京都 時代を歩く

壬生・御所・高台寺・木屋町・二条城・醍醐寺・南禅寺・知恩院・建仁寺

2012.1.6〜1.8

京都は何度訪れても、また行きたくなる処である。 それは1100年と言う歴史を重ねた古都であったことが、

人々に受け継がれ、知恵と情熱とで残してきたものが街の中に残り、その時々に発見できるからであろう。 

そんなことから、また息子と京都を訪れた。 最初に行ったのは壬生地区である。壬生と言えば新撰組の本拠。

まず壬生寺に行く。 昔の道幅の為、車では少し走りづらいが、直ぐに見つけることが出来た。

壬生寺


壬生寺

寺は参拝者が多いのかしっかりとした形で残っていた。 正面に本堂があり、右手に壬生塚と呼ばれる墓がある。

境内には新撰組の11人の供養塔があり、芹沢 鴨の墓もあって、酒好きであった故人を思い、本日も一升瓶が供えられていた。

案内によると新撰組は1863年、壬生の地において結成され、こちらは隊士の兵法調練場に使われていたと言う。



新撰組の墓地・壬生塚



  
俳優・上田吉二郎が建てた近藤勇像           芹沢 鴨と平山五郎の墓          





河合耆三郎の墓  新撰組供養塔


八木邸

壬生寺を参って、直ぐ東に新撰組の最初の屯所であった八木邸がある。 入って行くと案内人の

小父さんが出てきて、「説明とお茶が付いて千円ですと言う。 早速、千円を払うと、こちらへと玄関

より奥座敷へと案内される。 新撰組は当初、八木邸に逗留していたが人数が増えるに従い、宿を

増やしていったが、現存しているのは前川邸と2軒である。 八木家は元は越前・浅倉氏の家臣で

あったが、浅倉家が滅亡したため、こちらに棲み付き、姓名も代え江戸所代になって郷士になったと言う。


当時、この辺りは畑で二条城や島原の角屋が見え、五山の送り火もよく見えたという。 辺りの畑には

壬生葱が多く作られていたそうだ。 徳川家茂上洛に備え警護のため清河八郎率いる浪士隊が入洛したが、

当時、旅館が混んでいて、その宿舎の一つに八木家の屋敷が引き当てられた。 清河ら浪士隊の殆どは、

しばらくして江戸に」引き揚げたが、こちらに分宿していた芹沢鴨、新見錦、近藤勇、土方歳三らは考えが違い

京都の警備に当たり、会津藩主・松平容保の配下で新撰組となった。 隊士は当初、十数人であったが、

次第に増え分宿して市中の治安警備を行っていたが、1864年、池田屋で過激な長州藩のクーデター計画を


察知し未然に防ぎ、その名を洛中に轟かした。 八木邸は室町時代より現在15代となり、現在も前で

御菓子司・鶴屋を営み屯所餅を商っている。 その奥に長屋門を構えた郷士と言うより高級武士を思わす

屋敷に見える。 奥座敷では、新撰組結成後間もなく、芹沢鴨が飲み代を踏み倒すなど目に余る行動が

問題となり、近藤らは新撰組の信用を失うと言うことから、局中法度により、八月十八日の政変(長州対

島津・会津の戦い)の慰労会を島原遊郭で行い、芹沢鴨らを泥酔させ、二次会を屯所の八木邸で行う

よう誘導し、深夜に寝静まった所を、土方、山南、沖田、原田らが襲い、芹沢鴨は深手を負いながら

隣室まで逃れたが、机に蹴躓き、転んだ所を土方と沖田に息の根を止められた言う。 この場で

芹沢 鴨・平山五郎・お梅が殺害されたが、平間重助だけが逃げて、今も行方不明になっている。

当日は、芹沢が妾・お梅を連れ、平山五郎と平間重助は島原遊郭の女郎を連れて寝ていたと言う。

部屋は血の海だったと言う。 となりの部屋には、その時つけられた刀傷が鴨居に残り、生々しさ

が迫ってくる。 説明が終わり、前の鶴屋で、毛氈の敷かれた椅子で、緑茶と屯所餅をよばれる。

一息入れて、道を隔てた前にある旧前川邸へ。


御菓子司・鶴屋




八木邸と案内の小父さん



旧前川邸

前川邸も元は朝倉家の家臣で10軒ほどが壬生に棲み付いたという。新撰組屯所となった当時は、

掛屋として御所や所司代の公金の出納、奉行所の資金運用など、色々な公職を兼ねていたため、

奉行所や所司代との密接なつながりがあり、上洛する浪士組の宿舎を選定するにあたり、市中情勢

にも詳しく、役人の信頼も厚かったことから、前川本家が、その仕事を任されたと言う。前川本家は、

壬生の地が、京の町はずれにありながら、二条城に近いという点で、地理的条件にも合ったことから

自分の身内である前川荘司の屋敷を提供した。 新撰組は前川邸、八木邸、南部邸、新徳寺に分宿

増加をたどって西本願寺に移り、最後には伏見奉行所に移った。 前川邸では、芹沢派の生き残り

野口健司が綾小路通に面した一室で切腹し、翌々年には総長・山南敬助が島原の遊女・明里と

格子戸越しに最期の別れを交わした後、坊城通に面した一室で切腹している。 池田屋事件の

端緒となった古高俊太郎が釣るされ拷問が行われ、長州の計画を吐露した土蔵も坊城通側である。


綾小路通に面した前川邸・長屋門




坊城通側の古高俊太郎が釣るされた土蔵



京都・御苑

四条通に出て烏丸通りから上がり御所に行く。 御所では駐車場に車を止め、右手の寺町御門より入場。

オフシーズンで駐車場も空いている。 京都御苑は自由に通り抜けもでき、シーズンには市民の憩いの場にもなり

文化的地域として馴染まれてきているが、幕末から維新にかけては、尊王と佐幕派や開国と攘夷に分れ入り乱れ

戦闘の場所となった。 寺町御門より入りテニスコートを横に左手に進むと、丸太町通りに面し堺町御門がある。

長州藩はこの門の警護にあたっていたが、「八月十八日の政変」で薩摩と会津による公武合体派のクーデターで

その任を解かれ、尊皇攘夷派は京都から追放された。 その時の戦いの弾痕が門の柱に残っている。 その後、

長州を初めとする勤皇派は地下に潜り密かに活動を続け、三条・池田屋で政府転覆の密談をしていた所を新撰組

に襲われ、9人の死者を出し、大多数が捕縛される。 大打撃を受けた長州を中心とする尊攘派は、これを契機に

過激化し、1864年の「禁門の変」(蛤御門の変)へと進んでいった。 



寺町御門




堺町御門




当時の弾痕

堺町御門より烏丸通に面した蛤御門へ行く。 この辺りは1864年に始まった「禁門の変」の激戦地で

長州勢が会津藩主・京都守護職の松平容保の追放を目指した戦で戦火は京都市中が3万戸失うこととなり

「清水谷家の椋ノ木」の傍では長州藩の総監・来島又兵衛が会津兵に狙撃され自害し、鷹司邸には、

久坂玄瑞率いる部隊が立てこもったが、屋敷に火を放たれ、久坂、寺島忠三郎ら長州藩士は自害し、

長州藩は朝敵となって、大敗北となるが、時が味方し、薩長連合へと流れ世は倒幕へと傾いて行く。



蛤御門





弾痕





長州藩遊撃隊、総監・来島又兵衛が討ち死にした清水谷家の大椋の木





京都御所





御所・建礼門





御所・建春門

御苑を出て寺町通りにある「源氏物語」ゆかりの地と言われる蘆山寺へ。

この地は紫式部の曽祖父の藤原兼輔の屋敷があったところで、式部の父・藤原為時に

ゆづったことから此処で「源氏物語」や「式部日記」が執筆されたとされている。



蘆山寺

御所界隈を見た後は、東山へと進め、一番奥まった祇園高台にある駐車場、ねねの高台寺に車を留める。

この辺りは、何時来ても賑やかで、京都らしい京都の街が連なっている。 ねねの道の店屋の小母ちゃんに

昼飯場所を尋ねると、下河原通りの「ひざご」を教えてくれた。 ねねの小道を通って石塀小路を抜けると店があった。

丁度、昼も、ずれていたが客は一杯だった。



ねねの道




石塀小路

食事を済ませ高台寺に入る。 高台寺は八坂の塔(法観寺)の東北にある豊臣秀吉没後

その菩提を弔う為、北の政所が開創した寺である。 徳川家康が政治的配慮から多大の財政的援助

を行ったので寺観は壮麗を極めたと言う。 現在は表門と開山堂、霊屋、傘亭、時雨亭、観月台が

残っている。 こちらは平成8年の桜の時期に訪れたが、矢張り春とは華やかさが違う。

今回は、山の上の傘亭、時雨亭は御無礼する。



高台寺 方丈



 
開山堂                                        霊屋


季節にかかわらず霊屋の壮麗さは何時見ても素晴らしい。

高台寺駐車場の前「維新の道」に翠紅館がある。

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