奈良 柳生の里・唐招提寺
2011.8.15


盆休みに息子と、歴史話しをしていて、奈良に行こうと言うことになった。

息子は「柳生の里」に行きたいと言う。 こちらは以前から見たいと思っていた唐招提寺の

改修工事か終わったので、そちらに行きたいと思っていたので、話はすんなりと決まった。

東名阪を伊賀に向かって走ると、道路状況標識に「伊勢湾岸道合流地点で10km渋滞」の表示がある。

 遂に来たか? お盆休暇で、ある程度は覚悟していたが、いざ巻き込まれるといやなものである。

四日市J..C付近は最近、渋滞が日常化している。 しかし、何とか車は流れていて、四日市を過ぎる

頃には渋滞は消えて行った。 天気はよいが、立秋も過ぎ、空には秋の気配が感じられる。


クマゼミの鳴き声が聞こえ、子供の頃、夏休みの宿題を残し蝉を追っかけていた日々を思い出す。

亀山インターを過ぎ、名阪国道に入り、柘植の山間地帯を通り伊賀市へと入る。 コンビニで弁当を調達し

163号線を西へと走る。 やがて京都府に入り南山城村を通って笠置へと到着する。 笠置山は

後醍醐天皇が、幕府政治を取り戻す為、こちらで挙兵し、元弘の乱のきっかけとなった所。

笠置山を左手に車一台程の狭い道をくねくねと走る。 車が対面でもすれば代わり様のない道である。

幸い車と出会あったが、土地の人か、手馴れたもので巧く交わしてくれた。 少し走ると奈良県に入った。

この辺りは県境が入り組んでいて、三重・京都・奈良と僅かの距離で3県を通る。 細い道も、やがて終わり

「柳生の里」の大きな案内板が出てきた。 長閑な山間の里風景となり、

素晴らしい日本の原風景であるのだが・・・・・  電信柱がすこし雰囲気を壊す。


柳生の里



柳生の里入口

柳生街道を入って行くと、交差点、今川橋の手前に駐車場があるが人影は見えない。

この郷も、やはり山間の過疎の郷に変わりつつある様だ。 ここに車を止め、目標としていた

旧柳生藩家老屋敷を探す。 道に案内板がありそれに従い、小さな道を辿ると家老邸らしい

塀に囲まれた屋敷が見えてきた。 

柳生の里は、剣豪の柳生石舟斉宗厳が徳川家康との剣の出会いから、代々、

将軍家の剣術指南役として幕閣に席し13代に亘って続いた柳生家の郷である。




旧柳生藩家老屋敷

坂道を上がって石畳の階段を登ると、長屋門があり、家老屋敷を思わせる。

中に入ると、前庭には枝振りのよい松の木をまん中に庭が広がる。 敷地としては

大きいものではないが、以前は蔵も2棟あり、1万石の家老屋敷といえば頷ける。



旧柳生藩家老屋敷




旧柳生藩家老屋敷 長屋門




前庭

この屋敷は1826年、江戸から奈良に移り、柳生藩南部屋敷財政の建て直しを計った

小山田主鈴が1847年に家督を譲って退隠、柳生但馬守俊章から賜った、この地で

余生を送ったそうであるが、年老いての終の棲家とすれば、花鳥風月自然にも恵まれ

さぞや、よい余生で75歳で亡くなったそうである。 その後、子孫が受け継いできたが

昭和31年に奈良・大森町に引越し土地の人に渡ったが、昭和39年には作家の山岡荘八

の所有となり、こちらに滞在し作家活動を続けたが、昭和55年、氏の遺族が奈良市に

寄贈されたそうだ。  伝承によれば、柳生藩南部屋敷財政の建直しは、大阪堂島米相場

で当てたのが大きいと言う。 その影には、こんにゃく橋下の水温によって米価の当落を

予想していた奥さんの示唆があったそうだ。 うらやましい話である。



客間座敷 武芸者らしく「平常心」

家老屋敷を出て南には大きい石垣積みの屋敷がある。 こちらは 家老・小山田主鈴の分家

だそうで公開はされてない。 その前を通って南へ行くと、三つ筋があり、柳生三代目・宗冬が

1654年、大保町にある八坂神社の祭神・素戔嗚尊の分霊を勧請して造営された八坂神社がある。

神社は黙礼して、ご無礼する。 柳生街道も往時は笠置から奈良への人が絶えなかっただろうが、

今では、163号線と名阪国道に挟まれ、すっかり寂れてしまった。 現在も、柳生街道の休憩場所

柳生茶屋が昔の面影を残している。 息子が柳生の銘のはいった手拭が欲しいと言うので、立ち寄るも

有るのは有ったが、売ってはいないとのこと、諦める。


家老・小山田主鈴の分家屋敷




柳生・八坂神社




寂れた柳生茶屋


侘びた道を進むと柳生の菩提寺である芳徳禅寺の案内板があり、その道を登る。

夏草が生い茂り、我が季節は未だかと萩なども顔を覗かす。

息を弾ませ階段を上って行く。 賑やかな男女の声が聞こえる。 そこは、もう

小高い山の中、正木坂剣禅道場である。  高校生の剣道部の夏合宿鍛錬か、前まで

来ると、コンニチワ!!と威勢のよい挨拶があった。 やはり剣道部、礼儀作法は

徹底しているようだ。 こちらも、コンニチワ、ご苦労さんと答える。 黒い剣道着が

干してあり、山の風に乗って、その匂いが漂ってくる。 夏合宿にはつきものの匂いだ。

 遠くなった学生時代の記憶を感じさせて呉れる。 道場を過ぎ、更に登って行くと

芳徳禅寺の三門が高台の上に見えて来た。



道標 左・笠置、月ヶ瀬方面




参道階段

芳徳禅寺は柳生但馬守宗矩が1638年、亡父の石舟斎宗厳の供養の為、建てられた

もので、開山は宗矩と親交のあった沢庵和尚によりなされ、柳生氏代々の菩提所となった。

宗矩の死後、柳生家は三厳(十兵衛)が継ぎ、三代目は宗冬が引き継いだ。 また、

将軍・家光により柳生村の内200石を寺領として与え、当時、末っ子の11歳であった

義仙を大徳寺で修行させ当山の第1世和尚となった。 



芳徳禅寺の三門




芳徳禅寺本堂

山内は蝉が鳴き、夏真盛りであるが本堂に入ると、ひんやりとした空気。

正面の祭壇には釈迦如来像が中央に祀られ、左手に柳生宗矩、右手に沢庵和尚像と

列堂和尚義仙像が安置され、寺院の名前は石舟斎宗厳の戒名「芳徳院」より附けられた。


  
左より宗矩、釈迦如来、沢庵和尚、義仙和尚

本堂に参って、左手に資料館があり、そちらを見学。 人手が掛けられないのか、テープが流れ、

館内の説明がなされていた。 展示品は柳生宗矩の使った木刀や高麗青磁の茶碗、

三代将軍家光より賜った小脇差 銘 「志津」など、柳生石舟斎の遺言状等が展示されていた。

柳生家は剣術に生きた家系らしく柳生新陰流の目録や、流祖・上泉伊勢守、祖父石舟斎、父宗矩、十兵衛

へと続く、夫々につき比較検討し纏めた新陰流の集大成といえる「月之抄」なる武術書も展示されていた。



木刀と高麗青磁





三代目・柳生宗冬の印籠





柳生宗則像


芳徳寺本堂裏には20m平方程の柳生一族の墓がある。 柳生石舟斎宗巌は剣豪の世界では有名な

柳生新陰流の開祖としてよく知られているが、元は日本の剣術を代表する流派・新陰流を創始した

上泉伊勢守信綱から教えを受け継いだ。  その後、その子、宗矩が徳川将軍家の剣術指南役を

務めたことなどにより、広く世に知られるようになった。  新陰流の剣は心技において構えをなくし、

攻めと守りを一つにした「無形」を極意としている。 これらは相手を威圧して斬る「殺人刀」に対し、

相手に技を出させて勝ちを取る「活人剣」として敵を大いに働かせ、自らは居ながらにして勝つと言う。

要は戦わずして、戦いに勝つと言う、剣禅一如の精神性の域まで高めた沢庵和尚の教えがある。


宗矩の子、十兵衛は徳川家光の剣指南役として仕え、徳川将軍秀忠に仕えた後、柳生の里へ戻り、

剣術書「月之抄」を表し、隠密として1626年に諸国漫遊の旅に出たとされ、晩年には正木坂で

道場を開き柳生新陰流を広め、門下生が1万3,000人を数えたとされる。  墓は柳生但馬守宗矩の

墓石を中心に石舟斎宗厳、十兵衛三厳、飛騨守宗冬などの多くの墓が苔むし並んでいる。


  
石舟斎宗厳の墓                                       宗矩の墓




 
二代目十兵衛三厳の墓         四代目宗在       俊平                   三代目宗冬      






新陰流祖・上泉伊勢守信綱の墓




 
芳徳寺から望む柳生の里





柳生の里を流れる打滝川に架かる楓橋  ホタルの生息地





柳生の里の街並み

街の北部、山に見える十兵衛杉。 1626年に十兵衛が諸国漫遊の旅に出る時

植えたと伝えられる350年の杉、現在は落雷の為に枯れてしまったが、今でも、

根本は大人7人くらいでの手をつないで一週できるくらいの大きさだそうだ。



微かに山中に見える十兵衛杉

十兵衛杉に別れを告げ、これより柳生街道を奈良三笠山に向け出発する。

途中、奈良との中間処にある忍辱山町の円成寺に立ち寄る。

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