明治村公園
2011.4.11愛知県犬山市内山

明治村は愛知県の北部、岐阜県との境にある犬山市の入鹿池の畔りに造られた公園式博物館で、戦後、経済成長の中で失われて行く

明治時代の価値ある文化的な建造物を各地から移築し、末永く残したいと名古屋鉄道が主体となり昭和40年にオープンした。 

100万m2の園内には日本の伝統的な建築や、新たに欧米の様式・技術を取り入れた和洋折衷的建築やら、

石造・煉瓦造の洋風建築まで67物件が展示されている。 丁度、桜の時期、中央高速道・小牧東I..Cを下り

入鹿池に沿って走る道路は桜並木が美しく迎えてくれ、赤レンガ造りの明治建築らしい門へとつづく。


園内は起伏のある丘陵の自然を生かし苑路や庭園なども設けられクラシック・バスや鉄道も動き回遊ができる。

 地域内は5ブロックに分れ1丁目から5丁目まであり、夫々の建物には番地が付けられ見学が

しやすくなっている。 旧帝国ホテルなど価値ある歴史的建物が環境に溶け込み

素晴らしい風景を見せてくれる。 要所の建物には案内人がいて説明も聞ける。

幾つかの建物からは入鹿池の景観も眺められ、新緑を楽しめれる博物館である。 

まず、一丁目から出発。 明治時代が蘇ると共に建築物の魅力と懐かしさが伝わってくる。




旧制第八高等学校正門 

現在、博物館・明治村の正門として使われているが、前は名古屋市瑞穂町に

あった旧制第八高等学校の正門で学習院旧正門と並び重要文化財に指定されている。




門を入ると広場があり、枝垂桜の前にレトロな巡回バスがお待ち。

右手にすすむと・・・



三重県尋常師範学校・蔵持小学校

明治21年に三重県の尋常師範学校として建てられたが、昭和3年、館の改築に伴い

名張市の蔵持村に移築され、蔵持小学校として使われていた。



近衛師団付属庁舎

元は宮城警護のために設置された皇宮警察の庁舎として建てられたが、建設中に

用途を近衛局の近衛師団と改称され明治23年、本部として完成したもの。




聖ヨハネ教会堂

近衛師団付属庁舎より坂を登った高台に聖ヨハネ教会堂が林の中に

昔から建っていた様な姿を見せる。



聖ヨハネ教会堂

エキゾチックな建物で鎖国によるキリスト教の禁止令が解かれ、

 明治40年に京都の河原町通りに建てられたプロテスタントの聖ヨハネ教会で、

中世のロマネスク様式を基調に細部にゴシックのデザイン、正面左右に高い尖塔を持っている。



聖ヨハネ教会堂・内部

一階は日曜学校や幼稚園に使われ二階が会堂として使われた。




学習院長官舎

明治42年に建てられた学習院長であった乃木希典の官舎で 洋館と和館とがわかれ

公的な立場の務には洋館部分を使い、私的には和館を用いたが、夜は私邸で寝ていたそうだ。

当時、官公庁など公的な処は洋式化が進められていたが、私的な住宅まではまだ洋風化が進んでいなかった。



西郷従道邸 重要文化財

学習院長官舎の隣に建つ西郷従道邸、明治10年代のはじめ西郷隆盛の弟西郷從道が上目黒の自邸内に建てたものである。

西郷從道は明治初年から度々海外に出掛け、国内では陸・海軍、農商務、内務等の大臣を歴任、維新政府の中枢に居て

在日外交官との接触も多かった。 そのため「西郷山」と呼ばれる程の広い敷地内に和風の本館と少し隔てて本格的な

洋館を接客の場として使っていた。 ドイツ公使館や三菱郵船会社の建物を設計したフランス人建築家レスカスの

設計と言われ、半円形に張り出されたベランダ、上下階の手摺などデザインに優れ、耐震性も工夫されている。



玄関入った所、2階への階段

各部屋、 絵画や高級な家具、調度品が置かれ当時のハイクラスの生活ぶりが窺える。





同 ダイニングルーム





 
森鴎外・夏目漱石住宅

この住宅は明治20年頃、医学士中島襄吉が建てたものであるが、明治23年森鴎外が借家として

一年余りを過ごした。 明治36年から39年までは夏目漱石が借りて住んでいた。 鴎外は、ここに

移り住む同じ年の1月、処女作小説「舞姫」を発表、この家では「文づかひ」等の小説を執筆した。

漱石は、「吾輩は猫である」を発表、文壇にその名を高めた。 文中に描写された家の様子は、猫の

ためのくぐり戸をはじめ、よくこの家の姿を写している。 この家が当時の典型的中流住宅であり

現代住宅への過程のもので、短い廊下など独立部屋への兆しが見える。


 
奥座敷





書斎部屋

南面に書斎を突き出して建てており、この形が後に洋間の応接室として変化していく。

漱石は、こちらで「吾輩は猫である」を書いた。 部屋に入ると”にやお〜”と猫の泣き声がし

置物の猫が一瞬生きていたのかと? 途惑う。


  
三重県庁舎

三重県庁舎は明治9年、県令・岩村定高によって計画され、3年後の12年に完成した。

当時は内務省による中央集権で府知事・県令が各府県に派遣されていた。

玄関を中心に左右対称の建物で正面は二層のベランダが廻らされている

当時の官庁建築の典型的な様式をとっている。


 
鉄道局新橋工場

この鉄道局新橋工場は明治22年に建てられた。 日本で製作された鋳鉄柱、小屋組鉄骨トラス、

鉄製下見板、サッシなどを組み立てたもので、屋根は銅板で葺かれている。

日本で、初めて、蒸気機関車が走ったのは明治5年、新橋・横浜間である。

ついで7年には大阪・神戸間も開通し、日本鉄道の幕開けが始まった。


  
明治天皇御料車

鉄道局新橋工場内には明治天皇御料車が保存されている。 明治に御料車は6輌製造された。

この車輌が一番豪華といわれ、車内天井に蜀江錦が張られ、御座所は金糸の刺繍や

七宝装飾、螺鈿装飾、木象嵌など日本の工芸技術の粋を集めて造られている。



二重橋装飾燈

明治21年、皇居造営の際、皇居前広場から見て奥の橋に、この飾電燈が付けられた。




札幌電話交換局

これからは2丁目に入る。

ベルが明治9年に電話を発明し、翌年に日本にも紹介され、同23年には東京と横浜で電話交換業務を開始。

以後全国に普及していった。 この札幌電話交換局は明治31年に竣工、翌年から交換業務を開始した。

外壁は重厚な石造りで一階の窓は葉飾を刻んだアーチ窓、二階はまぐさ窓で小庇がつけられている。



安田銀行会津支店

明治12年に国立銀行設立認可が153行で打ち切られると急激に私立銀行が建ち

安田銀行も翌13年に開業している。 最初は栃木、宇都宮の二店であったが、

その後、東北地方に展開し、明治23年には会津若松に若松支店が設けられ

明治40年、この新店舗が落成した。 伝統的な土蔵造で、側面はなまこ壁で

仕上げている。 玄関の石柱、正面と右面の石積の腰壁、窓の太い鉄格子、

軒蛇腹等、洋式を取り入れている。



銀行内部

高い吹き抜けで、二階の窓からの光で室内が大変明るい。 二階ギャラリーを支える

四本の柱は溝彫りされ、その脚部には西洋風の繰形が施されている。

カウンターの腰板にも新時代の手法が用いられている。



北里研究所本館・医学館

これより3丁目に入る。

こちらは細菌学の北里柴三郎が大正4年に芝白金三光町に建てた研究所である。

彼はドイツに留学していたことからバロック風の建物を好み本館が建てられた。

ドイツで細菌学を学び、破傷風の血清療法を生み出し学界に認められた。



芝川又右衛門邸

芝川又右衛門は先代が三井八郎右衛門・住友吉左衛門らに並ぶ豪商で

その後をうけて、西宮市甲東園に別荘として、この建物を建てた。

設計は京都帝国大学建築学科の創設者となる武田五一が担当し

ヨーロッパ建築と日本建築の特質を生かしたものと言われ、往時

関西財界人が多く出入りしたと言う。



幸田露伴邸(蝸牛庵)

幸田露伴は尾崎紅葉と並ぶ明治の文豪で、第1回の文化勲章受章者である。

自分の家を「蝸牛庵」と呼び、やどかりのように幾度となく住まいを変えたと言う。

この家も明治30年からの約10年間過ごした家である。 隅田川の東にあったもので

周辺には江戸時代から豪商の別邸や下屋敷が多く、この建物もその雰囲気をもった

構えで、庇の長い座敷には水鳥を模った釘隠し等が使われ、粋な感じのする住居である。

当時、上流者の妾宅だったそうだ。 


  
西園寺公望邸「坐漁荘」

西園寺公望は明治の元勲の一人で法学を学ぶため渡仏し、帰国後、中江兆民等と東洋自由新聞を発刊、

ブルジョア自由主義の普及に努め、廃刊後は伊藤博文に従って外遊、次いで各国公使、各大臣を歴任し、

明治39年伊藤博文のあとを受け、政友会を率いて内閣を組織した。 政治姿勢は終始平民主義を貫いた。


この「坐漁荘」は西園寺公望が政治の第一線から退いた後、大正9年に駿河湾、清水港近くの興津の

海岸に建てた別邸である。  「坐漁荘」の名には“なにもせず、のんびり坐って魚をとって過ごす”

という意味がこめられていたが、実際には事あるごとに政治家の訪問を受けざるを得なかったと言う。

重鎮であった為、テロを警戒し、家の造りが工夫され、竹のえつりには竹の中に鉄筋を入れたり、

浴場に逃げ口を設けたり、来客が門から玄関に来るまでに人物確認が出来る様な構造になっている。



長崎居留地25番館

この館は長崎の居留地、南山手にあった建物の一つである。 居住者はスコットランド出身のコルダーである。

彼は1867年来日し、最初、長崎のボイド商会に、その後、岩崎弥之助と組み横浜に三菱製鉄所を設立、ついで

大阪造船所を経て、岩崎が長崎造船所を国から払い下げを受けてボイド商会の権利を買い取り、三菱がスタート

した時、マネージャーとして請われて日本の造船業の発展に寄与した。

建物は三方にベランダがあり、東南アジアの植民地建築の影響を受けた典型的な居留地建築である。



  
神戸市山手異人館                       同付属 和式館

長崎居留地の二十五番館の平家建で、ゆったりとした植民地風の住居に対して、神戸の異人館は同じ頃の

建築ではあるが、2階建てで本格的な西洋館である。 背後には渡り廊下で繋がれた和室を持っている。当時、

神戸が横浜と並んで貿易港として発展をみせており、建物にも洗練されたものが求められたためと言われる。 

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