大仏殿前の雑踏
川の突き当たりに、蕎麦屋の狸が手招きをしていたのでカメラを向けたら、
何時の間にか側で戯れていた中学生が飛びこんでいた。
とり終わると、人懐こく握手を求めて、別れを告げていった。
中学生と別れ、突き当りを左に行くと、依水園に着いた。
依水園へのアプローチ、左の建物は寧楽美術館、赤焼きの展示がされていた。
依水園は面積4000坪におよぶ奈良市内唯一の池泉回遊式庭園で、杜甫の
漢詩”名園依緑水”という一節を名前に引用したと伝えられ、庭の構成は、
西側の前園と東側の後園からなる。
前園は1670年代に奈良の晒業者、清須美道清の別邸で今も残る三秀亭を
中心に池中央の中島と、要所に置かれた灯籠、石組の巧みさの庭。
後園は、明治32年裏千家十二世が作り上げたと伝えられ、中島と築山を芝生にし若草山、御蓋山の借景に繋げている。
庭園内には、書院造りの建物や茶室が配置され、柳生宝徳寺から柳生堂が
移築されている。 |
江戸時代よりの三秀亭、抹茶、食事所となっている。
庭を左回りに緑の木漏れ日を受け進む、日頃の手入れの良さが伝わってくる。
杉苔の素晴らしさが、木々を引き立てている。
前園の中央には鶴亀をあしらった中島があり、そこに、
二人の女学生風の外国人が庭石に腰を下ろしランチボックスを持っている。
チラリ覗くと、何と巻き寿司ではないか!!
恐らく、コンビにでも買って来たのであろう。
日本の寿司が外国にも進出しているのは知っているが、
コンビニの寿司を買うとは、日本の生活にも慣れて来ているのであろう。
態々、日本の庭園を見に来てくれるとは、
自分の国の文化を理解してくれると、いう事で、
本当に嬉しいものである。
しかも、築山のテッペンで食事をしているのが愉快である。
その内、ここら辺りも、彼女達は、解って来て呉れるであろう。
後園の庭は細い路地で茶室や書院を繋ぎ、辿っていくと視界の開けた場所に出た。
茶室
そこは万葉の世界! 安倍仲麿がよんだ、
” 天の原ふりさけ見れば春日なる御蓋の山に出でし月かも ”
東大寺南大門の屋根が正面に若草山がつながり、
月があれば、もう当時と同じ雰囲気!
水辺より、中島と築山を低木のツツジを植え、遠景をうまく活かしている。
万葉の余韻を残し、そこをでる。
人力車の兄さんが、”奈良はこの辺りだけ、乗らないですか”と誘ってくれるが、
もう帰る我々には、用がなく、バイバイ!
曲がり角で振りかえると、もう、客を乗せていた。
古都のそぞろ歩きを楽しみ、県庁交叉点まで来た時、目に入ったのが此れ、
「右大坂、左うぢ」の字を見ると土辺の坂だったり、
平仮名の”うぢ”だったり、むかしの大らかさが伝わる。
飛火野の野生の藤を見たく寄ってみたが、花は見つからず、
鹿の糞を踏むばかり、諦めて駐車場に向う。
帰りがけ、あの中国人らしき番人は、もう居なかった。
遂に、車の安全祈祷はやらずじまいに終わり、
結局、駐車料は1000円となった。
石窟庵
帰りは、奈良奥山ドライブウエイを通って帰る事とする。
新若草山コースは曲がりくねった登り道が続き、
既に青葉となった桜の木が両側にあり、
桜の花は見れなかったが、山藤は幾らでも見ることが出来た。
奈良奥山コースに入ると、ダートコースで、一方通行となり
車と遭うことはないが、セカンドの慎重な運転となる。
この辺りは、元々、春日神社の神山で狩猟伐採が禁止されていた為、
道も地道となり、手つかずの自然が残され、
世界遺産に指定されたとの事。
道は春日杉の巨樹で覆われていて、まさか、この様な原始林が、
奈良に在るとは、思ってもみなかった。
途中、石窟庵があり、穴仏が刻んであり現地の説明によると、
奈良時代に石を掘り出した跡で平安時代に彫られた、
大日如来と阿弥陀如来、地蔵とのことであるが、
しかし、確認は、しにくかった。
展望台からの眺め
原始林を貫けると高円山コースに入り、すっかり視野が開け見晴らしが良い。
高円山ホテルの傍の展望台からは、大和三山が見えるとの事だが、
春霞で見えず、諦め、奈良に別れを告げる。
それにつけても、此れだけの安らぎと、のどかさを感じれば
納得の奈良であった。
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