梅雨晴れ間の南知多
06.7.4

岩 屋 寺


羽豆岬を出て国道247を北へ往きに来た道を戻り、豊浜から県道280を海から山側

の道へと入って行く。 
10分程走ると山麓の岩屋観音前に着く。

寺の大きな駐車場があり、その前の家に人だかりが、見ると葬式をしていて、

岩屋寺の名前も出ていた。  寺は、その先にあった。 



岩屋寺全景

この寺は知多の古刹と言われ、715年、天正天皇の勅願により行基を開祖として

創建され、その後、尾張徳川家の勅願寺となり、伽藍も増え栄えたと言う。


寺宝として重文の大蔵経5463巻、これは戦国時代大野城主佐治氏の献納で、

唐の時代、玄奘三蔵がインドより持ち帰った経典の複写物、他に弘法大師の

使用の重要文化財の金銅法具等が保存されている。


山に向かって、大きな石段を登ると、右手正面に多宝塔の様な二重塔があり、本堂は

左手にあり、東向きに建っていた。 通常であれば山を背にして南向きに

建てられるのであろうが、意外な感じがした。



岩屋寺本堂


聞くところによると、この寺は元、天台宗の寺院であったが、昭和になって

尾張高野山の一宗派になったと言われ、その時に遷座したのか?

本堂だけが心なしか新しく見え、勝手な解釈で、納得する。

本堂の向かいには阿弥陀堂があり、親鸞上人が、此方に訪れた時

阿弥陀如来を納められたと伝えられている。 




阿弥陀堂


阿弥陀堂の南には往時を思わす格式高い鐘楼があり、境内の一番奥に二層の経蔵がありる。

屋根には金色の鳳凰が輝き、その稜線が、けら場でそりあがり、実に美しい造りである、

宇治の平等院を彷彿とさせる建物で、年月を経て周囲の景観にも馴染み落ち着きがある。

場所柄、見棄てられているが、若し奈良か京都にあれば、

脚光をあびるに間違いない。




    
経蔵の二重塔                          鐘 楼    


経蔵の奥に入ると、大きい山ではないが樹が生い茂り、薄暗く、

大師ヶ岳八十八霊場とうたってあった。

案内に因ると、山頂まで13分程度とあり、ちょいと好奇心も手伝い、

遍路気分を味じわってみる!


いきなり、霊場らしく山腹の崖に五百羅漢のお出迎えがある。

これらは19世紀の初頭に豪潮律師により開かれたと言う。

無数の石仏が並び、潮風と梅雨時の為か、やけに空気が湿っぽく、

道は、じめじめして、まさに霊場の雰囲気に満ちている。

山は勾配はきつく、樹が覆い、深山に入る様な気分になる。



五百羅漢



五百羅漢


この裏山一帯に八十八の弘法大師像と多くの石仏が祀られていると言う。



各札所の身代大師


一番より順時、参って登る。 2.3.4.5番・・・・ 汗を拭き拭き、又登る。

兎に角、札所の間隔が短く、頭の下げどうし。  やっと視野が明るくなり、

頂上に到着。  弘法大師像を仰ぎ、 南無大師遍照金剛!  

大師様は石の台座の上に、廻りに如来を従え、凛と御立ち。


 
頂上に立つ大師像             大師の立つ台座で、それを護る五如来           


大師の足元で、一服させて頂き、梅雨の晴間、知多の海を眺め、暫し、汗をさます。

頂上までは山の南斜面を登ってきたが、下りは北面となり、後半分の札所を巡り

最後八十八番目まで行くことになる。
   さ〜 出発!



頂上より見る知多の海

下りは、やはり往きと比べれば楽なもの、しかし、森は更に暗く、足元は北側の為が、

水分を含み調子に乗っていると、足をすくわれそうだ。

暫らく、下りると、この暑いのに鶯が鳴き始めた。 何処が春なのか?

最近は、鶯まで狂って来たようだ。

菩薩か地蔵か見当のつかない石仏群に出会う。 合掌!

合掌と坂下りを繰り返していると、何時の間にか、最後の八十八番札所に到着。

終わった!  大願成就!



地蔵か観音菩薩像か石仏群


八十八番目は屋根が架けられ、身代大師、観音菩薩、不動明王が鎮座していた。

山を下りると、そこに、お婆さんが畑で、仕事をしている。

岩屋寺の奥の院を訊ねると、腰をじわり起こし、道を左手に行くよう教えてくれた。

山の谷間の細い道を進むと、深い森に 「弘法大師御開創霊場
の石碑があり、

そこを入ると、杉並木が続き、高野山ほど大きくはないが道端に墓碑や石仏が続く。


空気が重く感じる程湿っぽく、人影は見られず、森閑としている。

こんな所で弘法大師空海が百日間護摩修行をしたと言う事だが、少なくとも

この季節では、なかったのであろう。



奥の院入口

やがて墓石の並んだ奥に紅い三重塔が林の中に見えてきた。

弘法大師は、こちらの岩窟で百日修行の護摩を焚き、その灰を観音菩薩の身中に

納め、奥の院を開かれたと伝えられている。




苔生した墓と三重塔


    
三重塔


奥の院本堂は、この塔の更に上にあり、蒸し暑くて、この辺りで、ご無礼することにする。

参道を戻り、大師ヶ岳の横を貫け、民家のある所まで来ると、「軍人像はこの奥あります」

中の院」 と、書かれた札が出ていた。  さてまた、好奇心をくすぐられ、

中に入ってみる。  寺らしい雰囲気はないが、小さな広場に

「中の院軍人像について」 と、案内があった。 内容を見ると、


この軍人像の殆どは昭和12年の上海上陸作戦で戦死された名古屋第3師団
歩兵第6連隊の兵士達です。 緊急の出動で名古屋城内より名古屋港まで夜間
13KM徒歩行軍の後、野間沖に待機していた巡洋艦と駆逐艦に乗込み、僅か
26時間で揚子江河口に到着。8月23日敵前上陸したが、半月足らずで殆どが
全滅した。  軍人像は、夫々の遺族が戦没者の一時金で写真を元に造らせ
昭和12年から18年の間に建立された。 戦後になり、進駐軍が取り壊しを命
じた際、僧侶が「国の為に死ぬと言うことはアメリカでも日本でも変わりはない
それを日本人の手で壊すことは出来ない。 どうしても壊せと言うのなら我々を
この場で殺して、貴方達が壊すが良いだろう」と、突っぱねた。 お陰で、像は
壊されずに残った。 元々像は名古屋市千種区月ヶ丘にあったが、御縁あって
当山へ移された。                     天台宗 大慈山 中の院 



道脇の立札

確かに当時は、こう言った気骨のある御仁がいたものだ。

進駐軍も度肝を抜かれたのであろう。

案内板の奥に、ずらりと軍人像が並び、台付きのものと、台無しのものとあった。

墓石と違い、肖像は、夫々に表情を持ち、何かを訴えてくる。

この上海海戦では8月9日から8月末迄に2500人程の戦死者が出たと言われる

激戦であったらしい。  その後、戦争は第二次世界大戦に拡大し、物資の不足や

空襲などで戦死者が多くなり、子供の頃、こう言った軍人像や、英霊の遺骨を

迎える式典もよく見掛かけられたが、戦いが激しくなるにつれ、この光景も

見られなくなり、敗戦へと突き進んでいった。    嫌な思い出である。

ここのとこ、北朝鮮のテポドン発射から、迎撃ミサイルじゃ!敵地攻撃じゃ!と

戦争未体験者が、勇ましい話をしているが、ちと、この軍人英霊に訪ねて見るがよい。



軍人像





軍人像の隣には地蔵菩薩の一群もあった。

地蔵菩薩は、夫々違った衣装で飾られ、木陰で暑さを避けていた。

前列の地蔵は眩そうに日を浴びている。 軍人像とは変わり穏やかそのもの。






中の院を最後に南知多インターより家路につく、道路はガラガラ。 車は快適に走る。

中の院を見て、今朝からの中田ニューズから始まったブルーの気持は、又、蒸しかへる。

そんな事とは関係なく、カーラジオは、軽快なテンポの音楽が流れる。


平和って、いいな〜

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