尾張・古渡城界隈
08.5.22


江戸時代、名古屋の古渡り地区は尾張・城下町の南の端であった。

古渡は室町時代に織田信秀(信長の父)が尾張の東南を固めるために古渡城を

築城したのが始まりで、今日は古渡より大須までの本町通り界隈を歩いて見た。


地下鉄名城線の東別院駅を降りると、其処が橘町で山王通りが走る城下町の南端、通りを

西へ進むと名古屋テレビの先に真宗大谷派・東別院がある。 更に、その先の交差点には

昔、古渡りの大木戸あり、宮の宿(熱田)の旅籠や「宮の渡し」よりの旅人は検めを受けた所だ。




東別院三門

東別院は立派な真新しい三門で昭和43年に再建されたものだが、

元は1702年、一如上人が尾張二代目藩主・徳川光友より小田信秀の古渡城跡地、

一万坪の寄進を受け建立したが、昭和20年の空襲で消失してしまった。

徳川光友は寺社奉行制度や評定所を設置し、制度の制定に勤める一方、茶道や書にも優れた

と言われ、その後、俳人の横井也有などの文人が育っている。



本堂

本堂は昭和34年に門徒の尽力で再建された。 本堂両側に青銅製の

大灯篭を構えた堂々たるもので、流石に大信徒を抱えているだけに肯ける。




本堂内部

中を覗くと、内部は金色に飾られていた。 僧侶から”どうぞ”と声が掛かる。

法話がなされていたが、とっさの事にお断りをしてしまう。 こちらには興味がないでもなかったが・・

やはり、真宗は熱心なところがある。 こんな所が信者を増やす強みなのであろう。




鐘楼

三門を入った左手に鐘楼があり、梵鐘は元禄5年に造られたもので戦時中の

献金にも逃れ生き残り、市の重要文化財となっている。

1878年には名古屋で陸軍の大演習があり、明治天皇の行在所になり、

日清、日露戦争には兵舎などに徴発されたそうだ。




納経堂





古渡城跡

境内の南西の隅に古渡城址の残骸が残っている。 織田信秀が1534年に築城したと言われ

信秀はそれまで今川氏豊から奪取した那古屋城(現・二の丸内)にいたが、その子、信長に譲り、こちらに移った。

信長はここで1546年13歳で元服したと伝えられている。 南北100mの平城で堀を二重にめぐらして

いたと言われている。 その後、信秀は1548年には末森城(現・城山町)に移って、こちらは廃城になった。

 信秀の死後、信長はお家争いで、一族の織田信友を滅ぼし清洲城(愛知県清須市)に移った。



城址

城址より東別院で一番古い朽ちかけた東門を出て北側にある下茶屋公園へ行く。




下茶屋公園

この公園は旧東本願寺別院の後庭のあった所で、現在も、その庭の面影を残し

江戸後期の庭園の貴重なものと言われている。 幕末の尾張名所図によると

古渡城の天主跡と記されている。




木が生い茂り薄暗く池を中心にした池水回遊庭園である。 

手入れがあまりされていない様でそれが又自然らしくてよい。




雪見灯篭と池





宝塔と橋

下茶屋公園の西隣には橘公園(おためし場、腑分けの跡)がある。



  
おためし場、腑分けの跡(橘公園)

この公園は旧称新屋敷と言い、藩士が新刀の試し切りをした場所であった。

1821年名古屋で最初の人体解剖(腑分け)が行なわれ、当日の参観者は吉雄俊蔵はじめ

60余名、石黒済庵の執刀により東西の医書を対照にして行い、洋書の正確さを知ったと言う。

因みに1771年杉田玄白らが江戸小塚原で初めての腑分けを行なってより50年後の事だったと言う

今は、公園となりベンチなど置かれ、その面影はない。

*吉雄俊蔵 理学書・遠西観象図説を創った人。


栄国寺西門

おためし場の西には栄国寺がある。 この辺りは、もと千本松原と言われた刑場のあったところで、

おためし場のあるのが頷ける。 1664年隠れ切支丹宗徒200余名がこの隣で処刑されたそうだが、

翌年、尾張藩主徳川光友が刑場を清須土器野に移し、そのあと菩提を弔うため清涼庵を建立したのが

当寺の始まりで、後に栄国寺と改められた。  名古屋に、これだけの殉教があったとは知らなかった。

今の本堂は、安政年間のものだそうだ。




切支丹灯篭

本堂西側の庭園にある切支丹灯篭、庭の奥に葵の紋のある金金具で飾られた本堂が雰囲気とは対照的。


戦時中、爆撃があったが幸い不発弾で焼けなかったそうだ。 霊が守った訳でもなかろうが、焼けなくて何よりだ。




本堂

本堂内には処刑者の菩提を弔うため光友が丹羽群の薬師寺より移した阿弥陀如来坐像が

鎮座していて名古屋三大仏の一体として文化財に指定されている。

本堂前の石畳を奥え進むと、地蔵堂があり「切支丹千人塚、奥にあり」という白い看板がある。

隣にある幼稚園の騒々しさが境内の静けさを増し、よけい霊気を感じさせる。

右手に入って行くと空き地のような広場がある、ここが切支丹の元処刑場、その手前に「つぶら椎」の老木が茂る。

地蔵や石碑が立ち何処となく空気が湿っぽく感じる千人塚であった。 

こちらにはクリスチャンで神を追求して来た遠藤周作も訪れたと言う。



切支丹千人塚、 

江戸時代の切支丹禁制政策により尾張藩も1643年頃から取締りをおこない

1664年には伝道をした200人余りを斬罪に処し、その他の切支丹の赦免に努めたが認められず

検挙した2000人が処刑された。 しかし、当事者である尾張藩主光友自身も心残りで
 
不本意ではあったのだろう。 顕彰碑には元々尾張藩は切支丹には寛大であったが

江戸幕府よりの圧力により止むを得ず検挙処刑したとある。 

他の石碑には慶安巳丑年(1649)施主・松岡新兵衛とあり

1664年以前にも処刑されていたようだ。



長栄寺門

栄国寺を出て橘公園の北にある長栄寺へ、奥まっている為見つけ難い。

この寺は曹洞宗で空海が観世音菩薩木像を改めた寺で当初は清洲にあったが1683年こちらに移された。

この寺が有名になったのは「羅塚」と言う碑がある為で、1769年冬、尾張藩の俳人横井也有の門人でもあった

石原文樵が、その恩義に報いるため建立したもので也有の髪と爪を乞いそれを埋め青蔓を植えて

徳を後世に伝えようとしたと言われている。 名古屋市の史跡に指定されている。

也有の遺徳は名古屋市の東山植物園にも「也有園」という庭園で残されている。




也有雅翁・羅塚

本堂の前に羅塚があり、碑石には也有雅翁と彫られ、1781年、この寺で内藤東甫(儒学者)が

也有を初め九老人を招き詩歌連俳の会、尚歯会を開いたそうだ。 横井家は代々尾張徳川家に仕え

也有も大番頭、寺社奉行などを勤め儒学、絵画、和歌、漢詩に長けていた。 

53歳で引退、俳文「鶉衣」書き、自然でとらわれない人生をおくっていたという。

「鶉衣」は「鶉衣のこころ」と言う岡田芳郎訳の本が出ていて、

自然を相手に自由で閑雅の也有の生き方が見えてくる。



長栄寺・本堂 右手に羅塚が見える

長栄寺より本町通に出て左手に妙善寺がある。 この寺は日蓮宗の寺であるが1680年に

尾張藩2代藩主光友が腫れ物を患い、豪商・茶屋長以が自ら「七面女神像」を刻み、日行上人に

祈祷を願ったところ、光友公の病が治癒、その話を聞いた光友が城中に神像を迎え祈願されたと言われる。

その後、時代を経て、こちらに安置されたそうである。 寺院内には小さな御堂が一つある。




日蓮宗・妙善寺


御堂を出て本町通を左折すると日置神社の標識があり、その先の鬱蒼とした茂みの

中に神社はあった。 案内によると格式の高い神社で1560年5月織田信長が

桶狭間の戦いに出陣する時、戦勝を祈願し戦勝のお礼に松を千本植えたことにより、

この辺りを千本松原と呼ぶ様になった。 御祭神は天太玉命、応神天皇が祀られ、

葵の紋があり尾張藩主光友も別社で祭られている。



日置神社





徳川光友公を祀る

日置神社を参拝し、本町通を北へ、この通りには仏具屋の多いのに驚く。 これだけ店を連ねて

いて商売が成り立つのか不思議に思う。 余程、身入りのよい商売なのかもしれない。

大須通りを越えて賑やかな万松寺通りに入る。  大須は元々、尾張藩が清洲城から名古屋城への

引っ越しから始まった。 岐阜羽島にあった大須観音を引っ越し、丸の内にあった万松寺を移転して

城下町を形造り大須は門前町として発展してきた。 戦後、一時、寂れていたが最近は商店が商売がえして

民芸品や無国籍商品、外国人の店も増えてエキゾチックな町並みに変貌し、随分若者が多くなった。


万松寺通りのアーケードをぶらりと店を眺めながら暫く歩く。

万松寺通りを左折すると、アメ横店の手前に万松寺がある。 引っ込んだ所に

やたら紅い提灯がぶら下がった不動さんや稲荷さんがあり、その奥にビルの様な万松寺本堂がある。


万松寺は十一面観音を本尊とした曹洞宗寺院で1540年古渡城主・織田信秀(信長の父)が織田家の

菩提寺として建立したが、名古屋城築城の際、加藤清正がこちらに移した。 1552年信秀が末森城で亡くなり

葬儀の際、荒縄の腰帯で現れた信長が抹香を位牌に投げつけた逸話は有名でこの寺が丸の内にあった頃である。

又、その以前には三河の松平竹千代(徳川家康)が6歳の年から2年間、今川氏の人質となる前、

こちらで暮らし、信長とも、ここで知り合った。 


院内には織田信秀廟所、身代わり不動明王、御深井観音像等が安置されている。




御深井観音

尾張藩初代藩主義直公の正室春姫の守護仏として名古屋城北、御深井(おふけ)の里に

祀られていたが、後に菩提所・万松寺に移された。

背後に見える建物が万松寺の本堂。



織田信秀公廟所

一番奥にある地下道を潜ると奥の院があり、信長塀に囲まれた織田信秀の墓碑がある。

墓碑は遠い昔を深く包み込んでいる様に見える。

入口にある「身代わり不動明王」は1570年織田信長が越前の朝倉長政を攻めての帰り道

琵琶湖北で、杉谷善住坊という鉄砲手に狙い撃ちされたが、二発の命中弾は信長が懐中にしていた

干餅(兵糧)に当たり、かすり傷のみで難を逃れたたという。 この餅は当時、

万松寺の和尚から貰ったもので、後にこの話を聞いた加藤清正が「身代わり不動」と命名した。 

そんなことから災難、厄除けに多くの人から敬われ参詣者も絶えないと言う。

この由緒を伝える為、毎月二十八日は餅つき参詣者に配られるそうだ。


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