉で明が送った冊封の文書

明国王より秀吉を日本国王として認める趣旨で要求は無視され

第二次の朝鮮出兵を行なったが、秀吉は病で亡くなる。




秀吉・辞世の和歌

つゆと落ちつゆと消えにしわが身かな なにわの事もゆめの又ゆめ 松

*松は秀吉の和歌を詠む別名





加藤清正等連署血判起請文、1595年8月6日 秀吉最期の3年前







清正が朝鮮出兵時にしとめた朝鮮虎の顎、黒漆で仕上げられ

重臣・大木兼能に贈ったもの






加藤清正50歳時の手形、6尺3寸(約191cm)の大男だったと伝わるが、

手形は26cmでちょっと過大。 江戸時代後期に木版刷りで販売しもの。


おまけ: 甚目寺へ