京 都 時代を歩く

三宝院南禅寺、知恩院、建仁寺長楽寺


金堂の張り詰めた静けさを残して、国宝の五条塔へ。 塔の前では数名の修行僧が一心に掃除をしていた。 

塔の年代を尋ねると、”1000年を越えています” とおっしゃる。 よく残ったものである。

醍醐天皇の菩提を弔うため、第一皇子の朱雀天皇が936年に着工し、第二皇子・村上天皇の951年に完成と言う。

初層の内部には両界曼荼羅や真言八祖が描かれ、日本密教絵画の源流をなすものといわれている。

高さは約38メートルで屋根の上の相輪は約13メートル、相輪が塔の三分の一を占め、

全体の安定感を保っていると言う。 


 
醍醐寺 五重塔

拝観時間が2月までは3時半までの為、三宝院は大急ぎの拝観となる。

三宝院は1115年、醍醐寺14世座主・勝覚僧正により創建された醍醐寺の主要な本坊であり、歴代座主が居住する処。

三宝院は、その建造物の大半が重文に指定されている。 中でも庭園全体を見渡せる表書院は寝殿造りの様式を伝える

桃山時代を代表する建造物であり、国宝に指定されている。 国の特別史跡・特別名勝となっている三宝院庭園は

1598年、秀吉が「醍醐の花見」に際して自ら設計をした庭であり、今も桃山時代の華やかな雰囲気を伝えている。





唐門は、朝廷からの使者を迎える時だけに使用される勅使門で、創建時は門全体が黒の漆塗で菊と桐の

四つの大きな紋には金箔が施されていたが、平成22年7月、往時の壮麗な姿に修復された。

その大胆な意匠は、桃山時代の気風を今に伝えている。



唐門





大玄関

大玄関より入ると、正月の為、枝振りのよい尾松が飾られ、庭を見ながら

葵の間、秋草の間、勅使の間と続き、襖など障壁を桃山時代の長谷川等伯の

作品で飾られている。



大玄関内部

 つづいて寝殿造りの表書院(国宝)の下段、中段、上段の間がつづき

庭園は華麗にして豪華な桃山時代のもので、秀吉の心意気が迫ってくる。

庭には亀島、鶴島と、贅を尽くした造りで、一方「賀茂の三石」と藤戸の石」は

禅の「無」を表すようなプュアなもので対照的である。 庭の中央部に突き出た

「純浄観」は太閤秀吉が槍山で花見をしたときの建物を移築したものといわれ

襖絵の桜・紅葉は、平成に入って浜田泰介画伯が描いたものと言う。

駆け足での拝観で、シーズンに、ゆっくり眺めてみたい気がする。 


三宝院をおわり、ホテルに戻る。 フロントに行き部屋の案内を頼むと、今夜は

「佳水園」の方に準備していますと、洋式から和風の廊下を伝って行くと、詫びた

檜皮葺屋根の入口に案内され、中庭を見ながら部屋へと誘導される。 数奇屋造りで

桂離宮にでも来た様な、実に趣のあるところである。 各部屋が夫々、独立している

ような錯覚をあたえる設計である。 庭園は市の名勝にも指定されていて

大正14年に円山公園や平安神宮の作庭をした日本庭園の先駆者と

言われる「小川冶兵衛」の長男・白楊氏により造られたと言う。


 
ホテルの和室・ 「佳水園」の入口                           廊下より垣間見る庭


部屋は控えの間のある角部屋「月の八」である。 聞くところの寄ると「月の七」には晩年、川端康成が

よく逗留されたそうだ。 部屋で暫し休憩。 昨日はホテルのバイキングで夕食をしたが、

今夜は、気分転換、外に出て、夜の京都をあじわうため街に出ることにする。


  
佳水園の休み場                                     部屋入口


祇園に出ると、昨日とは賑わいが違う。 考えてみると今日は土曜日であり、観光客が増えているようだ。

八坂神社から四条通より花見小路を南へ、この辺りは祇園甲部と呼ばれる花街である。 祇園は、この甲部

と四条花見小路の東にある祇園東(昔は乙部)に別れている。 花見小路に入ると、四条通と違いネオンがなく

串団子のマークの赤提灯を下げた祇園の夜が情緒を盛り上げてくれる。 花見小路を左に入って、メニュー

を前に出している店を見つける。 それ程、高くもなく、入ってみると、”すみません、一杯なんです” と、

断れてしまう。 土曜日で予約をしていないと無理なのかな〜 次を探す。 丁度、祇園ホテルの裏通りに

来た時、赤い祇園提灯を掲げた割烹風の店があった。 屋号は「成家」。入ると、”お予約でしたか?”と言われ

また、だめかと思い、だめですかと聞くと、” いえ、どうぞ、こちらへ” とおしゃる。 テーブル席に案内された。


白木のカウンターが明るく、まだ新しい感じの店である。 鍵方のカウンター席と三つほどのテーブル席が

あり、こじんまりした割烹である。 壁には何本かの、ひいきの舞妓から贈られた団扇が飾られている。 

カウンターには、二人の板前がいて、サービスは、お姉ちゃん一人で賄っているよう。  メニューを貰う。

刺身、焼き物、揚げ物と一通り、揃っている。 鰤の刺身と、牡蠣とアスパラなど天ぷらを頼み、銀杏と

サラダを貰う。 飲み物を訊ねられ、メニューを見ると、なんと、日本酒の銘柄がずらり並んでいるが、

一つも知った名前がない。 彼女に、お勧めを聞くと 「英勲」と言う。 800円だったが、それを常温で

頼む。 酒が来て、飲んでみると、素晴らしく爽やかで切れのある、さらりとした飲み口。 これは進む。


実に、巧い酒であった。 聞いて見ると伏見の酒だそうだ。 京都は水に恵まれ豆腐や抹茶が美味い

と言うが、酒も確かなようだ。 最後が、ご飯と京漬物を貰って、ご馳走さん。 その後、黒蜜と黄粉の

掛かった蕨餅が出てきた。 お姉ちゃんが笑みを浮かべて、どうぞ!と言う。 このれは、やっぱり

京都だね〜 食べ終え、3人で1万5千円を切ったところ。 帰りがけ板前が外まできて挨拶をする。

 主人のようだ・・・  ご馳走さん、と答えると、”ありがとうございました、 またお待ちしてます”・・・

いい気分でホテルの途へ。


南禅寺


南禅寺・本坊

翌朝はホテルの隣にある南禅寺へ。 フロントで道順を聞いて、蹴上の隧道をくぐると

南禅寺の塔頭・金地院の前に出て、5分も掛からなかった。 大きな三門から法堂へ

南禅寺は7年前の紅葉の時期に来て今回は息子に付き合い、前をなぞることになる。

当寺は臨済宗・南禅寺派の本山で、京都五山の上に位置される寺院で1264年

亀山天王が離宮禅林寺を開かれ、離宮を施捨され、1291年大明国師が開山した。

方丈は入母屋造、柿葺で、御所作りである。 庭園は小堀遠州作の江戸初期の

枯山水の代表的な庭である。 南禅院、金地院、天授庵と立派な塔頭がある。


知恩院・三門

南禅寺を出てぶらぶらと神宮道を歩き、青蓮院を過ぎると知恩院の三門へと出る。

何時見ても知恩院の三門は美しい。 知恩院は法然上人を祀る浄土宗の総本山で

三門、御影堂は国宝である。 祇園に出ると花見小路、まだ正月の裾模様の芸妓

が女将と御得意への挨拶回りか、小路を行く。

花見小路を突き当たると、そこは建仁寺である。



祇園・花見小路



建仁寺

建仁寺は京都最古の禅寺で、将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師が開山した臨済宗建仁寺派の

本山である。 現在も臨済宗の道場として開かれている。 栄西は1141年、備中で出生まれ14歳で

落髪し、比叡山で天台密教を修め、二度、中国に渡り、日本に禅を伝え、また、茶種を持ち帰り

栽培を奨励して、喫茶の法を普及した茶祖である。


建仁寺北門入口

入口を入って、まず法堂を拝観する。 法堂は1765年、建立された仏殿兼用の堂々とした禅宗様仏殿建築である。

正面、須弥壇には本尊・釈迦如来座像と脇侍迦葉尊者・阿難尊者が祀られてる。 また、その天井には

2002年、創建800年を記念して「小泉淳作画伯」筆の双龍が描かれている。



  
        双龍画 小泉淳作画伯作                            須弥壇の本尊釈迦如来座像と脇侍迦葉尊者・阿難尊者


法堂を拝観し、本坊に入る。 露地に安国寺恵瓊の首塚がある。 彼は此処の方丈(重文)を1599年、

安芸の安国寺から移築した人物で、毛利家の政治的外交僧として活躍、秀吉の中国進攻時に毛利の

使者として秀吉との交渉の縁から、その後、秀吉の直臣大名として取り立てられ、関が原の合戦で

西軍に組したことで敗北、京都六条河原で斬首され、波乱の生涯を閉じた。 その首を建仁寺の僧侶が

ゆかりのある当寺の方丈裏に葬ったと言う。 



安国寺恵瓊の首塚



 
枯山水中庭・潮音庭                                    達磨大師の掛け軸

達磨大師は禅宗の開祖、達磨はインドに生まれた僧で、中国に渡り、洛陽郊外の嵩山寺で壁と

向い合って座ること10年にして悟りを開いたと言う、禅宗ではそれに習い「座禅三昧」がなされる。

坊内には羅漢像や俵屋宗達の国宝・風神雷神屏風絵写がある。 原本は京都博物館にある。


 
祀られた羅漢像                                  国宝の風塵雷神屏風写



方丈の奥に茶室・東陽坊(草庵式二畳台目の茶席)がある。 これは豊臣秀吉が催した

北野大茶会で、利休の高弟・真如堂東陽坊長盛が担当した神谷川の土手にたてられた

副席と伝えられ、二帖台目席でもっとも規範的な茶室とされている。



茶席「東陽坊」

建仁寺を出て、円山公園、大谷祖廟の奥にある長楽寺へ行く。

円山公園の南側の坂道を、かなり登ると長楽寺がある。 この寺は平清盛の子である建礼門院(平徳子)が

壇ノ浦の戦いの後、こちらで出家したと伝えられ、その後大原・寂光院で隠棲する。 こちらは時宗の寺院で

洛中随一絶景の霊地といわれ、文人墨客に景勝を愛でられ、文に詩に歌によく詠われ、古くは「今昔物語」、

西行法師(当寺に入て修行)の「山家集」「平家物語」など、平安時代より有名な古典に数多く記されている。

江戸時代の有名な文人・頼山陽の墓があり、「京の四季」で、当寺のしぐれの紅葉を詠っている。



平家ゆかりの地 長楽寺

   おわり

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