京都・大原の里
2010.9.12


黄金色の稲穂が稔る大原の里


あれほど続いた猛暑も、とうとう大陸から張り出した冷気に、すっかり秋らしく涼しくなり、今日は

久さしぶりに京都・大原に出掛けることにした。  大原は京都の北東部、比叡山の西麓にあり

若狭湾よりの鯖街道の中継地として開けた集落である。 今回は京都市内の混雑を避け、琵琶湖大橋を渡り

鯖街道(367号線)より南下して行くことにした。 大橋を渡り477号線を上って比叡山を越え鯖街道に入る。

そこは、もう京都市左京区の北の端、比叡山西麓の曲がりくねった山道を走ると、やがて大原の里に出る。

バス発着場の隣に車を預け、秋らしく装った大原をぶらりと散策する。 里には高野川の清流が流れ

稔った稲は刈取られているが、まだ黄金色の稲穂ものこり大原の里の秋景色が広がり日本の風景が見られる。 



大原は古くから貴族や佛教者の出家や隠遁の場所とされ、建礼門院(高倉天皇の后、平清盛の息女)や

惟喬親王(文徳天皇・皇子)などこちらで出家され、西行や鴨長明など隠棲した地として知られている。

こちらは比叡山が近く天台宗の寺院が多いところでもある。 中でも大原と言えば、やはり三千院が

有名でバス発着場の傍の交差点を北に入ると、三千院の案内板があり、渓流(呂川)に沿った

小さな道を上って行く。 道は茂みに囲まれ所々に漬物屋など古い店があり趣のある道である。

ぶらぶらと坂道を上って行くと、渓流に案内板が立ち、「大原の地は魚山と呼ばれ仏教音楽である

声明の発祥地、その魚山を源とする呂川と律川の名前は和楽の旋法に因んで付けられた。

調子ぱずれを ”呂律(ろれつ)が廻らない” と言うのも、この語源から来ている」とある。

成程そんなことかと納得する。 更にすすんで行くと三千院門跡の石碑が見えた。



呂川に沿った参道





同 参道





三千院入り口

石碑の建つ石の階段を登ると赤い毛氈を敷いた茶店や、みやげ物屋などが並んだ玉砂利の

京都らしい華やかな道に出る。 この辺りは秋たけなわともなれば、紅葉狩りの客で

埋まるのであろうが、今は端境期、人々はまばら、静かな風情で緑の楓が迎えてくれる。

やがて右手に三千院の三門が見える。  石垣と白い土塀を持った門構え、やはり門跡寺院の

風格をもっている。  入り口に永六輔作詩「女ひとり」の歌碑が建っている。


京都大原三千院 恋に疲れた女が一人 結城塩瀬の素描の帯が・・・・

いつか流行った、しっとりとした京情緒たっぷりの歌である。



緑の楓の茂る参道




玉砂利の参道




三千院門跡

三千院は天台宗の寺院で5門跡の一つ、山号を魚山と呼び、最澄の開基した寺である。

本尊は薬師如来で秘仏とされている。 元は最澄が比叡山に草庵(円融房)を結んだのが始まりと言われ、

その後、何度か移転を繰り返して現在に至っている。 境内には平安の頃から大原の地にあった

阿弥陀堂(往生極楽院)もある。
 



三千院・三門




三門




永六輔作詞 「女ひとり」の石碑 

拝観料を払い寺院内へ廊下を伝い客殿へ。 廊下の左手に実にすっきりとした

坪庭が緊張感をほぐしてくれる。 玉砂利が敷かれ杉苔の一群から竹の生えた

だけで余分なものが削ぎ落とされた簡素な空間であるが、気持ちが和む。

廊下の先に客殿の間が広がり、参詣者が庭を眺め、抹茶で一息入れている。

この庭は池泉観賞式庭園で江戸時代の茶人・金森宗和の作庭で聚碧園と呼ぶ。

渡り廊下の花窓と庭の植木が巧く溶け合って美しい眺めである。



坪庭



 
客殿




聚碧園

客殿の左奥には鶯張りの廊下が繋がり宸殿がある。 こちらは寺の本堂に当たり

御白河法王が始めた声明による法要を今も伝えている道場であり、本尊は最澄の

作と伝えられる薬師如来像が秘仏とされている。 堂内は撮影が禁止され中の間は

金装飾で煌びやかに飾られた仏間である。 西の間は歴代の住職の内佛が祀れ

東の間は玉座となっている。 宸殿前は瑠璃光庭と呼ばれる杉苔でおおわれた庭が

広がり、年輪を経た杉木立が快い間隔で生育していて清々しい。



宸殿





宸殿前の有清園

宸殿を出て玉砂利を進むと往生極楽院がある。 この御堂は天台の門跡とは無関係であるが

恵心僧都・源信が父母の菩提を弔う為、姉・安養尼と平安末期に創建したと伝えられ、現在の

建物は江戸時代に建てかえられた。 入母屋造の柿葺、天井は船底型に上げられ、背の高い

国宝の阿弥陀三尊像が堂内一杯に納められている。 阿弥陀如来が中尊となり左を勢至菩薩

右を観世音菩薩が脇を務め、仰ぎ見る大仏像である。 三千院では仏が見えず拝めなかったが

この御堂では、たっぷりと拝め観賞できて、どうやら秘仏の溜飲もこちららで下ろして貰った。

古くから大原は念仏の聖地であったことから御堂の天井には極楽浄土の画が描かれている

そうだが確認は出来なかった。 しかし円融蔵(経蔵)では再現された極楽浄土画を見る

ことができた。 緑青で空を描き天女が舞い雲上菩薩来迎の極彩色のものであった。



有清園にたたずむ往生極楽院





有清園





往生極楽院 御堂




国宝・阿弥陀三尊像



三千院を出て、通り(鯖街道)に出る。 バス発着場で、お爺さんに寂光院を訊ねると

快く教えてくれた。 ”紅葉は、未だ早いので、きっと、ゆっくり見れますよ” とのこと。

教えられた通り街中を南に流れる高野川を渡り、街家の軒を通ったり畦道を貫けたり

ジグザグと不規則にくねる野良道を進むと、古い道標に出会う。 不安で歩いてきた

道が確認できた 「左・京 右・寂光院」の案内に一安心。 やがて参道らしき店屋の

並ぶ通りにでる。 店屋の看板を見て、近い様子を感じる。 寂光院駐車場あリ、更に

進むと右手に緑の木立に囲まれた石畳の階段があり、どうやら寂光院に着いた様だ。

階段を登って行くと、小ぶりの三門があり、奥に尼寺らしい本堂が見えた。 



寂光院・道標





寂光院参道




三門への階段



寂 光 院

寂光院は天台宗の尼寺で寺号を玉泉寺と言い、594年に聖徳太子が父・用命天皇の

菩提を弔うために建立した。 初代、住職は聖徳太子の乳母であった玉照姫で、その後

第二代は阿波内侍(藤原信西の息女)が勤め、1185年には高倉天皇の皇后である

建礼門院・徳子が源平の合戦で壇ノ浦に没した平家一門と我子・安徳天皇の菩提を弔う

ため出家して終生この寺で過ごした。 そのため御閑居御所とも呼ばれている。 本尊は

聖徳太子作と伝えられる地蔵菩薩であったが、2000年の火災で損傷し、現在は復元

された菩薩が安置されている。 なお損傷した仏像と中から小さな地蔵尊が沢山出て

きた為、これらも損傷した仏像と共に重要文化財として収蔵庫に安置されている。







太閤秀吉寄進の南蛮鉄の雪見灯篭


門を潜ると右手に鉄製の風変わりな灯篭が見える。 これは桃山城にあったものを

秀吉が寄進したそうだ。 本堂で参っていると、管理人の女性が出てきて丁寧に

説明をしてくれた。 本堂の内陣及び柱は飛鳥様式、藤原時代様式及び平家物語

当時の様式で、外陣は1603年に豊臣秀頼が片桐且元に命じて修復した桃山様式

のものであったが、2000年の焼失から古式通りに復元したものと言う。 出火の

原因は結局、漏電だったそうだ。


本堂前西側の庭園には平家物語当時の姫小松(2000年の火災で一部幹が残る)と

所行無常の鐘楼があり、北側の 四方正面の庭は何処から見ても正面に見える

と言われるもので、三段の滝から岩清水の流れる回遊式の綺麗な庭がある。



本堂




所行無常の鐘楼と千年の姫小松




四方正面の庭


寂光院の右隣地には長い階段があり登った山の中腹に建礼門院の陵墓がある。

墓は神式の鳥居の陵墓形式の中に珍しく小さな仏式の五輪塔が安置されていた。

陵墓は元は寂光院境内にあったが、明治になってこちらに移され現在は宮内庁管理

となっている。 平家物語によると女院は1185年に大原に入り1191年に没したと言う。




建礼門院徳子・陵墓


1186年、後白河法皇が大原に建礼門院を訪ねたことは平家物語の「大原御幸」として

記されているが、庵には竹竿に麻の衣が掛かり、紙製の夜具などがあり如何にも粗末な

住まいぶりが述べられ、法王との出会いでは、建礼門院が黒染の衣姿で山より下りて

来られ法王と対面、恥じらいで涙にむせんで立ちすくんだとある。 嘗ては女官に囲まれ

栄華の世界から山里の粗末な庵暮し、女院は自らの生涯を六道輪廻に例え後白河法皇

に語ったと言う。 朝には花を愛で、夕には月を仰ぎ、念仏の一生を終えたのであろう。


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