京都 時代を行く

高台寺界隈・木屋町・二条城・醍醐寺・三宝院

2012.1.6〜1.8

翠紅館

こちらは現在「京大和」という料亭になっているが、幕末の頃、この館では、志士たちの会合の場となり

1863年の正月には土佐藩・武市半平太、長州藩・井上聞多、久坂玄瑞らが集まり、つづいて、桂小五郎

久留米藩・真木保臣らが集まり尊攘運動は次第に高まり、反幕府への政治勢力に高まりつつあった。

各藩の代表者会議で、攘夷の具体的方法が検討され、世に言う翠紅館会議がなされていた。 同年8月

には光明天皇の大和行幸の詔書が出されて尊攘運動は頂点に達した。  しかし、「8月18日政の変」で

会津・薩摩の公部合体派に尊攘派は破れ、国元に逃げ帰ることとなる。



翠紅館


霊山歴史館

維新の道を登っていくと右手に霊山会館が見えてくる。 こちらは竜馬、黒船、新撰組から明治維新まで

日本唯一の幕末維新の博物館である。 明治百年を祈念し、昭和45年に建てられた。 今回は時代の

歴史的スポットを見ることにしている。 すでに御所、壬生寺など見てきたが、凡そ160年前黒船が来航し

長い幕藩体制も組織疲労を起こし、行き詰まりを見せる中、アメリカの黒船が来航、強い圧力と国内の混乱

渦巻く中、僅か半世紀で政治、文化産業など広範囲の改革が行われた明治維新、この大業をなしえたのは

政府の主流の人間でなく、多くは20代30代の下級武士が導火線となり、成し遂げたと言っても過言でない。

現在も同じ様に世界不況が進み世の中の舵取りが難しい中、一向に政府の改革は進まず増税だけが

叫ばれるなか、維新の歴史を振り返るのも、また良しとする。



霊山歴史館

竜馬を切った刃こぼれの刀や、西郷隆盛を介錯した刀など、生々しく、鬼気迫る

展示物もあり、江戸時代になり武闘もなく、人を切った経験もない侍が、よほどの

覚悟がいっただろうと思うに、当時の急激な時代の流れの中で、多くの人たちが

亡くなっていった時代のきびしさに、改めて気づかされる。 歴史館に続く山麓は

護国神社の「昭和の杜」とされ、幕末から維新への戦いの成就を見ずして

途中たおれて行った志士たちが祀られている。



竜馬像




西郷隆盛を介錯した刀




歴史館前、護国神社




左・坂本竜馬 右・中岡慎太郎墓




坂本竜馬・中岡慎太郎顕彰像



 
高杉晋作、久坂玄瑞など長州の志士たちの墓




吉村寅太郎・墓

土佐藩士、武市半平太に剣術を習い土佐勤王党に入るも脱藩し、天誅組に

入り、尊皇攘夷で、長州藩士とも交流し「8月18日の変」で破れ吉野に死す。

辞世の句 「吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」。



霊山観音



  
夕暮れの京の街並みと祇園・八坂の塔

日もすっかり傾き、霊山からの京都の街並みが、紅いに染まった。

本日は、これにてウエスティン都ホテルへ。



宿・ウエスティン都ホテル


木屋町界隈

三条から四条に掛けての木屋町通と河原町通りに囲まれた地区は京都の繁華街で近代的な飲食店や

ブティックもあるが昔からの商の老舗も並ぶ中心街である。 昔、水運の為、高瀬川が掘られ伏見や大阪と

結ぶ物資の交流が川筋に街を発展させ、ホテルオークラの建つ辺りは長州屋敷があり、その向いの木屋町角に

は加賀藩屋敷、更に南には彦根藩邸、高瀬川沿いには土佐藩邸もあって、幕末から維新にかけての歴史的な

スポットも多くある。 本日は、地下鉄東西線で蹴上駅より三条駅に出て徒歩で廻ることにする。 息子が”1日券

600円があるが、どうする” というので、それで、通すことにする。



三条大橋

駅を出て三条通りを西へ行くと、左手に皇居に向かって膝間づく高山彦九郎の銅像が落ち葉を被り

すっかり冬姿、その先に三条大橋がある。 江戸時代、家康が定めた東海道53次西の起点である。

東より渡りきると、「弥次さん喜多さんの像」が川のたもとに微笑んでいる。 この下、三条河原は

かつては数多くの処刑がなされた所で、酷いのは晒し首まで行われた場所である。 よく知られた

ものとしては、近藤勇、石田三成、豊臣秀次など、賀茂の河原は何もなかった様に今も流れている。


木屋町通りに出て右折すると、武市瑞山、吉村寅太郎の寓居跡の碑がある。 今は料亭「金茶寮」と

なっているが、以前は「四国屋丹虎』である。 武市は土佐の勤王党を作った人物、藩主・山内容堂

と上洛、この場所で応接役として住み込み各藩との交流を行ってきたが、吉田東洋暗殺の責めを

負い土佐にて切腹を申し付けられる。 吉村寅太郎は土佐の庄屋に生まれ武市に剣術を学び尊王

攘夷思想に惹かれ武市の勤王党に入る、坂本竜馬らと脱藩し国事に奔走するが「寺田屋事件」で

投獄され、保釈後、再上洛、武市の隣に寓居を構え、中山忠光(明治天皇の叔父)らと共に天誅組

を組織し、倒幕に進むが、「8月18日の政変」で幕府軍に破れ、吉野で戦死する。

竜馬や武市、中岡に次ぐ、土佐四天王の一人と言われる。


武市瑞山邸跡、隣、吉村寅太郎寓居跡

更に北に進み御池通りを越えると「佐久間象山・大村益次郎遭難の碑、北へ一丁」

の案内碑が高瀬川沿いに立っている。 高瀬川の流れに逆らい北へ進むと川向いに

銅レリーフの佐久間象山遭難碑があった。 立派な造りである。



佐久間象山・大村益次郎遭難の碑北へ一丁の案内碑





佐久間象山遭難碑

佐久間象山は信州・松代藩の出身で儒学や朱子学を修め、西洋科学を導入し、殖産興国に尽力

彼の塾からは勝海舟、吉田松陰、坂本竜馬など傑物を輩出している。 1864年上洛し開国を唱え

公武合体に励んだ為、刺客に狙われた。 刺客、肥後藩士・河上彦斎は斬殺したあと、その人物

の偉大さを知って愕然とし、悔いて以後は暗殺稼業をやめたと言われている。


大村益次郎は長州藩士で医学を学び緒方洪庵の「適j塾」で兵法学者となり戊辰戦争で長州藩を指揮し

勝利を治め、兵部省の初代次官となり、事実上の日本陸軍の基盤を作ったが、新軍建設のため廃刀制に

不平を抱く浪士たちに、この地の旅館で襲われ、敗血症で亡くなる。 大村死去の報を受け木戸孝允は

「実に痛感残意、悲しみ極まりて涙下らず、茫然気を失うごとし」と書を残している。



桂 小五郎像

木屋町通りを北へ進み右手に高瀬川を開削した角倉了以の別邸過ぎ二条通りで左折、日本銀行の

裏を通って河原町通りを南に向かうと、大きなビルのホテル・オークラが見える。 この敷地には嘗て

長州屋敷があったところ。 丁度、河原町通ホテルの西側に「桂 小五郎」の立派な像があり、まるで

このホテルを建てた功労者の様に見える。 クラシックな京都市役所を右手に御池通りを横断すると

右に「本能寺」の案内がある。 その路地を西へ入ると本能寺に至る。 本能寺は新しく建替えられた

建物で、元は元本能寺南町にあったが秀吉の時代、京の大改修で、こちらに移された。



本能寺・本堂

本能寺は法華宗の大本山の寺であるが、早くから種子島に布教していたことから、鉄砲、火薬の入手の関係から

戦国大名との付き合いがあり、織田信長は八世住職・日承に帰依していたことから、この寺を上洛中の宿所としていた

ことから、1582年、明智光秀の謀反により、この寺で自刃した。 境内には信長廟があり、亡くなった家臣団の慰霊塔も

祀られている。 他に島津義久夫人や九代将軍・徳川家重夫人の石塔や供養塔もある。



信長の墓





亡くなった信長家臣団慰霊碑」

本能寺を参って河原町通りを三条通りへと歩く。 三条通りで左折し少し行くと、池田屋の大きな看板が見えてくる。

 現在は居酒屋で繁盛しているが、幕末には新撰組が枡屋こと古高俊太郎の捕縛でクーデター計画を拷問で自白させ

1864年6月、それを阻止するため旅館・池田屋で密談していた尊攘派の志士達を新選組が急襲。 当初、斬り込んだのは

近藤勇、沖田総司、長倉新八、藤堂平助ら4人で、残りは屋外を固めた。 志士たちは20数人だったが、9人の死者を出し

大多数が捕縛された。 この騒動が期となり長州藩は挙兵、「禁門の変」へと進んでいく。



池田屋

池田屋を見て一つ南の通り竜馬通りに竜馬の寓居「酢屋」がある。初代、酢屋嘉兵衛から現在十代目の酢屋嘉兵衛まで

290年続く材木商で、幕末には大阪から伏見、京都へと通ずる高瀬川の木材の輸送権を独占し、非常に繁盛していた。

川は高瀬舟が出入りし、高瀬川ぞいには各藩の藩邸が建ち並び、各藩との折衝や伏見、大阪との連絡にも格好の地で、

龍馬は、ここに身をよせた。 主人の酢屋嘉兵衛は龍馬の活動をよく理解しかなりの支援をしいた。 竜馬は家の者から

「才谷さん」と呼ばれ、才谷梅太郎と名乗っていた。 2階の表西側の部屋に住い、当時、竜馬は向いの舟入れに向って

ピストルの試し撃ちをしていたと言う。 竜馬遭難の年の6月24日にはこちらより乙女姉宛に、酢屋を海援隊京都本部にし

陸奥宗光、長岡謙吉など多数の隊士といたことを手紙にしていたと言う。 現在は一階に竜馬の写真が飾られ木工芸品の

販売をしている。 2階の部屋はギャラリーとして公開し、竜馬の資料が並べられている。 内部は綺麗に改装されているが

連子窓に、竜馬が外を眺め、乙女姉やんに手紙をしたためている姿を浮かべる。



酢屋入口

酢屋を見て、河原町通りに出て四条に向って歩き、2つ目の信号を過ぎると道路右側に

コンビニの「サークルK」がある。 こちらが竜馬遭難の地「近江屋」、土佐藩の御用商人を務めていた。

竜馬は寺田屋事件より狙われ身、安全を察し、「酢屋」から「近江屋」に宿を移したが、その1ヵ月後の

1867年11月15日夕刻、陸援隊長の中岡慎太郎が近江屋を訪ね、大政奉還後の政局を論じていて

夜になり、十津川郷士と称する男達の襲撃を受けて、竜馬は、その場で絶命し、中岡も2日後、この

世を去った。 竜馬33歳、中岡30歳。 大政奉還が行われて1ヵ月後、王政復古の大号令が出る1ヶ月

前の出来事であった。 竜馬と中岡、ともに遭難した竜馬の付き人・山田藤吉は霊山護国神社に埋葬

されている。 今はガラスとサッシュのコンビニで、当時を想像もできないが、一本の「遭難の碑」が

余計に侘しさを掻き立てる。


元土佐藩御用商人・近江屋の跡

近江屋より折り返し、河原町通りを上り、竜馬通りを賀茂川に入ると、木屋町通りを越え川に突き当たる。

左手に、幕末ではなく豊臣時代の豊臣秀次が祀られる瑞泉寺がある。 ここは豊臣秀吉の甥・豊臣秀次と

その一族を弔う為に、1611年に角倉了以により建立された寺である。 秀次は子のない秀吉の養子となって

関白の位と豊臣家の家督を継ぐが、太閤の愛妾・淀君に秀頼が誕生したことから、秀吉に疎んぜられ、

石田光成らの策謀もあって1595年7月、謀反の疑いで高野山へ追放され、同月15日に切腹させられ

三条河原に曝し首となる。 ついで同年8月には秀次の子供と側室など女性一族39人が三条大橋西南の

当時はまだ賀茂川の河原であった、この地で無惨にも公開処刑にされ、遺骸はその場に埋められ、

その上に世に「殺生塚」と呼ばれる大きな塚が築かれ、その存在は当時の「洛中洛外図」の中にも

描かれることになる。 それから16年後、高瀬川の開削と木屋町筋の整備を開始した豪商・門倉了以

によって秀次一族の墓地と一寺が、この地に建てられた。


慈舟山・瑞泉寺




境内にある秀次の墓




秀次の子供と側室など女性一族の位牌像

丁度、お昼となり、河原町三条の裏通りの街屋風の食事処に入ると、人影が見えず

声を掛けると、2階から”どうぞ、上がってください” と声がかかる。 階段を登って

行くと上がった処は30畳もあろうかと言う広間、長いテーブルが置かれ鉄板がある。

聞いて見ると、「お好み焼き」とのこと、京都のお好みもどんなものか?貰うことにする。


メニューを見ると20種類程があがっている。 その中の「きむち海鮮」を頼む。

金属の器にネタを仕込んだものを運んでくれる。 こちらで攪拌して鉄板に流す。

ネタは蝦と烏賊が入ってる様だ。 じゅうじゅうと焼ける音と香りが漂ってくる。 

これは行けそうだ。 キムチの味が絡まり、イメージどうりの味、昼の口に合い

京街屋の味もあり満足でできた。 一枚では足らないかと思ったが充分であった。



二条城

午後は、市役所前から地下鉄・東西線で、2つ目の二条城前で降りて二条城へ行く。

二条城は1603年徳川家康が京都御所の守護と、将軍上洛時の宿舎として造営し、三代将軍家光が

伏見城の遺構を移すなどして1626年に完成したもので、家康が建てた慶長年間の建築と家光が

つくらせた絵画・彫刻など、いわゆる桃山文化の全貌を見ることが出来る。 1867年、15代将軍慶喜

の大政奉還により、二条城は朝廷のものとなり、1884年離宮となった。 その後、1939年に京都市

に下賜され、1994年に世界遺産に指定されている。


東大手門

東大手門より入る。 門は石垣と石垣の間に渡櫓を渡して、その下を門とした楼門である。

家康が、天下統一後の建築で上洛する人々に、その威厳を見せる様な堅剛な造りである。

右手には番所があり、訪問者の受付をしたのであろう。 背の高い築地塀に沿って歩くと

煌びやかな唐門が構える。 飾り金具と彫刻がふんだんになされ、これらは門と言うよりは

訪れる大名に対するステージの高さを誇示しているように見える。



唐門

唐門を入ると豪華に装飾された車寄せが目に入り、こちらも贅を尽くした欄間彫刻で

表側には五羽の鸞鳥・松・ボタン、上部には雲、下部には笹を見ることができる。



車寄せ

御殿内は幅広の廊下が廻り、将軍家の広さである。 最初に大広間があり、一の間・二の間・三の間・

若松の間・勅使の間などに分かれ、城へ参上した大名の控えの間となっている。 一の間は広さ48畳

二の間は44畳となっていて、将軍が諸大名と対面した部屋で、二の丸御殿の中で最も格式の高い

部屋、狩野派の雄松の障壁画で飾られ、この部屋で、1867年10月、15代将軍慶喜が諸大名を集め

大政奉還を発表した歴史的な部屋である。 更に奥には廊下を隔て別棟の黒書院と白書院がある。

黒書院は将軍と親藩大名・譜代大名の内輪の対面所で、大広間より若干規模は小さいが部屋飾りは

技巧的。 襖絵は探幽の弟、尚信の作。 白書院は将軍の居間・寝室だったところで、内部の装飾も

大広間や黒書院とは趣向が異なって、居間にふさわしい穏やかな水墨山水画で、狩野興以と

長信の作である。 流石、徳川将軍家の御殿に往時の権威が見えてくる。 二条城の後は地下鉄

で、伏見区の醍醐寺へと向う。 醍醐は地下鉄東西線の終点の2つ手前で12番目の駅である。

暫くは京都地下鉄を楽しむこととする。 名古屋に比べると乗客は少ないようだ。 お陰で我らは

座って行くことができる。 学生が多いのは名古屋と同じ様だ。 京都地下鉄は京都駅〜北大路烏丸

が1981年に開業し、東西線が1997年だそうだが、今回初めて利用した。 京都も車では駐車料が

ばか高く、直ぐに、2、3000円はいってしまう。 また道が混み、信号ありで走りにくい。 地下鉄、

阪急、京阪、京福、叡山電鉄など、巧く利用すれば、かなりカバーは出来そうに思う。  残るは

大徳寺と鷹ヶ峰の地域が残るだけかな? あれこれ考えているうちに、醍醐に着いた。 


醍醐寺・三宝院

近所にいた男性に醍醐寺まで、どれほどかかるか、尋ねると、”20分ぐらい掛かるでしょう”と言う。

少し、きついので、バスで行くことにする。 バスが来て、乗ってみると、えらく近かった。 



醍醐寺参道

降りた通りは松並木があり道路にそって水路が設けられていて、醍醐寺の歴史な格が伝わってくる。

通りから真直ぐな参道、その奥に総門が見えてくる。 門を潜ると参道は桜保護の為か地道になり環境への

配慮がされているようだ。 左手には醍醐寺の本防とも言う三宝院があり、正面には朱塗りではあるが、

風化で色あせた仁王門が見えてくる。  あたりは桜の木が一杯だ! 「秀吉の花見」で植えられたという

だけに、桜の季節は是非見てみたいという欲求にかりたてられる。


醍醐寺・三宝院

醍醐寺は真言宗・醍醐寺派の総本山で、弘法大師の弟子の理源大師・聖宝が草庵を結んだのが始まりで

開基後、醍醐、朱雀、村上の三帝の帰依により、堂塔が建立され、醍醐山に200万坪の広大な境内であったが、

応仁の乱などの戦で下醍醐は荒廃し、五重塔しか残らないありさまであった。 しかし、秀吉の「醍醐の花見」を

きっかけに紀州などの寺院建築の移築や三宝院の建設などにより、今日見るような姿となった。

現在は古都・京都の文化財として世界遺産に登録されている。



仁王門(西門)

豊臣秀頼が金堂の再建の後、1605年に再建したもの。 そこに安置されている仁王像(重文)は、

南大門に祀られていた尊像で、平安後期の1134年に仏師勢増・仁増によって造立された尊像である。

仁王門をくぐって、鍵の手に進むと金堂がある。



金堂

醍醐天皇の勅願により926年に創建された建物で、当時は釈迦堂といわれていたが、永仁、文明年間に

二度焼失し、現在の金堂は豊臣秀吉の命によって和歌山県・湯浅から移築が計画され、秀頼の時代、

1600年に完成し、今は国宝に指定されている。 この金堂が、醍醐寺の中心のお堂であり、安置されている

薬師如来坐像が醍醐寺の本尊となっている。



金堂内

金堂の中央には、薬師三尊像(中央・薬師如来、脇侍・日光・月光菩薩)が奉安されて、平安初期の檀像彫刻を模した

鎌倉初期の復古調の優作といわれ、国の重文に指定されている。 薬師三尊の左右には、四方を守護する

平安時代の四天王立像が配されている。 400年の時を越えた仏達の醸し出す閑寂が雰囲気を引き締める。

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