三河温泉と吉良の里 2


宿の精算を済ますと、「子供さんにどうぞ」と、又、Jリーグ・キリンカップのリストバンドを貰う。

大人にはタオルで作った小犬を呉れる。 こまごまと、よく気の付くサービスぶりである。

リストバンドは孫に渡すとオテンバ娘は、早速腕にはめていたが、兄ちゃんはポケットに仕舞った。

兄弟でも大分違いがあるようだ。

これで、宿ともお別れ、今日は吉良町へと行くことにする。

吉良出身の有名人は、古くは吉良上野介義央、吉良家の剣客・清水一学、侠客で名を成した

吉良の仁吉、近代では人生劇場の尾崎士郎など、今日は、その中の吉良上野介の所縁の場所へ。

吉田で247号線を右折し吉良町役場の前を北上、西尾市との境に華蔵寺がある。




華蔵寺は吉良家14代義定が1600年に祖先の菩提追善のため開基したとされ

13代義安から義央の養子18代義周まで吉良家6代の墓を祀るとある。

吉良家は鎌倉時代に足利氏が三河守護・吉良荘地頭を務め、この地に居住した事に由来する。

室町時代には足利将軍の一族として幕政の中枢で活躍したと言われる。

小高い丘を背景とした林に囲まれた時代を感じる雰囲気を持った環境である。




華蔵寺山門





山門、片岡山の風変りな字体の額






山門を潜ると、きつい階段があり、それを登ると正面に新しい本堂がある。

その左手には御影堂がある。 更に奥は吉良家の墓と経蔵へと続いている。



本堂





吉良氏御影堂






吉良家17代義央(上野介)

忠臣蔵で有名な吉良上野介義央は浅野長矩公に江戸城松の廊下で刃傷沙汰を起こされ、

願いにより隠居して継嗣・義周(17歳)に家督を相続する。  

この後、1702年赤穂浪士の襲撃を受け死去した。



継嗣・義周の墓(上野介義央の養子)1706年没

義父・上野介の為に世間から疎まれた義周は次の歌碑にも有る様に世を忍び

上諏訪の地で21歳の若さで逝去したと言う。


「公よ 忍べ ただひたすらに忍べよかし             

  公の隠忍は知る人のみ知る 真の強さなればなり」



吉良義周の慰霊塔(義央の養子)1706年没





キリシタン灯篭





吉良家14代義定の墓、1627年没





経蔵

この経蔵は義央公が1700年に鉄眼一切経を納める為に寄進したと言われ、

平成14年に修理が行なわれ創建時の柿葺き(こけら)に復元された。





花岳寺入口の騎乗の吉良公

華蔵寺の右手には大きな寺院跡が広がり、明冶以前には塔頭・霊厳寺や広国寺が立っていたと言う。

現在は、その一角に花岳寺の本堂が建っている。








花岳寺本堂

この本堂は1684年の建築で吉良上野介の姉である光珠院が多額の祠堂金を寄付したとの記録が残り、

この地域に残る吉良家ゆかりの建物と言われる。平成14年の修理で屋根瓦をはずした結果、

以前は柿葺きで、その後、茅葺きにされていたことが判った。 

17世紀末の典型的な臨済宗寺院の本堂として登録文化財に指定されている。




碑 真実を求めて

忠臣蔵の吉良上野介義央は憎き上野介として語られて来たが、当地では製塩や治水など

善政の名君として今日まで崇められて来ている。 歴史は別としても

今日、吉良と赤穂の人々が友好であること、何よりである。

ここに地もとの「真実を求めて」の碑を紹介して、吉良地訪問を終える。

人を切る刀はあっても、時の流れを断ち切る刀はないといわれる如く、風習と観念は、時代と共に変遷する。 
元禄時代に吉良義央公と浅野長矩公との間に不和を生じ、その処理に冷静さを欠き、御殿で浅野公が刃傷に及んだ事から、幕府の掟にふれ、家は断絶、身は切腹となった。
浅野公の舎弟大学氏の後継が不首尾になった結果、旧臣たちは禄を離れることになり、一か八かで吉良公を討ちとったが、当時の学者が協議して、赤穂浪士に切腹を命じた。吉良公は、治水等の功績が大で、評判の良い名君であったからである。
名君を暗殺したものを忠臣としたのでは、芝居にならないので、小説家、劇作家たちが、興味本位にいろいろのつくりごとをして、吉良公を極悪人に仕立て上げ、忠臣蔵として世間に広めたものである。

日常交際のイザコザを、殺し合いで解決したのでは、人間としても、どちらかが「汝の敵を許す」といった人類愛に目ざめたなら、世の中は明朗となる。
現在、吉良と赤穂の人々は、お互いに恩讐をのり越えて交歓しているが、これは喜ばしい限りである。
本事件の犠牲となって亡くなられた吉良家々臣の二十余士の方々も、気の毒の極みであり、このたび記念の塔が設立されたのはよい事である。
ここに遺徳の一端を述べ、世の誤解を解き、霊の安らかならん事を心から希うものである。

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