京都紅葉
05.11.24


                訪れたところ
 南禅寺・方丈・南禅院・金地院・天授庵、 左京区南禅寺福井町 
 青蓮院                      東山区粟田口三条坊町 
 知恩院                      東山区林下町
  平安神宮                                                   左京区岡崎西天王町
 無鄰
庵                  左京区南禅寺草川町


この2・3日、朝方の冷え込みが続き、紅葉は山より里へと移り、木々も色ずき、

すっかり秋も深まった様である。 去年は、京都北の鷹峯と紫野地区の紅葉を見に行ったが、

今年は、洛東地区のそぞろ歩きを楽しむことにした。


京都東I.Cを降りると、道は急に、のろのろ運転となり、山科を抜けると、どうやら空いて来た。

やはり今週は紅葉のピークなのか、観光バスも多く、こんでいる様だ。

岡崎公園の駐車場に車を入れ、都大路をぶらぶらと、南禅寺へ。

この辺りは京都の美術館、図書館等が集まり文化芸術のゾーンとなっている。

やはり、時代を経た朝の京都の道は清々しく心地よい。

白川通りに出て少し歩くと南禅寺前に出た。

道には南禅寺名物の湯豆腐屋が何軒かあり、中には有名店もあった。

左側には駐車場が並び黒いハッピを着たオジさん達が拝観者や車の案内をしていた。



南禅寺と塔頭:南禅院、金地院

南禅寺入口


入口を入ると、結構、拝観者が入っていた。 木々の紅い葉が直ぐ目に付き、南禅寺の三門

(重要文化財)が木立の間に見えて来た。 流石、日本三大門の一つだけに風格がある。

石川五右衛門は、この上から京を眺め、”絶景かな!” と叫んだそうだが??

ご開帳がされていて、楼上に上がれたが、こちらは五右衛門気分よりも紅葉へと急ぐ。




三門の拝観者と盛りの楓


この山門は1628年に藤堂高虎が大阪夏に陣の戦没者慰霊の為、建立したと言われている。

楼上には釈尊像、十六羅漢像が安置され、内部は極彩色に塗られ狩野探幽、土佐徳悦の合作と言う。



山門より眺めた紅葉と法堂




法堂前、桜の葉は散り、楓のみが紅い


この法堂は明治42年に建立され、元は豊臣秀頼が寄進建立したが、明治28年に焼失した。

法堂を参拝し、左手に行くと、ローマの水道橋を思わすアーチ形の水路閣が待ちうけ、

恰も、南禅院の三門の様な佇まいであった。

 

今、見ると、苔も生え汚れや白化も出て、自然と寺院との中に溶け込み、時の力を感じる。

洋式の形のもので所詮、寺院とは不似合いな物であるが、今では全く違和感を感じさせない。

若し、ユトリロが見ていれば即、画のモチーフにしたことであろうに。



水路閣、煉瓦の肌合いの渋さ!


水路閣は明治の遷都により首都機能が東京に移つされたことにより、京都復活の一大事業として、

琵琶湖から宇治川へ水路をつなぐと云うことで、時の京都府知事が21才の青年技術者に設計を命じ、

明治28年に見事完成された。  この水路閣の建設に当っては、

寺の美観と街の発展との問題で、寺側と当局との交渉が為されたそうだが、

21才の青年技師は、さぞデザインに苦しんだ事であろう。


水路のアーチを潜ると正面に南禅院の石段が見え、石段を登ったところに入口がある。

こちらは元亀山天皇の離宮、その寄進を受け大明国師が禅寺を開山されたもので、

応仁の乱の後、荒廃をしていたが、徳川綱吉の母桂昌院等の寄進により1703年に再建された。


此方には亀山法皇の廟があり、南禅寺の塔頭の中でも別格に扱われている。


中に入ると、元離宮の方丈があり、方丈中央には亀山法皇の木彫像が安置されている。

庭園は京都で唯一の鎌倉時代のもので亀山法皇の作とも云われている。

周囲は木々に囲まれ、池の中央に心字島を置いた池泉回遊式である。

手入れされた紅葉と黄葉、芝の鮮やかな緑が快く交じり合い、

天上人の感性が伝わってくる。



方丈と庭園




庭園の竜田の楓


庭園には吉野の桜、竜田の楓、難波の葦が移植されたと言われている。

若い頃には一向に気付かなかった自然だが、彩色の中に、ススキが健気に銀色を添え、

僅か、四・五本であるが全体を引き締めている。 正に幽玄の世界!

思わず、うならずにはいられない。  うー!



回遊式池泉





回遊式池泉と方丈


方丈は総桧の入母屋造りで、柿ぶきの緩やかな屋根の曲線が実に落ち着き、

日本の建築の自然と溶け合った美しさが感じられる。

南禅院を出て、南禅寺の方丈に入る。



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南禅寺方丈


南禅寺・本坊の入口


南禅寺は禅宗・臨済宗南禅寺派の大本山で、亀山天皇が大明国師に深く帰依し、

1291年に亀山法皇を開基として、大明国師が開山したと云う。


歴史的には京都禅宗「五山の上」に位され、歴代傑出した僧侶が住持した。

伽藍は何度もの火災で焼失したが、現在のものは桃山時代のものと云われる。


大方丈は豊臣秀吉が建造寄進した御所の清涼殿を1611年に後陽成天皇より拝受移築したもので

寝殿造りの柿葺きとなっており、桃山城の小書院を移築した小方丈と共に国宝となっている。




大方丈より見る枯山水の庭園、置石が虎に見えるか?


中に入り、禅宗様式の書院から、ほの明かりの廊下を進むと大方丈(清涼殿)の濡れ縁に出る。

ぱっと明るくなり、禅院式の枯山水の庭園が広がっている。 東山を借景として、巨石を置き、

その姿が虎に似ている事から「虎の児渡し」と呼ばれ小堀遠州作と言われている。

小方丈の襖絵は狩野探幽の傑作と言われる「水呑みの虎」があり、虎ずくめである。

此方は薄明かりで清涼の滝が流れて、毛氈が敷かれ、茶席となっていた。



枯山水庭園の右手の眺め




方丈襖絵




龍渕閣へ通じる鍵の字の渡り廊下


方丈より渡り廊下があり鍵の字に曲がっている。 機能的には無駄な様に思われるが

遊び心と、美意識の為せるわざであろう。  ここにも紅葉が・・・



裏手の庭

日陰から朝陽をうける様になり紅葉もかがやく。



小方丈大玄関

庭を見終わり外に出ると小方丈の唐破風の大玄関と石畳の白砂が光っていた。

次は金地院へ



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金地院


入口の唐門


この金地院も南禅寺では別格の塔頭と言われ以心崇伝の遺骨が祀られている。

金地院は元、大業和尚が足利義持の帰依をえて北山に開創したが、慶長の初期に

南禅寺の塔頭に移築された。  本尊には地蔵菩薩が奉安されている。

当時の高僧、以心崇伝は徳川家康に遣え、天海僧正と共に幕議にまで参画し、自らは

天下僧録司として宗教界の人事、行政を左右していて「黒衣の宰相」とも呼ばれた。

家康の死後
境内に東照宮(重文)を建立し、南禅寺の伽藍造営に努めたと云う。


入口をはいると直ぐに華麗な明知門がある。 


この門は名前の如く明知光秀が天正10年(1582年)に母の菩提の為、黄金1000枚を寄進し

大徳寺に建立したものを明治初年に此方に移築された。




明智門と紅葉


明智門をくぐると視野が広がり、右手の方丈らしき建物には仮設足場が組まれ

堂やら工事中の様である。  付近を見廻すが此方は楓が少ない様で、弁天池に紅葉を見つける。



弁天池の楓、初夏には蓮の花が見られよう。




三つ目の紅葉




東照宮の案内板

弁天池の傍をぬけ細い通路を行くと東照宮の参道に出る。



東照宮参道




東照宮

此方の東照宮は以心崇伝が徳川家康の遺言により、家康からの遺髪と念持仏を奉り

寛永5年(1628)に造営したものであり、天井の鳴龍は狩野探幽の筆と言われる。

土佐光起の作の額、三六歌仙もある。

東照宮は何処も立派な造りであるが、此方の社殿は塗りの漆がかなり傷んでいた。

これだけの漆の修復には費用もかさみ、重文でありながら創建以来、捨ててある様だ。

参拝してな石畳を伝い方丈に戻るが、やっぱり工事中で、仮説足場の間から垣間見た。

やはり気分は半減!


重文の方丈は1610年、以心崇伝が伏見桃山城の一部を徳川家光より賜り移築したもの。

襖絵は狩野探幽、尚信の作。 正面には山岡鉄舟の書「布金道場」の額がある。

方丈の前には京都三名勝庭園の一つである鶴亀の枯山水の庭園がある。

1630年の小堀遠州の作と言われ、江戸初期の代表的な庭園として有名。

長方形の長い白砂は海を表し、その後には亀島、鶴島の巨石を置き左手中央には

盆栽を大きくした様な枝振りの古木があり、背景の刈込みは幾重にも重なり、

武士好みの豪壮さが迫って来る。 


此方は、青葉の時期に、もう一度見たいものである。


         つづく     HOME