北関東紅葉狩り奥日光・東照宮
06.10.16.〜10.18


水上インターより関越自動車道を沼田インターまで走り120号線に入いる。
老神温泉の傍をぬけ片品村に入ると、間もなく尾瀬の標識が立つていた。
ここを左へ行けば尾瀬に行くのだが、今回はお預けで120号を真直ぐに、
やがて山岳地帯に入り「日本ロマンチック街道」の看板が見える。
あ〜 日本にもロマンチック街道があるのだ。

興味深々で走って見ると、ドイツの様にお城はないが丸沼、菅沼と池はあり
また道路が黄葉で美しい。 折からの太陽が黄色の葉っぱを通して空気が
キラキラ光る。 白樺林が落葉し、白い幹を整然と並べ、東山魁夷の絵にも
出て来そうな風景である。

 紅葉に於いては、素晴らしい日本ロマンチック街道は、もっと宣伝して
も良いのではと思う。  一見の価値がある。 

写真を撮ろうと、もっといい場所があろうと走り続けるうちに金精峠に来てしまった。
結局、残念ながら、撮らずじまい。

ロマンチック街道での最低の紅葉



金精峠から見る男体山と湯の湖

峠を越え湯元に入る。 ここから中善寺温泉は湯を引いている。
右手に湯の湖が見える。 小さい湖で小船で鱒を釣っている人達がいた。

湯の湖では湯滝を見る予定であったが、すっかり忘れてしまい御通過。
歳だね〜 諦めの境地。

やがて戦場ヶ原に入る。 天気が良い所為か大勢の人である。
こちらは昔は噴火で出来た湖であったと言う。 
その後、土砂の流入で湿原に変わって行ったそうだ。

右手の草原はすっかり草もみじに変わり、今盛りであった。  
更に進むと、赤沼に到着、車を降りて散策とする。


三本松付近より温泉が岳方面

赤沼の自然センターには修学旅行のシーズンか大勢の生徒が
バスを連ね来ていた。 
駐車場の廻りは、黄色や、茶色の葉が落ち秋の深まりを感じる。

男体山は遠目には判らなかったが風化が進み、彼方此方に砂防の
堰堤の跡が見え痛々しい。 
霊山だけに関係者が食い止めに努力しているのであろう。

その北には少し小ぶりの太郎山が見える、青い空に紅葉で赤みの差した
あい色が鮮やかに見え美しい。


太郎山

戦場ヶ原は昔、赤城山の神と男体山の神とが闘った所と言う。
こんな景色の良い処で闘わずとも、温泉でも入って、胡桃だんごでも
二人で食べればいいのにと、思うのだが。

真綿を引いたような秋の雲が広がり茶色になった草もみじの野原の
先に傾きかけた太陽を受けた山並みが美しい、明日も天気の様だ。


戦場ヶ原



赤沢自然情報センター

暫く、ぶらつき龍頭の滝へ向う。  少し走ると人だかりがあり、寺でもあるのかと
思もわせる。 ここが滝だった。  門を入ると神社の舞台の様な処があり
そこに、観光客がひしめいていた。

人の隙間から覗きこむと滝は直ぐ傍にあり、落差の短い、ほんと龍頭と言う
に相応しい二つの頭があった。 スケールは小さいが、実に良く出来た
自然の芸術を思わせる。 岩の木の生えぐわいといい、その木の形と種類が
実にバランスがいい、人工的に出来そうな規模であるが、やはり自然のなせる技。


龍頭の滝

滝を見て湖畔に出ると戦場ヶ原向きの車が続いていた。
お陰とこちらは反対方向でゆったり走れた。 時間が三時になり
ここらで切り上げホテルにチェックインすることに。

ホテルはサンセットピアの前にあったが、休業している様子で
小さな入口から駐車場に入れる。

中に入ると裏口から入った様だ。 二荒山神社の所で左斜めには入る
べきを湖岸道路を直進した為だと、フロントが教えてくれた。


ホテルの裏、ここは食堂

ホテルは蔦舎ホテル http://www.tutaya.biz-web.jp/index.html

ホテルのロケーションは湖畔の素晴らしい処だがホテルは今一だった。
時間もあり、荷物を置いて外に出る。  

今度は正面玄関から出て、二荒山神社(中宮詞)に行って見る。
ホテルを出て少し坂を下り湖岸道路と交わった右角にあった。

二荒山神社は平安の初期、勝道上人が二荒山(男体山)に心霊を感じ
御神体として祀り神社を開いたと言われる。

表参道より入ると真上に御神体の男体山が見える。
中に入ると参拝者が二・三人いたが、深閑としていた。
そう言えば今月は神無月か、神さんも出雲へご出張か?

境内には楓の木があり、紅葉が進み、神さんがお戻りの頃には
散ってしまうのでは?

湖岸道路より表参道より

神社に参り道路に出ると、夕暮れとなり、ホテルにくる時は戦場ヶ原方面への
車が多かったが、今は東照宮方面への車が増えている。

フロントの話では、この道路が日光で一番混雑するそうだ。
通りをひと歩きしてホテルに戻る。

部屋より中禅寺湖を眺めると、先程まで出ていた夕日は山並に隠れ、
残照を微かに残している。
「秋のつるべ落し」とは、よく言うたものである。


窓から見る中禅寺湖の黄昏

温泉に入いり体を休める。  今日は昨日に比べ運転時間が少なく、
疲れと言うほどのものではないがじっと湯船に浸っていると、
汗と共に抜けて行く様である。

風呂を上がり、一階のレストランに降りる。 
レストランは、ほぼ一杯で我々が最後だった。
ビールをもらい、ぐーと半分飲み干す。  風呂で汗を流した為
身体が水分を要求するのかビールが美味い。

食事は毎日の楽しみの中に占める割合が一番大きいようだ。
特に外での食事は又格別、その土地特有の物や季節の物が楽しめて。

こちらで出された食事は和洋折中の料理であった。
やはり、中禅寺湖名物の鱒のソテーが、皮が芳ばしく美味しかった。
ホテルの設備は今一だが料理は満足できた。

歳いったウエイターが人慣れたもてなしで、明日、訪れる明智平や
東照宮の場所を丁寧に教えてくれた。

入浴前にフロントで周囲の様子を訊ねると、地図は呉れたが要領が得ない。
よく聞くと彼は沖縄から最近、来たばかりと言う。
沖縄人らしく純朴で人の良いスタッフだった。
彼が食堂のウエイターが詳しいと教えてくれた。

チーフがいたが、先ほどから、客と電話で揉めている様だ。
雰囲気では、上司には聞きずらかったのであろう。


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朝起きてみると薄曇りだった。  食事を済まし明智平へと向う。
湖岸道路を日光に向け走る。 大きい赤鳥居を抜け右折して
対面交通の坂道を登ると、すぐにロープウエーの停留所があった。

入口までいったが客が並んでいて、ゴンドラが小さく時間が
掛りそうなので諦めて下りることにする。
上から、いろは坂を覗き、華厳の滝へと降りる。

山を下って、赤鳥居の通りを右へ行くと、大きな駐車場があり
修学旅行の生徒が、またイッパイ。 子供との同行となりそうだ。

流石、天下の日光さん、各地の観光地が客が減って困っていおるのに
こちらは華厳の滝、集客力が凄い。

大きなエレベーター乗り場があり、そこに修学旅行生が集まり奇声をあげる。
 エレベタ−の横には係員がいて観光客を捌いている。

エレベターに乗ると中にも男の係員がいてエレベーターの運転をしている。
観光客が多く経営が順調なのか要員にゆとりがある。

 下に降りると見晴台が作られていて
大勢の人達が辺りの紅葉と滝を観賞していた。


華厳の滝

さすが、日本の三大名瀑の一つと言われるだけに壮観である。
ホテルのウエーターが”朝行くと虹が出て素晴らしいです”と教えて
呉れたが、確かに虹が出ていて荘厳さを増す。

高さが97mというが、それほどには見えない。
和歌山の那智滝の方が大きい様だ。 紅葉が来て滝の白い
水飛沫と岩肌の蒼い苔の織り成す構成美。
やはり自然の造形にはかなわない。

暫く、滝と紅葉を楽しみ、次の東照宮へと向かう。


滝壷に降りていく虹



見晴台より見る谷の紅葉


滝を出て120号線を走ると、いろは坂に入る。 下りは第一いろは坂で、やはり
ヘヤーピンのカーブである。  平仮名のいろは文字を草書で書いた様と言うが
本当にそう思える。  一方通行で安心して運転できるのが有り難い。
ハンドルの切り返しが続き、やがて120号線に出る。
因みに、いろはのカーブは48あるそうだ。

  やはり朝は、逆コースで車が少なくて助かる。
なだらかな坂道を走ると清滝町に入る。  清滝I・C横を過ぎ東照宮に近づき、
あまり近くて混み合ってもと思い、左手に見えた駐車場に入る。

駐車場は*田母沢御用邸のものであった。

大正天皇の別邸で、現、天皇も戦時中に、こちらに疎開されていたと言う。
現在は別邸を中心に庭を初め敷地全体が公園となっている。


駐車場より緩やかな道路を下って、120号線から斜め左に行く道を
入って行くと西参道に出た。 
掃除をしていたオバさんがいたので尋ねると、丁寧に教えてくれた。

 この辺りは大きな木が茂り、もう神域らしい。
言われた通りに行くと表参道に出て一の鳥居が見えた。

この鳥居は黒田長政が九州より石を運び造ったと言われている。
鳥居以外にも各地の大名が夫々寄進をしていると言う。


東照宮の山内は現地の案内によると元は修験者の修行の霊場であった。
そこに、766年、四本龍寺(現輪王寺)を開山したのが始りで、その後
関東に徳川幕府が開かれ、江戸の真北に当る日光を宇宙の中心と考え
家康が我が子、秀忠に死後「日光に八州の鎮護の神として祀り永く伝えよ」
と遺言を残し、日光に御堂が開かれた。 その後、徳川家の相談役でもあった
天海の教えもあり家光により現在の豪華な建物に建て換えられた。



その鳥居を潜ると、左手に背の高い五重の塔が大きな杉に囲まれ
高さを競っている。


五重塔

正面の石段を登ると丹塗りの仁王門(表門)がある。
唐獅子や麒麟の彫刻がなされている。  門を入ると参道は鍵の手に
曲がり、二の鳥居までに、三棟の神庫が立っている。 

神庫といっても校倉造の素晴らしい彫刻が施された代物である。
神庫には流鏑馬等の神事の道具が納められている。


表門仁王像



校倉造の下神庫

上神庫の前には白馬のいる三猿で有名な神厩舎がある。
こちらは流石に厩らしく塗りがなく素木造りで仕上られている。


神厩舎の見ざる言わざる聞かざる

青銅造りの二の鳥居に来ると装飾された鼓楼と鐘楼の奥に名を轟かす
陽明門が何百年を経た古木の森を背にドッカとあった。

鳥居の前には、これが御手洗所かと見間違う程の金箔が張られていた。
まるで唐門のように見えた。


二の鳥居の広場



金ぴかの手水舎

手水舎の右手には是も又、禅様式の輪蔵(経堂)が春日灯篭に囲まれていた。
経典用の回転する書架があることから輪蔵と言ったそうだ。

石の階段を登ると眼前に国宝・陽明門があった。 流石に徳川政権維持の為に
天海僧正の奨めの元に家光が技の粋を集め建立させた事がよく解る。

唐破風の真下には金色の中に群青が鮮やかに東照大権現の額が目立ち、
白い胡粉柱と梁が構造骨格を浮き立たせ、色彩的にもよく考えられている。


輪 蔵



子供たちで賑わう陽明門

飾り金具、彫刻、塗りどれを取っても素晴らしいが、中でも彫刻には目を見張る。
一個一個見ていれば、ほんと日が暮れそうだ。 因みに彫刻は500点あると言う。

陽明門を潜ると一段高い所に格子連子の塀に囲まれた拝殿の国宝唐門が
正面に見える。 当時は将軍に拝謁できた人間だけがこの門を利用できた。


陽明門彫刻のデイテ−ル

全体に胡粉で仕上られ柱には黒檀や紫檀を使った寄木細工がなされている。
梁の上には精緻な中国の聖人達の彫刻がずらり並んでいる。

門の右手塀の最後の所に祈祷殿がある。
以前は神仏習合であったため、ここで護摩が焚かれ祈祷が行われた。
今は上社務所として参拝者の祈祷に使われている。

国宝の唐門



唐門の精緻な中国聖人の彫刻



祈祷殿

唐門で参拝を済まし祈祷殿の横を貫けると東廻廊の奥社潜り口欄間に
東照宮で一番有名な左甚五郎作の国宝彫刻「眠り猫」がある。

何のことはない、牡丹の花の中に猫が眠っているだけのことであるが、
平和の象徴とされている。 この他にも陽明門の唐子等、
東照宮には平和を願う彫刻が多いと言う。

奥社入口を入ると、直ぐに坂下門がある。  
以前は将軍だけが、この門を入る事が出来た。

今は我々も将軍並。

国宝眠り猫の彫刻

坂下門を入ると、石の階段が長く続き、本殿の裏側にある
奥の院まで伸びている。 石段は切り刻んだ一枚石で出来ており、
東照宮の総工費の13%が石工事に費やしたと言うのがよく解る。
因みに東照宮の総工費は2000億円に換算出来るそうだ。
ほんとかなあ−。

階段を登って行くと汗が出て、家内はもう少しの所で諦めてしまう。
こちら一人でやっと、辿り着く。 奥の院の裏に廻ると唐銅製の宝塔があり、
ここに家康公の神柩が納められている。

それにしても、家康が死を前によほど秀吉の豊臣家引継ぎの
失敗が教訓となったのであろう。

その子秀忠に「死後、八州の鎮護の神として日光に祀り、永く伝えよ」
と残したと言うから自分を神格化して徳川家をつなぐという威光政治を
奨めたかったのであろう。 丁度、昭和初めの皇国日本のお手本の様だ。



家康公の墓

宝塔に参拝し、陽明門に戻り、左手にあるオランダからの奉納釣灯篭を見る。
この他にも、韓国から寄進の燭台や香炉等もあるそうだ。

釣灯篭の先には薬師堂がある。 こちらは鳴き龍で有名な狩野永真安信の
画いた龍の天井画(竪山南風の復元)に向い、拍子木を打つと、共鳴で
鈴と思われるような、震えのある音がピリピリピリと聞こえて来る。
拍子木の音が、まか不思議な音に変わるのに驚く。

修学旅行の生徒たちが多く、喧しいので、お坊さんに叱られる。


オランダ釣灯篭



正面鳴き龍の薬師堂、右陽明門廻廊

「鳴き龍」をみて神厩舎の前に来ると、秋篠宮悠仁親王のお印で有名になった
高野槙があった。 三代将軍家光がお手植えで360年以上のものと言う。

参考、 1971年韓国・百済の武寧王の古墳から出土した棺材が日本でしか自生しない
   高野槙であった為、話題になった。 尚、続日本紀には桓武天皇の生母は高野新笠
といい武寧王の子、淳陀王子の子孫と言われる和乙継が父である。 
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