南国・土佐へ
2010.11.17〜11.19

以前、高知を訪れたことがある。 当時は高速道路もなく伊丹よりダグラス製のレシプロ機で

土佐の日章飛行場に降り立った。 あれから50年、高速道路は整備され、本土から四国へは

三本もの大橋も架られた。 しかし日本はすっかり活力を失い歴史的な岐路に立たされている。

 それを案じてかT.V.ドラマでは幕末に「国のかたち」をつくった「竜馬伝」が佳境を迎えている。

 そんなことからこちらも竜馬を尋ね土佐へ出かけることにした。 今回は、「淡路・鳴門大橋」を

利用しての訪問である。 朝7時に出発し、名神高速で吹田インターに出る。  吹田からは

混雑を避け、中国自動車道に入り、豊中から寶塚を貫ける頃には、やっと車も少なくなった。


 やがて神戸JCT、これより中国道に別れ山陽自動車道を南下する。 神戸西ICを過ぎて

神戸淡路鳴門自動車道に入る。 この辺りは思ったより山がおおく布施畑トンネル、舞子

トンネルと隧道が続く。 やがて舞子で漸く地上へ出る。 それもその筈、もう目前に

明石大橋が迫り潜っていられなくなったのである。 銀色に輝いたどてかい鉄塔に

太いワイヤーを弛ませ異様な姿である。 さすが世界最長のつり橋と言われるだけに

塔の高さも聳え立っている。 その2本の塔の真ん中に向かって車は突っ込んでいく。

 瀬戸大橋の児島坂出ルートと違って、こちらは鉄道はないが、それでも、でかい。

瀬戸内の風景は素晴らしいが、あまり脇見もできず我慢の運転で淡路島に到着する。


ここは愛知の知多や渥美半島によく似た地形で、もう少し海が見える思ったが、小高い

山あいのコースである。 淡路島を縦断し四国・鳴門市に入る。 時計は10:30分、家より

3時間30分を要して四国に到着。 鳴門より高松自動車道へ入り高松に向かい暫く走り

板野ICで降り、徳島自動車道の藍住ICまで一般道路を走って徳島自動車道に乗り継ぐ。


四国は更に山が深く、徳島自動車道は山の中腹を吉野川に沿って進む。 朝が早かった

ためか、腹が空いてきた。 時計は11:20分、少し早いが上板PA」の標識が見えたので

そちらへ吸い込まれる様に入って行く。 PAの売店には、この地方の名産の鳴門金時芋を

原料にしたみやげ物が一杯で、勿論、金時芋も3本パックで売っていた。 店屋を貫けて

食堂に行くと、セルフサービスでラーメンやらうどん、ハンバーグからとんかつ、一応のものが

メニュ−にあった。 自分はその中のチャーハンと醤油ラーメンを、家内はうどんを注文する。

番号札を貰って待っこと暫し、お姉ちゃんの ”8番さん” の声がかかり早速、窓口に行く。

腹もすっかり減った様だ! スルスルとソバをすすりチャーハンをつつく、それを繰り返し、

どうやら腹ごしらえもおわる。 妙なもので食事を済ますと疲れもとれ、頭もさえて来た。


本線に戻ると車は殆ど見かけない状態。 右は讃岐山脈左は吉野川が覗く見下ろす景色に

気持ちのいい快調なドライブが続く。 自然スピードは上がり愛媛の川之江JCに向かって

どんどん進む。 三好市を過ぎ高校野球で有名な阿波池田を過ぎ愛媛県に入ると、間もなく

川之江JCT。 この間大きなトンネルに4・5回潜る。 ここからは徳島道路に別れて高知自動

車道である。 いきなりトンネルに入ったかと思いきや、それからはトンネルの連続。 四国山脈

を横断するのだから当然でもある。 しかし、良くぞここまで掘ったものでもある。 道路は立派な

ものであるが、この交通量では勿体ないかぎり、大きな赤字なのであろう。 前も後も車が見えず

独り占めのドライブである。 それでもミラーに車が一台見えてきた。 トンネルは相変わらず続き、

出たかと思うと、直ぐ又入ると、いった具合。 四国山脈の山並みの厚さを感じる。 途中「19個の

トンネルがつづく」との案内があったが、高知道は行程の殆どがトンネルと言っても過言でない。


それでも上板PAから2時間ほどでトンネルも終わり南国インターが見えた。 南国の空はすっかり

明るくビロウ樹も生え南国土佐らしい景色である。 インターを降り45号線を土佐湾に向かって南下

海岸を走る国道55号線に出て暫く走ると、南国の午後の光を浴びてきらきらと輝く海が見える。

輝く海は大きく広がり膨れ上がって地球の丸みを感じさせる。 海を右手に安芸市へと向かって走る。

安芸には岩崎弥太郎の生家が残っている。 走ること20数キロ安芸市役所の先を左折して道幅の細い

29号線を北へ上ると大きな「岩崎弥太郎像」の看板が見えた。 案内に従って行くと大きな駐車場が

準備されていた。 生家まで登り旗が建てられ、流石に三菱グループの力が窺われる。 生家横には

コスモス畑が広がり農村の風景である。 生家前には売店もあって女の子が一人手持ち無沙汰で

番をしていた。 冠木門を潜ると萱葺きの岩崎家が当時の面影を残し建っていた。


岩崎弥太郎生家

    
岩崎弥太郎像案内板                        コスモス畑                              岩崎家 門


中に入ると古材が使われ、間取りは農家の造りで貧乏だった様子が伝わって来る。 不思議だったのは囲炉裏の火を床に

通したのかオンドルの作りが残っているのに驚いた。 庭には弥太郎が子供時代に作ったと言われる日本列島を模した

庭石が置かれ天下飛躍の夢を見たのであろう。 家の隣には不相応な大きな「弥太郎出生の地」の碑が三菱グループ

の手によって建てられていた。   * 弥太郎は旧三菱財閥の創始であった。 帰りがけ他の客に説明していた黄色の

コートを着ていた案内の人に近所の土居地区にある「土居廓中」を訊ねると、態々現地まで案内して説明までして貰った。


    
弥太郎生家                           「弥太郎出生の地」の碑                  日本列島を模した庭石


訊ねて見ると、その人はボランティアをしているとのことであった。 土居廓中(どいかちゅう)とは

安芸城を中心とした武家屋敷で徳川の代になり土佐は長曾我部氏から山内氏となり、その家臣で

ある五藤氏が安芸城を治めることになった。 当時は一国一城制がひかれ、城を二つ持てない為

「土居廓中」と呼んできたそうだ。 現在、武家屋敷40戸ほどが残っていて、敷地は300坪、邸30坪と

決められていたそうである。 構えは何処も質素で、瓦の練塀や土用竹の生垣も多く見かけられ、

岩崎弥太郎も、この土用竹で鳥篭や虫篭を作り売っていたそうだ。 屋敷のうち野村家は山内一豊が

五藤為重と高知にやって来た時に選ばれた数少ない高知出身の武士の一人と言われ、現在邸を公開

されている。 大きな門をくぐると、玄関横にもう一つ門が構え塀重門といって敵の襲撃を防ぐために設け

られたと言う。 玄関は三畳という狭さで、いざと言うとき立ち回りがし難い様、あえて狭く作ったそうだ。


土 居 廓 中

   
弥太郎も通った書道熟                   野村家・入り口門                      野村家 三畳の玄関




   
瓦の練塀                          土用竹の生垣


次に武家屋敷から安芸城へと歩く。 安芸城は1309年に安芸親氏によって築かれた。 安芸氏は土佐東部に勢力を

誇ったが、最後の安芸国虎は長宗我部元親に攻められ菩提寺浄貞寺にて自刃した。 安芸氏滅亡後、長宗我部元親は

実弟、香宗我部親泰を城主にし長宗我部氏の阿波侵攻の重要拠点としたが、関ヶ原の戦で西軍に組みした

ために改易となリ、掛川より山内一豊が藩主として入国、安芸には重臣・五藤為重を配して一国一城令後も

「土居廓中」として続いたと言う。 城の説明を聞き、ボランティアの人とも別れる。

 彼は今、大勢の人が当地に訪れてくれるので、その案内が生きがいになって

NHK様々だと、言っていた。


安 芸 城

   
枡形虎口 安芸城                      外堀と土塁 安芸城                    五藤氏氏神、右手民族資料館


安芸市を後に、これから高知まで約40km南国バイパスを往きとは逆に左に逆光の海を見て走る。

暫く走ると南国市に入る。 後免の高知空港も、今は「高知竜馬空港」の標識が上がってやる気満々、

ボランティアのおじさんの言うのも本当のようだ。 後免を過ぎ南国市の海とも別れ高知市に入る。 

やはり高知は賑やかで車も多くなった。 国道55号は何時の間にか32号に変わり国分川を渡って

街の中央部へ、「はりまや橋」の交差点を過ぎ県庁前の交差点に来ると、右手に高知城が見える。


交差点を左折してお城を背にし走ると南国らしい椰子の街路樹の突き当たり、今日の宿「三翠園」

到着。 門の前で駐車場を訊ねると、”この門を入ってください” と言ってくれる。 どうやら、こちらの

従業員のようである。 この宿は二度目であるが、以前とは、すっかり変り、日本式の宿は一変し

14階建のホテルになっていた。 あれから50年、当時、こちらでは「南国土佐を後にして」と言う

歌を聞いたが・・ 戦後JAZZ歌手で一世を風靡したペギー葉山の歌謡曲で、懐かしく蘇って来る。


車寄せに案内されて、” 車のキーをお預かりします” と言われ、鍵を渡してフロントへ行く。

建物は一変しているが、昔の日本庭園と門はそのままであった。 このホテルは山内容堂公の

下屋敷跡で現在は日本庭園の一部と大門と下屋敷長屋(国・重要文化財)が残っていて歴史的

な縁の場所でもある。 山内容堂が「安政の大獄」で陰居の身となり、居所として新築し以前は

茶室、庭園などもあり壮麗な屋敷で合ったと言われ、時代の流れに幕府の終わり感じ1867年

「大政奉還」の幕府への建白の決意を藩士達に伝えたのもこちらであったそうだが、新政府に

なっても土佐へは戻ることが出来なかったと言う。 7階の部屋に案内されて窓より日本庭園や

周囲の様子を暫く眺めていると古きよき時代への郷愁がよぎる。  仲居さんに景気の様子を

訊ねると”ここのとこ盆と正月が来ている様で竜馬さんのお陰で有難いことです”と笑顔で

答えた顔が素敵だった。 食事を6時半に頼んだので風呂に入ろうと出かけるが、確かに

仲居さんの言うように混んでいるので、暫く後に入いった。  団体客が入浴していたのか

すっかり人も少なくなって、何とも言えないいい匂いのする湯で入浴する事ができた。

湯上りに、係の人が「ゆず茶」をいれて呉れて、味がとても爽やかなものだった。


前に来た時は温泉ではなかったが・・・仲居さんの話では平成9年に土佐では初めて、こちらに

温泉が出たそうで現在も出続けているそうだ。  夕食は皿鉢懐石(さわちかいせき)の部屋食で

一尺三・四寸もある九谷焼の立派な鉢の様な大皿に鰹のたたき、ひらめ、はまち、まぐろなど

刺身がメインで、他に、海つぼ、地鶏、川海老料理等に舌鼓 何れも食材が新鮮でいい味が

出ていて、板前の心意気が伝わって来た。 食後、TVを見ていると「歴史秘話・ヒストリア」が

始まり奇しくも143年前の今日、坂本竜馬と中岡慎太郎が京都東山に葬られた日だと言う。

2日前の15日二人は京都・川原町の近江屋で刺客に襲われ竜馬はその日に死亡。

中岡慎太郎は2日後の今日亡くなり、二人一緒に霊山に埋葬されたと言う。

TVを見終わり、なにか因縁を感じた。


三 翠 園

  
三翠園 大門 「旧土佐藩主・山内家 下屋敷跡」の提灯が下がる。                        ホテル・ロビーより庭園を望む


50年前に来た時は若くて何も分らなかったが、今回は老舗旅館のプライドと品格を感じることができた。

食後、ホテルの日本庭園(旧土佐藩主山内家庭園)を散策。 ホテル玄関を出て左手に蘇鉄の植木あり

其処に立札があった。 立札には山内容堂・西郷南州会見の地とあり「慶応三年2月17日薩摩・島津公の

命により西郷隆盛来藩す。 山内要堂は当邸内 物見座敷・此君亭に土佐藩士福岡孝弟を従え西郷隆盛及び

吉井友実を引見し共に時局の重大性を語り西郷隆盛は頻りに山内容堂公に上洛を促した結果、ここに肝胆相照

らし明治維新回天の基礎を確立した由緒深き邸跡である。」 とあった。 又、庭の正面には小さな「はりまや橋」

がある。 元は明治代の橋があったが、平成10年に市に寄贈したことから、今はレプリカが置かれている。

庭隅には柏の木があり、木の葉は山内家の紋、丸三葉柏で、一豊公の父君、盛豊公が戦勝した故事によると

年中葉を落とさないという縁起の良い樹だそうだ。


      
      はりまや橋                   山内容堂・西郷隆盛会見の邸跡                丸三葉柏の木


庭散策の後、長屋資料館(国重要文化財)を覗く。 長屋は大門に続き、幕末の香りを放ち2階建構造白壁造りである。

昔は警護番役の足軽らが居住していたと言う。 中には山内家縁のものや藩政末期の下層武士の生活道具が展示され

駕籠、机、長持、千石船レプリカなど展示され、中でも竜馬が船中八策を起草した土佐藩船「夕顔」は印象に残った。

2階に幕末土佐藩の歴史に名を残した人物写真があり、本人に出会った様な気がして人物の心まで見えて来る気がした。


山内家下屋敷長屋
  
三翠坂に建つ長屋                         展示品・駕篭                            机と屏風



   
長持、屏風は江戸画家の春木南溟作                各種和船の模型                        土佐藩蒸気船・夕顔丸   



   
山内一豊、山内容堂、坂本竜馬、板垣退助、吉田東洋、武市瑞山、吉村虎太郎



      
岩崎弥太郎、後藤正二郎                          山内容堂・南邸跡


ホテルに荷物を預け、今日は市内の歴史スポットを見学。 まず初めに西隣の鷹匠公園の北側入口に

山内容堂の南邸跡があり、一部広場として残っている。 山内容堂は城前の追手邸で生まれ、

6歳から22歳までの藩主になるまで南邸で暮らした。 この邸の南側には山内神社があり

初代藩主・山内一豊、同千代夫人と土佐藩歴代藩主が祀られている。

神門を入ると容堂公銅像があり朝日を浴び、「鯨海酔候」と言われただけに

右手には大きな杯を握っていた。 彼は酒と女と詩を愛したと言われている。


山内神社と宝物資料館

  
神門                            山内神社                          山内容堂公像

神社の西には山内家宝物資料館があり、入ると山内家歴代の系図、土佐藩の歴史、古文書や書簡類、焼物や能面等の

美術品が展示され、資料は7万点近くあるそうだが、展示されているのは僅かで、資料館が少し手狭まなようだ。

印象的なものを次にあげる。


        
         毛利家の陣羽織と兜               山内家の家紋、柏にちなんだ柏形兜と板屋貝兜     豊範公が学んだ万葉集、赤字で細かく注釈している



坂本竜馬誕生地と竜馬街記念館

三翠園から西へ約600m程の処に坂本竜馬の生誕地がある。 こちらは当時武士の下士が住んでいた上町である。

土佐は山内一豊が関ヶ原の戦いで東軍の長宗我部勢を抑えた功績から、土佐に入国して抵抗勢力を治める

ため山内家臣を上士とし長宗我部の家臣を下士とする差別制度を行い住む場所も上士とは区別されていた。

 竜馬は、その下士であった。  県庁前交差点を西へ歩くと、左側にのぼり旗が上がり大きな「竜馬生誕之地」の

標識があった。 道路に沿った一角に「坂本竜馬生誕之地」の碑があり、2日前、龍馬生誕記念(竜馬は命日

と誕生日が同日)が行われた為か新しい生花と提灯が供えられていて、碑には「江戸にて北唇一刀流の免許

を受け、時勢を感じ土佐勤王党に加盟、文久2年3月24日脱藩、勝海舟門下となり、神戸海軍塾の塾頭を務め

その他長崎に海援隊を組織し中岡慎太郎と薩長連合を実現、後藤象二郎に協力し大政奉還運動を推進目的を

達する。彼の船中八策は新日本の行く手を示す基案となった。慶応3年11月15日、京都・近江屋で反対勢力

の襲撃にあい中岡慎太郎と共に斬られる 33歳」 とあった。



     
竜馬生誕の地の碑                  上町の生誕地標識                      竜馬最後撮った写真


竜馬の碑のある裏手道に「生まれた町記念館」が2004年につくられ覗いてみる。 竜馬の生い立ちと一生が物語風に

展示され、上町と竜馬の家族の様子を模型映像で子供向けに展示されていた。


  
           館入り口の竜馬像             本家・才谷屋と坂本家 饅頭屋・近藤長次郎の一生




高 知 城


高知城は市街の中央にあり、慶長6年掛川城より土佐に入った山内一豊は長宗我部の残党を抑える為

難工事が予想される鏡川と江の口川に挟まれた大高坂山に築城をした。 これは長宗我部氏が出来な

かったことをあえて行い実力を誇示することであったと言う。 現在木造天守の残っている12の城の中の

一つで国の重要文化財に指定されている。 中でも本丸御殿が残っているのは高知城だけと言う。

この城で山内藩は一豊より豊範まで16代つづいて来た。


門への道の右手に山内一豊の騎馬像がある。 更に進むと行き止まりとなり追手門が右手に構えて

枡形に三方より敵を狙えるように造られている。 次いで鍵の手の石段を登ると板垣退助の銅像があり

杉の段に出る。 そこには一豊の妻・千代の像がある。 更に左手に鍵形の石段を上がると左に詰門が

見え、ここを入れば直ぐ天守の様に思われるが罠があり、その先には天守は見えず三方より囲まれ

狙われる構造となっている。 天守へは左に回りこみ二の丸より東多聞廊下門を通らないと

本丸には入れない。 (詰門の二階が本丸への廊下橋となっている)



山内一豊像




   
追手門より天守を望む                           天守閣       



  
追手門                  詰門 2階部が本丸への廊下橋となっている                東多聞廊下門


天守閣は4層6階の構造で内部は同じ木造の松本城よりは仕上げに手がかけていて特に階段手すりや天守の廻り縁の手すりなどめだつ。

 天守閣は資料館として利用され、 本丸御殿は、こじんまりとして小さな庭もあるが、本御殿は二の丸にあったそうだが今は無い。

御殿内は幕末の雰囲気を残している。 部屋を見ていると、ゆれる心の容堂公の姿が浮かんで来る。

 部屋の欄間の鯨の潮吹きはNHKの「竜馬伝」にもでて来たもの。


    
本丸御殿と天守                        本丸御殿玄関部屋                       本丸御殿 鯨の潮の欄間




   
藩主 上段の間                       上段の間 武者隠し                      天守閣への階段




   
長宗我部氏時代の一領具足の兵士                  天守閣                             天守閣より見る高知市街


以上で、城を出てホテルに戻り、午後からは車で桂浜と武市半平太の旧宅に向かう。



坂本竜馬記念館(桂浜)

ホテルから桂浜は南へ10kmほどの浦戸湾の先に突き出た岬にある。

高知桂浜道路を通って行くがトンネルが幾つもあって、土佐は85%が山であると言うことが頷ける。

竜馬記念館は太平洋に面した高台にあり、ガラス張りの長方形を寝かしたモダンな建物で

竜馬記念館には似ても似つかん雰囲気である。 一階は竜馬の生い立ちから年をおって

飛躍していく生涯を出来事ごとに展示している。

地下二階展示は展示の目玉で血痕のついた掛け軸と屏風(斬られた近江屋にあったもの)

竜馬持参のピストル、竜馬が刺客と渡り合った刀、竜馬の紋服などが展示され、

竜馬の手紙や文書が多く展示されていた。

手紙類                                                       

脱藩後初めて乙女姉に出した書簡 :勝海舟の門下に入った事で目標にしていた海軍創設が現実になる喜びに溢れている

○お龍との新婚旅行の手紙で霧島の頂上で鉾を抜いた楽しい話など 乙女姉宛                             

      ○国元で志を持たず徒に日を送る者を大馬鹿者と断じ、お龍に読ます為に姉乙女に礼法の本を送るように依頼し、              

お龍の身上話を紹介、お龍を認めてもらおうと懸命になっているもの。                                

 ○薩長両藩盟約成立し、桂小五郎が龍馬に裏書を求めた。 慶応3年2月5日、朱で裏書をして大阪に居た小五郎に届けたもの

○竜馬の借用証文 竜馬が武市半平太より萩・久坂玄瑞宛の親書を頼まれ、坂本家の山林管理者・田中良助に旅費を    

2両借りた。(約15万円) その時の借用証文  等々                                         


館内は訪問者が多く、韓国の高校生の団体が来ているのには驚いた。 韓国ではNHK・TVが見られるので

興味があるのであろう。 展示の中ではやっぱり京都・近江屋の竜馬と慎太郎が暗殺された部屋の復元は

血痕も残り幕末の緊迫感が迫ってくる。


   
竜馬記念館                              お龍と竜馬 


   
京都・近江屋で竜馬が斬られた時の血痕の屏風            竜馬が刺客と渡り合った刀                 竜馬持参のピストル2種          




      
京都・近江屋の竜馬と慎太郎が暗殺された部屋復元    近江屋で竜馬が斬られた時の血痕の掛軸           竜馬の借用証文 田中良助宛        



桂  浜

竜馬記念館を見て遊歩道を下り、桂浜の竜馬像へ歩く。 遊歩道より見える太平洋の美しさに見とれる。

竜馬は、その先のアメリカを見ていたのであろう。 そんな気がする・・・

やはり桂浜は人気のパワースポットか? 大勢の若者が訪れていた。

浜辺には下りれず、後ろ髪を引かれて次の武市j瑞山宅へ。


   
桂浜・竜王岬                          桂浜・砂浜と広がる海原





桂浜の竜馬銅像




武市半平太(瑞山)旧宅

武市瑞山
宅は高知港の東側で城下からは離れたところにある。 道を間違い瀬戸大橋を渡りそこねた為、

大きく北上し迂回すことになり下田川を遡ってナビの指す付近に来るが、さっぱり分らない。 

近くの茶店で訊ねると、南の方向に指さす方向を見ると、白い壁の横長の建物が山の麓に夕日を浴びていた。

 道路脇に車を止め道路より私道の様な細い道を家に向かって進むと道は突き当たる。 案内板があり

左・武市半平太旧宅、右・墓と瑞山神社とあった。 まず左の方へ坂を上ると農家風の建物があり公開はされていなかった。

道を戻り鳥居を潜ると記念館があり背後に祠があった。 記念館には半平太の生涯と功績に対する賛美があった。

記念館の横の山道を登ると武市家の墓がひっそりとあった。 


     
茶店より見えた武市瑞山宅                  道よりは入ていった武市瑞山宅                    武市神社    



    
武市半平太之墓                      同夫人・富之墓


武市家は元々豪商であったが後に郷士に取り立てられ半平太の代には郷士ながら上士に準じた扱いを受けていた。

彼は、この家で生まれ両親をなくし、妻・富と結婚してから高知城下に転居し、ぺりーが浦賀に現れ世情が騒然と

する中、剣術に秀でていたことから、妻の叔父と道場を開き、名声も高まり道場も栄えた。 中岡慎太郎、岡田以蔵

吉村虎太郎などの門下も集い、やがて藩の臨時御用として江戸での剣術修行が許されて桃井春蔵道場の

塾頭となり江戸諸藩との交流も広まって長州、薩摩、水戸藩の攘夷派との交流もあり土佐勤王党結成を策す。

竜馬や間崎哲馬、平井収二郎など同志を集め土佐勤王党も結成されたが・・・・ 切腹を命ぜられる。 

罪状は主君への不敬行為とあるが吉田東洋暗殺の責めであった。 

山内容堂は武市を亡くした後、人材をなくしたと悔やんだと言う。

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