身延山と新緑の甲斐
09.5.4〜5.5


連休に息子と身延山を参詣することになった。  と言うのは珍しく家内が

昨年山梨に行ったとき、身延山へ行きたいと言い出したからである。

そんなことから連休を向かえ、息子共々身延山参りと相成った。

静岡までは新幹線で出て、息子と落ち合い、後は息子の車に便乗することになる。


 連休で新幹線の混雑を心配したが、JR東海ツアーズの「ぷらっとこだま」で、すんなりと割引キップも取れた。

繁忙期に関わらず通常より1000円程安く、リーズナブルである。 

但し、利用される方は制約事項が多いので、ご確認を!


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当日、新幹線は高速道路割引制度のせいか、すいていて落ち着いて乗れた。

社内販売がきたので、割引キップに付いていたドリンク引換券で、お茶を貰う。

名古屋から静岡までは1時間余り寛いだ時間を過ごせた。


静岡駅へ到着、北口のロータリーに出ると、息子は夏姿の半袖で待っていた。

静岡は暖かいから夏姿はいたって普通と言う。 こちらは、とても半袖の気分にはなれない。

飛んだ所で、老いの悲哀を感じさせられる始末!

家内が息子の腕を掴み、”筋肉が堅いね”と、ここでも又、若さへの羨望。


車は静清バイパスを通って興津より国道52号線(富士川街道)へ入る。

暫く走ると富士川に沿って左右を山に挟まれ曲がりくねった道が続く。 富士山麓を並行して走る

139号線とは随分、道は走りにくい。 やがて山梨県に入り、連なる山々は幾重にも重なりモザイクの様な

若葉と常緑樹の濃い緑が入り混じって、この季節の山の美しさを引き立てる。 道路沿いには山藤が花房を

重そうに垂らし、アカシヤの白い花も目につき、新緑を華やかに盛りあげてくれる。 

進むに従い道は狭く急勾配となり、続くヘヤピンカーブで息子の運転は気が抜けない。

昔の人達は、よくも、こんな道を歩いて参詣したものである。


身延町に入ると車が多くなり、渓流沿いに来て列ができ、その後にくっつきストップする。

上からは大型バスや普通車も下りて来る。 対向するのに大変だ。 先の様子を見に車を下り偵察に向かう。

どうやら交通制限をしているようだ。 純朴そうな交通整理の青年がいたので尋ねると、駐車場が

満車で空いた都度、入れていると言う。 これでは、どうやら暫く掛かりそうだ。

覚悟を決めて待つことにする。 それでも20分ほどで入れることができた。


案内の小父さんが来て、”あちらからエレベーターで上がれますよ” と言う。

 尋ねると、歩いても登れますと言う。 聖人さんに失礼と思い折角だったが歩いて登ることにする。

小父さんは、余程、弱そうに見たのだろう。 登っていくと本堂の横手に出た。

様子を見てみると、どうやら駐車場からの進入は本来の参詣の道ではなかった。

やはり寺や神社参りは表参道から行かないと、その世界の感慨は半減する。



                             身延山・久遠寺

  
久遠寺は日蓮が鎌倉時代の1274年に開いた日蓮宗の総本山である。 日蓮は他宗を仏の教えに違うものと批判し  

  幕府にも立正安j国論を示し法華経でしか世を救う道はないと諫言し流罪となる。 その後、熱心な信者であった甲斐国  

  波木井郷の領主、南部六郎実長に招かれ身延山に草庵をむすび日蓮宗を広める。 また蒙古襲来危機を幕府に訴えたが

  
入れられず、蒙古襲来のあと病に掛かり、郷の小湊に療養の為、帰る途中、東京で亡くなる。 1282年、61才であった。





本堂から見た境内

本堂からは右手へ祖師堂、報恩閣、拝殿(御心骨堂)仏殿、客殿へと繋がっている。

本堂前には昨年完成したばかりの真新しい五重塔が威風堂々と聳えている。

5月13日には各界の賓客を迎え落慶法要が始まるそうだ。

初代の塔は加賀藩主・前田利家の側室・寿福院の建立と言われ、

彼女は徳川家康の側室・お万の方と並び法華経の信仰が深かったそうだ。

お万の方は、家康とは信仰が違うが巧く行ったのだろうかと、要らぬ心配。


本堂も新しく昭和62年に再建されたもので、1875年の大火で堂塔伽藍を全て焼失し

長年の念願がかなったばかりと言う。 前に立つと、 心を込め最高の技術を結集し

造られた建物の力が伝わってくる。  本堂は白い幕が垂らされ中に入ると天井には、

日本画家・加山又造作の大きな龍の天井画が睨みをきかしている。

 やはり寺院では火災除けに欠かせないアイテムなのであろう。

境内は白砂が敷かれ掃除が行き届き、落慶式を控え寺の意気込みが伝わってくる。 





本 堂






完成したばかりの五重塔。赤柱が荘厳さに華やかさを加える。

五重塔の左手には大梵鐘があり、この梵鐘は家康側室・お万の方の寄進により

やっと鋳造がかない1624年に完成されたもので、重要文化財になっている。

その前では修行僧と思われる若い僧侶が大きな声を張り上げ、

参詣者への感謝と日蓮宗や寺院のPRをしている.。 

参詣客は、ちらりと見かえるが、余り関心をしめさない。

僧侶にとっては、し甲斐のないことと思うが、それが、また修行につながるのかな。


本堂の隣は飾り金具で金ぴかに飾られた 祖師堂がある。 破風や庇下には精緻な彫刻が

なされ極彩色に彩られ豪華なものである。 この堂は日蓮聖人が祀られ

聖人の魂が棲んでいるという意味で、「棲神閣」と呼ばれ、大きな扁額が掛かっている。

この堂は明治14年に再建されたもので、明治の建築とは思えない新しさで、

手入れの良さが伝わってくる。  中央に日蓮聖人像が安置されていた。



祖師堂


祖師堂の先は報恩閣で久遠寺の総受付を始め参詣者への対応を司り、入口の

前庭には樹齢400年を超える有名な枝垂桜がある。 境内にはこの他にも枝垂桜の

古木があり、寺周辺には数百本の桜が植えられていて、桜の季節には 

参詣者と花見客で大混雑をきたすそうだ。


 中に入ると若い僧侶が「こんにちわ」と親しげに挨拶をしてくれる。 

寺のイメージと少し違う様で、ホテルマンのように感じた。 

寺も時代と共に観光化していかないとこれだけの伽藍は維持できないのかも知れない。 





報恩閣前の若葉を垂らす枝垂桜。








同、春には華麗な花の枝垂れ桜が見れると言う。 しかし、青葉の桜も見事なものである。

桜の大樹に見とれ、隣の御心骨堂へと向かう。 この堂は八角形の白亜の堂で屋根に金色の

水煙を戴き、前に拝殿が配置されている為、全貌は見えにくい。 

こちらには日蓮聖人の御心骨が奉安されている。



御心骨堂・拝殿






仏殿・納牌堂袖建物

次いで仏殿・納牌堂は全国信者の位牌が安置されている。






仏殿・納牌堂より望む五重塔と身延山の新緑






客 殿

境内の突き当りには客殿が構え、皇室など貴賓を迎えるところ。

普段は閉ざされている。



庫裏







参拝し終わり帰りがけ、後から声が聞こえて来る、振り返ると白装束の信者の集団が

リーダーに合わせ、お題目の” 南妙法蓮華経 ”をとなえ進んでくる。

大勢の合唱は腹に響いてなんとも厳かしい。 装束を見ると、佐賀県からの一同で若者の多さに驚く。


帰りは歩くのをやめ、歳に免じてもらいエレベーターで降りることにする。

帰り際、坂を下り門前町の外れに来ると三門が、ちらりと見えた。 シャッターを切る。

京都の知恩院など日本の3大門の一つに数えられ、この三門を潜ると「菩提梯」と言われる

287段の急な石段が構えている。



三 門


身延山とも分かれ、ヘヤピンの多い山道を52号線へ走る。

甲府昭和を経て甲府市内を北へ突ききり、富士川の支流である荒川を遡ると昇仙峡の天神森に入る。

更に進むと何時の間にやら駐車場へ。 お婆ちゃんが寄ってきて1000円ですと言う。

楽しようと奥まで車を乗り込むと、魚が定置網に吸い込まれる様に捕らわる仕組みである。

一旦入ると戻るに戻れず、お婆ちゃんのお世話に身をゆだねる。


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御岳昇仙峡

昇仙峡は甲府盆地の北部に位置し、荒川ダムより流れる渓流で日本一の渓谷美と言うが

日本一に異論もあろうが、まあ言ったもん勝ちということかな。 


渓谷は天神森地区の長潭橋(ながとろ)より仙娥滝までの約4kmのコースで、

遊歩道を渓谷に沿って歩く。 後期高齢者には、坂道がなだらかでなにより。

モミジやウルシなど若草色の新緑の中に、赤松の幹が赤い肌をのぞかせる。 

中国や韓国でよく見掛ける岩山に生える赤松の風景で水墨画の様である。 

日本では少ない風景ではあが、 この景色を日本一と言ったのかもしれない。

渓流を流れる水は岩々を縫って自在に流れ、瀬おとを聞かせてくれる。

五月の風は赤松の若葉をすり抜け、人々に安らぎを与えて呉れる。










亀石
















渓流を眺め、峰の景観を見ながら遊歩道を登って行くと、上手より馬が蹄を鳴らしやって来た。

この馬車は長潭橋から仙娥滝まで運行しているもので、楽しそうであるが車上にて眺めが制約される。

こちらは、馬車に乗るほど弱ってはいないので、気ままに遊歩道を歩くことにする。 

しかし、眺めていると、慌しい時間に逆らった歩みで、ぽっくり、ぽっくりと、一足づつ歩む。

この雰囲気が自然なのかもしれない。 時代は余りにも急ぎ過ぎる。




































マツタケ岩








渓流は岩にぶつかり砕けて、また集まり繰り返しして流れていく。

海で暖められ蒸発した水は水蒸気となり、雨となってまた戻って来る。

人間の生命を維持してくれる自然の営み。 しかし、この循環が人間の

造った文明という怪物に脅かされていると言う愚かさを考えてしまう。



  



つづく