明治村公園
2011.4.11愛知県犬山市内山

これより4丁目に入る


旧制第四高等学校武術道場・無声堂

この「無声堂」は大正6年金沢の第四高等学校学校で、明治後期になって武術も政府に認められ、

とり入れられた。 柔道、剣道、弓道三つの道場を兼ね備えた大きな洋風建築物である.



日本赤十字社中央病院・病棟

明治19年、日本政府がジュネーブ条約に加盟した時、皇室から渋谷の御料地と資金10万円が下賜され

この病院が建設された。 流石下賜された建物、装飾のある木造で和洋折衷の洒落た建物である。

設計は赤坂離宮を建てた片山東熊が設計した。



工部省品川硝子製造所

明治6年イギリス人技術者により建てられた硝子製造所で工部省が買い上げた。

他にも工部省は近代工業の発展を図るため、鉄道、土木、造船、電信、製鉄など

設備、技術者など必要なものを導入し、それらの工場が建設された。



伊勢・宇治山田郵便局 重要文化財

明治3年、郵便事業開始の達示が出され、伊勢の宇治山田にも同5年わずか4坪の小さな役所が開業した。

電信電話事業をも行うようになると、事業の拡大につれて、宇治山田郵便局は移転につぐ移転を重ね、

明治42年伊勢外宮前の角地に、この建物が新築された。 木造平家建銅板葺、中央には円錐ドームの

屋根を頂き、両翼屋には寄棟の屋根をふせて、正面の左右には小ドームの載る角塔を立て

左右対称の地方では立派な建物である。



 
本郷・喜之床(理髪店) 啄木の新居

この家は東京本郷弓町2丁目にあった新井家経営の理髪店・喜之床で、二階二間は石川啄木が函館の友宮崎郁雨に

預けていた母かつ、妻節子、長女京子を迎えて明治42年6月16日から東京ではじめて家族生活をした新居である。

啄木はそこで文学生活をしながら京橋の東京朝日新聞社校正部に勤めていた。 明治43年9月にはそこに本籍を移し、

10月には長男真一が生まれたが夭折した。 12月に出版したのが啄木の名を不朽にした処女歌集「一握の砂」である。

その頃から母も妻も啄木も結核性の病気になり、二階の上り下りも苦しくなって明治44年8月、小石川久堅町の小さな

平家建の家に移った。明治45年3月7日にはそこで母かつが死に、翌4月13日には啄木もまた母の後を追う様に27歳の

薄倖の生涯を閉じた。 江戸の伝統を伝える二階建の町家の形であるが、ハイカラな店構えをしている。


”東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる・・・

はたらけど はたらけど 猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る”



   
魚屋、山口乙吉の家         (小泉八雲避暑の借り部屋)

小泉八雲は明治23年に英語教師として松江中学に赴任し、地元の小泉節子と結婚、同29年日本に帰化した。

こちらは東京で英語教師をしていた当時、夏場、焼津で避暑をする様になり、こちら魚屋・山口乙吉家の

奥の一部屋を借りていた。 部屋には小説「音吉の達磨」に出て来る達磨が置いてある。



  
聖フランシスコ・ザビエル天守堂 

これより5丁目に入る。

この教会堂は聖フランシスコ・ザビエルが、かつていたことのある京都の地に、明治23年に

建てられたカトリックの教会堂で、フランス人神父の監督の下に、本国から取寄せた設計原案に基づき、

日本人の手で造られた。 前に玄関を張り出し、正面入口の上には直径3.6mを超える大きな薔薇窓が付けられ

切妻の頂点には十字架が掲げられている。 三層からなる典型的なゴシック建築で、内陣の横には聖具室を配置している。



宮津裁判所法廷

宮津裁判所は明治19年に建てられ、控訴裁判所などの上級審が洋風レンガ造で造られたのに対し、

地方裁判所は和洋折衷の木造で建てられた。 明治村の中の他の多くの和洋折衷建物がペンキ塗で

あるのに対し、この建物は素地のままであり和風の感じが強い。



金沢監獄正門

これは明治40年に造られた金沢監獄の正門である。  レンガ造に石の帯状装飾を入れるのが当時の

洋風建築の流行で、明治村の正門として使われている旧第八高等学校正門とよく似ている。

左右に二階建の看視塔を建て、中央にアーチ型の主出入口、両側に脇出入口を備えている。

窓も小さくして鉄格子を入れているが西洋の城郭の門の様に美しい。



金沢監獄中央看守所監房

金沢監獄は八角形の中央看守所を中心に、左右及び正面奥と左右斜め奥に五つの舎房が放射状に配され

ていたが、移築されたのは、先の正門と中央看守所、第五舎房の一部だけが遺された。

中央看守所の中央には看視室が置かれ、ここから各舎房の廊下が一目で見渡せるようになっている。

看守所上部の見張り櫓へは小屋裏を抜けて昇るようになっており、その高さは地上高12mだある。



帝国ホテルの中央玄関 重要文化財

この建物は、20世紀建築界の巨匠、アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトによって

設計され、大正12年に4年間の大工事の後に完成した帝国ホテルの中央玄関部である。

レンガ型枠鉄筋コンクリート造で大谷石を幾何学模様の彫刻を施し使用し、レンガには櫛目を

入れて柔らかで華麗な外観を現出している。 メインロビー中央には三階までの吹き抜きがある。

中央玄関内の全ての空間は、この吹き抜きの廻りに展開し、その個々の空間は、床の高さ、天井の

高さがそれぞれに異なっており、大階段、左右の廻り階段を昇る毎に、劇的な視界が開かれる。



帝国ホテルの中央玄関 重要文化財

皇居を正面にして建てられた帝国ホテルは総面積34,000u余の大建築で中心軸上に

玄関、大食堂、劇場などの公共部分が列ねられ、左右に客室棟が配されていた。

全体計画から個々の客室に到るまで、きわめて多様な秀れた空間構成がなされ、

それまでの建築空間が主として平面的なつながりであったものを、立体的な構成に

変えられた画期的な作品である。 建設当時は一般人の利用は出来なかったそうだ。



正面・隅田川新大橋、左・内閣文庫、右・川崎銀行本店

内閣文庫は、明治6年赤坂離宮内に太政官文庫という名で開設された明治政府の

中央図書館である。 明治23年内閣制度の制定とともに内閣文庫と改称され、

昭和46年国立公文書館が設立されるまで内外の古文書研究家に利用された。


隅田川新大橋は隅田川に架けられた五大橋の一つで、橋を渡って市電が通り、

橋の役目は高まったが、大正12年の関東大震災の折に他の鉄橋が落ちる中で、

この新大橋だけが残り避難の道として多数の人命を救ったと言う。


川崎銀行は、昭和61年、旧川崎銀行の本店ビル立て替えで取壊された時、正面

左側角の外壁部分を明治村に移築されたもので、ルネッサンス様式を基調としており、

銀行・会社の本店建築の中でも本格的銀行建築で日本橋のシンボルでもあった。

終わり
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日本はヨーロッパに比べ、地震が多く、気候的には国土が南北に長く一概には言えないが高温多湿の風土である。
その為、石造りの建物は結露が多く、また地震に弱い為、殆どの建物が木造で作られてきた。
近年は冷房技術が入り変わって来てはいるが、建築物の耐用年数に対する思想は、欧米が数百年先までを想定して
行なっているのに比べると短いようである。ヨーロッパでは千年も前の建物に今も住んでいるのを多く見かける。
また古い建物ほど不動産価格が高く評価されている。それに引き換え日本は、耐用年数が充分あるものも
簡単に取り壊し、新しい建物に変える。 その為、建築資産の蓄積がなされない。最も、日本には、
伊勢神宮の遷宮などに見られる古来からの信仰「祓って、清める」と言う風習など、根っこにあるのかも知れない。
以前に、訪れた街並みが、すっかり変わっていたと言うのも、記憶が失われる様で寂しいものである。
今回明治村を見学し東北地方の人々の故郷喪失の心境はいかばかりか計り知れない。一刻も早い復興を祈ってやまない。

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