白川郷と能登半島・和倉温泉
13・7.27〜7・28
梅雨が明けたが、はっきりしない空模様の7月の第3土曜日、子供達と能登半島
に出かけた。 東海北陸道の途中、岐阜と富山の県境にある世界遺産の白川郷
に寄ることにする。 白川郷 I・Cで降り、156号線に出て南下すると、庄川流域
の荻町地区に荻町交差点がある。 そこから白川街道沿いに、昔の佇まいの集落が
建っている。 その集落の一番奥の駐車場に車を留める。 名古屋を7時前に出発しで
今、8時40分である。 早いせいか、まだ客足は少ない様だ。 この分では、ゆったりと
楽しめそうである。 駐車場は庄川の河川敷に設けられていて、遠くに出会いのつり橋が
見え、深い谷間に来たことを感じさせる。 駐車場の小父さんが案内図をくれ、通りまで
の近道を教えてくれる。 その道を辿ると、直ぐに白川街道に出た。
白川街道
我々一団はぶらぶらと集落の方へと歩く。 最初に村の鎮守の氏神八幡宮の前に出る。
外国人が2人、早潮から訪れて来たのか神社の前で腰を下ろし休憩している。 彼らは
神社に参ったのかね〜 それとも木陰を借りて休憩をしているだけか、そんなことを考え
前を通り過ぎる。
白川八幡宮前の外国人2人
イネが青く伸び風にゆれて、まだ紫陽花が咲いている。 水車などが水音を立てて廻り
集落は、どこか浮世離れしたところで、こんな空気に触れていると、気持ちが落ち着き、
和んでいく。 道を右手に、この村で一番大きい合掌造りの明善寺庫裏がある。 庫裏は
合掌造の代表的なもので、村の文化財に指定され、建物は200年を経過していると言う。
明善寺庫裏
村はススキや紅いサルビヤなどの草木の植生が見られ、市街の夏とは違い、歩いていても
暑くなく、涼しささえ感じられる。 孫達は土産物店に入り込み、男どもは、どぶろく店に入り
どぶろくに喉を潤す。 こちらはどぶろくの醸造が盛んな所で、濁酒羊羹まで売っている。
韓国のマッカリと違い、酸い味やくさみがなく、米粒の舌触りのさらり感とさっぱり飲み口で
粒を濾過すると清酒になるかと思える様な爽やか味であった。 アルコール度を尋ねると
17度あると言う。 一杯(300円)をよばれて、ぽっと、来たところで、虎になる前に
おいとまする。
民宿の多い中町
丁度通りの中どころ賑やかな中央あたり、ここからは出会い橋のつり橋を渡れば対岸の
「出会いの館」の方へ行ける。 我々は橋より、ちょいと景色を眺めただけで通りに戻る。
出会い橋より見る対岸
合掌造りと田園
次の合掌造りは美術館風で、中には800年を越す栃の木を使った彫刻、椅子やテーブルなど栃尽くしである。
中には風景絵画なども展示されている。 しかし、どの家も3階建ての合掌造りで、様式は統一されている様で
農業と養蚕の暮らしが出来るような構造となっていて、風通しがよく中はとても涼しい。
栃のテーブルと壁飾
栃の木の彫塑作品
合掌造り3階の内部
北の端の国の重要文化財に指定されている和田家は古くからの家柄、江戸時代には庄屋を務め
塩硝の取引で繁盛したそうで、苗字帯刀を許された身分であった。 当時は大家族制度で大勢が
棲んでいたと言われている。 同じ様に屋根は切妻屋根で3階建てとなり3階は養蚕を営める様に
なっている。 1階では囲炉裏が切られ、暖を取り、囲炉裏の熱や煙が家屋の防虫に役立っている。
和田家住宅
通りからはずれると家の周囲は田圃や自然が広がり、街の喧騒とはすっかり変わり
不便ではあるが、自然の健康な人たちの営みが窺える。 この後、昔、荻町城の
あった北の高台の展望台に行き、荻町合掌造りの全景を展望する。 知らぬ間に
観光客が増えて、カメラマンが集落に向け並んでいる。 その間に現地の写真館の
お姉ちゃんが、”シャッター切りますよ” 大きな声で、呼び込む。 他人のシャッターを
押しながら、ついでに営業用の写真も、ちゃっかり撮っていらっしゃる。 集落の展望を
見終わった頃には、綺麗な大判が出来上がっており、自分のカメラで撮ってもらっても
綺麗な見本写真を見ると、買ってしまうと言う仕掛け、息子も、その仕掛けに素直に
従っていた。 金1200円なり。 こちらは、もう、そこまでは色気が無くなった様だ。
展望台より見る白川郷・合掌集落
こちらから見ると合掌造りは山の緑と田圃に囲まれ、拝み合った妻側を一斉に、こちらに向け集落全体が
生きているように見えてくる。 集落は南北に細長い谷にあり、屋根はいづれも妻側を南北に向けている。
これは屋根に満遍なく日が当たる様にして、冬場の融雪と茅葺き屋根の乾燥を促せるためで、また南北の
風が強いので、風を受ける面積を少なくするためとも言われ、夏場は屋根裏部屋の窓を開放し、南北の風を
吹き抜けさせることで、夏蚕が暑さにやられないようにしている。 屋根は釘を一本も使わず、自然の蔓や縄で
基材を結わって、地震や雪の重みに、柔軟に応じる日本独自の建築工法である。 実に巧く考えられていて
先人の知恵が生きている。 この住居と、今も生きつづける村洛一体の文化がユネスコの世界文化遺産に
指定されたのである。
同
以前、こちらへ訪れた頃は、店も少なく村が観光客に対応できず、駐車場の案内や案内標識も
なく現地の人達は面食らっていた。 当時は、食事処も少なく、濁酒だけは、さすがに神社横で
無料で振舞っていた。 それが現在は、案内標識も整備され、土産物や食事処も多くなり、
ホテルまで出来、民宿が多くなっているのに驚く。 村はすっかり落ち着き、観光客の受け
入れにも、余裕をもってむかえてくれる。 当時とは隔世の感がある。
展望台からの景色を最後に白川郷とも別れ、東海北陸道を小矢部に出て、丁度、昼時間となっ
たので、石川県の津幡町にある回転寿司(海王)に入る。 こちらは評判どおりの新鮮なネタで
満足できた。 食事の後は能登半島の西海岸を159号線で走り、高松より「のと里山海道に入る。
この道路は松並木に囲まれた海岸を走る美しい道で金沢・内灘より能登の穴水に至る有料道路で
あったが、今年の4月より無料となった。 気持ちよく走って今浜インターより、更に海寄りに出ると
そこは、また全国でも珍しい砂浜を直に走れる「千里浜なぎさドライブウエィ」である。
海岸を走る「のと里山海道」左側は海辺
千里浜なぎさドライブウエィは今浜から千里浜町に至る約8kmの観光道路で一般自動車は勿論、バス
でも、波打ち際を走ることが出来る。 こちらの砂は非常に細かく水分を含むことにより固くしまり、一般の
海岸のように沈み込がない。 今日も大勢の海水浴の車が波打ち際に並んでいる。 8kmに渡って続く
海岸線は壮観であり、潮風を受けて波打ち際をゆったりと走る爽快さはまた格別! 海水浴場で車を止め
しばし、磯遊びを楽しむこととする。
羽咋市 今浜海水浴場
先の見えない「なぎさドライブウエィ」
日本海の波は久しぶり 海水浴客
ゆっくりと走ると、空には、かもめも長閑に飛来し、能登半島国定公園の自然を楽しませて
くれる。 やがて終りの千里浜海水浴場に到着し、これより右折して、再び「のと里山海道」
に戻って一路、七尾市に向って、リゾート地のドライブを楽しむ。 柳田インターに来て「のと
里山海道」とも分れ、2号線で半島を斜めに東海岸側の七尾市に出る。
千里浜町 海水浴場
和倉に行き、温泉地区から能登島大橋(約1km)を渡って能登島に入る。 昭和57年に、
この大橋が出来て島の観光開発が進み、のとじま水族館などが建設されたそうだ。 この
島では、今夜、日本三大火祭りの一つと言われる「向田の火祭り」があるので、そちらの
下見がてら覗いてみた。 場所は丁度、島の中程の北部地区にあり、通りから少し入った
向田町の崎山広場にあった。
能登島大橋 橋長1,050m
道を挟んで広場の反対側に伊夜比盗_社(いやひめ)があり、伝説では越後の伊夜比古神
(男神)が、こちらの伊夜比盗_(女神)に毎年7月の最後の土曜日に訪れ、逢瀬を楽しむの
が祭りとなり、高さ30m程の大松明が立てられ手松明を投げつけて点火し、大松明が火柱と
なって燃えつきた松明の倒れた方向によって、その年の豊漁、豊作が占らなわれるそうだ。
神社の延喜式に依れば西暦905年とあり、嘉元四年(1306年)の棟札や義経追討状が保存
されていていると言う。島には大きな古墳などもあり縄文期から人が住みついていたと言う。
高さ30mの大松明 向田の火祭り会場
火祭りの現場を見て今夜の宿・和倉温泉・大観荘に向う。 能登大橋を渡り、和倉温泉に入る。
温泉街は情緒のない至って普通の街である。 和倉温泉東・交差点を右に曲がり海岸沿いに
建つ温泉街の一番奥まった所にホテルはあった。 このあたりは加賀屋を初め大型のホテルが
集中している。
大観荘・玄関
ホテルは本館と新館に分れ、我々は新館に案内された。 部屋は一番奥の静かな場所である。
西の海側に面し、前には和倉のシーサイドパークがあり、七尾湾が広がっている。 ぼんやりと
能登の山波が霞んでみえる。 夕日が強く、エヤコンが入れてなかったのか、なかなか部屋の
温度が下がらないので、風呂に入ることにする。 風呂は本館の1階で、大浴場の扉を開けると
露天風呂に続いていた。 湯は透明で塩分があり、しばし手足を伸ばし身体を横たえる。
部屋よりの眺め シーサイドパーク
風呂から部屋に戻ると、エヤコンガやっと効いて来たのか涼しくなっていた。
湯上りの身体を冷ましていると、電話があり、夕食の準備が出来たましたと言う。
夕食は別室に準備され、能登半島と書かれた提灯がぶら下がった入口を入ると
小宴会場が設けられていた。 大人はビール子供はソフトドリンクで乾杯をする。
料理は能登、やはりズワイガニである。 ポン酢での味は酢好きには格別である。
やはり、ビールでなく酒が欲しくなった。 鈍燗を仲居さんに頼む。 息子は冷酒
だそうだ。 近かごろは多くは飲めないが日本酒が実に口に合い旨い。 それに
甘えびやバイ貝など、日本海の海の幸は酒に合う。 仲居さんの話によると今夜
加賀屋ホテルの横の和倉港わくわくプラザで夏祭りがあり、抽選券があると言う。
子供達が行きたいと言うので、「向田の火祭り」もあり、仲居さんに相談してみると、
向田の火祭りには9時にバスが出るので、9時前に戻るようにして下さい、と言う
ことで、8時に和倉港わくわくプラザに行くことにする。
わくわくプラザの射的
会場はステージがあり、射的や輪投げ、動物の打ち抜きなど、ブースがならび、賑わっていた。
子供達は射的に夢中ではまっていた。 やがてステージで、勇壮な輪島太鼓が始まった。 しかし
向田の火祭り行きのバス時間も迫って、折角の抽選会は出来ずに、ホテルに戻ることにする。
ホテルからはマイクロバスで、火祭り行きバスの観光会館まで送ってもらった。
輪島太鼓
火祭り行きの大型バスには、あちこちのホテルからの観光客が来ているようで、直ぐに
満員となり、能登島へとバスは出発する。 車内でガイドより火祭りのいわれや次第の
説明を聞きながら、会場の向田町にやがて到着。 会場には早くも伊夜比盗_社からの
奉燈(キリコ)が男衆達によって運び出され、太鼓や笛、鉦に合わせ、広場で上下しながら
ひょいひょいと、明るい奉燈が闇の中で生き物の様に動き廻っている。 やがて奉燈は
下がり、篝火が焚かれ、男衆や子供達が持った手松明に火が移されて、それを持つて
30mの柱松明の周囲を駆け巡る。 孫達も何時の間にか、その中に呼び込まれ手松明
に火をつけて振り回している。 この祭りは向田地区150戸の住民の結束により1ヶ月前
から毎年準備され、嘗ては離れ孤島であった能登島の唯一の夏の行事として続いている
と言う。
ふわふわと揺れ動く奉燈(キリコ)
やがて手松明を振り回し柱松明を廻っていた若者達は合図とともに手松明を中央に
聳え立つ柱松明に向け投げ掛けると、一つ二つと、柱松明に点火されて行く。
やがて柱松明は燃え上がり、火柱となってめらめらと凄い迫力で天を焦がす。
手松明を持って走り回る若者達
若衆たちの手松明で浮かび上がる柱松明と周囲を取り巻く観衆
火炎は龍が荒びるように、形態をくねらせ変化し生きているように見える。 さすが日本三大火祭り
と言われるだけの迫力である。 燃え盛る火柱は間もなく、ぐさりと倒れ火炎が大きく横に広がる。
燃え盛る柱松明
燃え落ちた柱松明
倒れた松明は尚も燃え続ける。 この様な火炎は嘗ての大戦の空襲時に見て以来の
衝撃と言うか、頭にジーンと熱く響くものがあった。 炎と言うものは何か神秘的である。
何かが燃えると言うことはエネルギーを発生することであり、何らかの惹きつける力を
持っているのであろう。 やがて燃え続けていた火にも水が掛けられ、火祭りの一夜
の大ドラマの終焉となる。 我々も引き上げ道路に来ると、奉燈をかついでいた兄ち
ゃんが、ぶっ倒れていた。 きっと酒を飲み担いでいたため、疲れが出たのであろう。
傍で仲間達は、ご機嫌で介抱している様子で、祭りの不思議な光景であった。 我々
はバスで夫々のホテルに送り届けてもらった。
つづく