秋・中 欧 の 旅

プラハ・ウイ−ン・ブダペスト
H10.10.23−10.30



第1日   プラハへ


西欧は見ていたが、旧社会主義圏のヨーロッパを一度見てみたく、このツアーに参加した。

総勢17名、8日間 ヨーロッパの秋を満喫!!

ルフトハンザで名古屋を9時50分に立ち、

フランクフルト乗り継ぎ、16時55分発のプラハ行きに乗りこむ。 

機は順調に飛びテェコ上空に差し掛かる。  チェコらしい赤い屋根の町が綺麗に

並べられ、まるで箱庭のように、夕日に輝いて見える。

やがて、プラハ空港に到着する。 空港はフランクフルトから比べると、こじんまりとしている。

入国手続きを済まし、空港を出ると、もうすっかり暗くなり、雨も降っていた。


プラハは人口120万の都市で、初めは六世紀頃にモルダウ河の周辺に集落が出来、

14世紀になるとカレル一世が神聖ローマ帝国の皇帝カール四世になり、プラハは

その首都となり繁栄し、百塔の街と言われる様に、年代を追った歴史的建築物が今でも見られ、

美しい町として世界遺産に指定され、今も中世の美しい姿を見せている。



迎いのバスに乗りこむと、金髪の中年女性のガイドが乗りこみ、たどたどしい日本語で

説明してくれるが、アクセントもイントネーションも今少し、なかなか聞きづらい。

日本は、まだまだ遠い国で、このレベルのガイドしか居ないのだろうか??

途中、電飾されたTOYOTAの看板が目に付く。 間もなくモルダウ河が見えて来る。 

川の両岸の灯が美しく、橋を渡り、オペラハウスを右に国立博物館を

通りすぎると、間もなくホテルに着く。 正面ホールの隅には、ショップがあり、

名産のボヘミヤンガラス細工がキラキラト光っている。

手続きが終わり、部屋のキーを貰いやっと落ち着く。


明日の準備にと、ビデオカメラのバッテリーを充電し様と、電源に差込プラグを

差そうとすると入らない。 しまった!! 

ヨーロッパ用の差込を忘れて来てしまった。

早速、フロントに問合すが、話しが通じず、現物を持って行って、やっと解ってくれたが

何処に売っているかと聞くと、デパートに行けばあるだろうと言う。

しょうがなく今夜は諦める。





第2日  プラハ市内


残念ながら今日も小雨がぱらつく。 午前中、プラハ市内の観光のためバスに乗りこむ。

又、昨日のガイドである。 バスより国立博物館を見てプラハ駅の前を通る。

駅の屋根はドーム型のガラス張り鉄骨で造られた、当時流行ったアールヌボー様式である。

この辺りの通りは、昔、ロシヤより運ばれる琥珀や、ザルツブルグからの塩の道でもあった。

バスはカレル橋に向って走る。 グリーンの屋根の芸術家の建物が右に見えてくる。

ここには、チェコフィルの事務所が置かれ、色んなコンサートが行われていると言う。

バスを降り、最初にカレル大学(ヤン・フスがいた)を見る。 14世紀に建てられたが、現在の建物は

19世紀の物という。 カレル橋の袂に来ると、黒く汚れたカレル橋の高い橋塔が目立つ。

永年の間に排ガスで汚れたのであろう。 その前にカレル四世像が立っている。

彼は神聖ローマ帝国の最初の皇帝で、剣とリンゴを持っていた。

剣は力を表わし、リンゴは知恵を表わしていると言う。


愈々、カレル橋を渡る。 河の向こうにプラハ城やビィート大聖堂の尖塔が見える。

橋の濡れた石畳が黒く光る。 数々の歴史を秘めているだけに存在感を持って迫ってくる。

14世紀に石で造られ、橋の欄干には30体のバロック風の彫像が立っていた。

彫像の中には日本にも来た聖フランシス・ザビエルの像もあり、聖人に二人の

人物が寄り添い、その一人が日本人と言われる。

これらは18世紀から19世紀に掛けて造られ、橋を一層美しく見せている。

プラハと言えばカレル橋と言う言葉が良く伝わって来る。



カレル橋よりプラハ城の入口を望む


橋を渡り門を潜ると、石畳の坂を降り、左に流れのきつい水路に水車があり、今も利用しているよう。

此方はプラハの城下町で、城内には宮殿や教会や公園があり、昔は貴族達も住んでいた。 

通りにはトラムも走っていて、ヨーロッパは何処も同じ様に車が路上に駐車している。

暫らく歩くとバロックの代表とも言われる聖ニコラス教会があり、

昔、こちらのパイプオールガンでモーツアルトも演奏したらしく、現在も宗教音楽の鑑賞会等も開かれる。

バスに戻り、宮殿に向う。 黄葉した公園を走ると立派な住宅が建ち、ガイドの話では

一戸700万コルナ(約2000万円)程度で買えるらしい。


高級住宅街を抜け公園に入ると、運動場や体育館、サッカー場があり、これらは

民族独立を目指し、19世紀に民族復活運動の一環として建てられた体育施設である。

王宮の傍で車を降りる。 王宮動物園跡や美術館もあり、ビート大聖堂も見えている。


愈々、衛兵のいる門を入ると王宮広場に出て、大勢の観光客で賑わっていた。

此方には、シュワルツェンベルグ枢機卿を初め、貴族の館がある。

ここの王宮は1000年の歴史を持ち、現在の宮殿は18世紀マリア・テレジアの時代に立てられた。

しかし、門は古いもの(マテイアス門)をそのまま残して、宮殿の白と黒く汚れた石の門とが対照的である。

中に入ると、右手の丸型の建物はマリア・テレジアの礼拝堂で、現在はインフオメーションに使われている。

彼女はプロイセンとの紛争解決を、ここで日夜祈ったのであろう。

宮殿の左手の方はレセプションに使われ、右手の館やは応接に使われている。

一週間前には、クリントン大統領の夫人がこられたとのこと。

宮殿を出て広場の高台より見る川向うの旧市街の眺めが素晴らしい。


聖ビイート大聖堂
の前まで来ると、その大きさに驚かされる。



ビイート大聖堂

この聖堂は14世紀から600年掛かけて建てられたと言われ、ハサードの彫刻が素晴らしく、

大きなステンドグラスのバラ窓と、見上げんばかりの二本の尖塔が伸びたゴシック様式である。

中に入ると、大勢の人で混み合い、大きな柱が高い天井に向って樹木の様に伸び

天上で交わる梁へと繋がるゴシック式である。

細長い窓にはミュシャの虹色の窓をはじめ、様々のステンドグラスが輝いていた。


聖堂を出て、黄金の小道に行く。 ここは16世紀、王に囲われて、錬金術師達が妖しげな実験をしていた?



黄金の小道


小道は石畳が敷かれ、大勢の人で混み合い、間口の狭い小さな店が並び、絵や民芸品等の

土産物を売っている。  錬金術師達は、この狭い部屋に閉じ込められ、

夫々、金を初め、何かの研究をしていたのであろう。


この後バスで旧市街広場へ行く、バスを降り市民会館の(スメタナ・ホールがありコンサート等開催される)

前へ来ると、18世紀のオペラの服装をした青年がコンサートのキップを売っている。 

ツアーの誰かが彼と交渉をしていた。 午後からでも見に行くのだろうか? そこを過ぎ、


直ぐに旧市街広場に着く。 広場は小さな石畳にモザイクが描かれ、プラハ人の

細やかな美意識が伝わって来る。 広場の周囲には天文時計塔、旧市役所、二つの高い尖塔を持った

テイ−ン教会、聖ミクラ−シュ教会等があり、何時も市民や観光客で賑わっている。

我々は12時を狙って天文時計塔の下で待ち、一番上の窓を眺めている。

12時の鐘が鳴ると同時に、12使の人形が入れ替わり窓から現われ、一瞬の時めきをあじわう。

 広場の奥には、緑錆吹いた銅像が力強く立っていた。

これがチェコ人の魂とも言われるヤン・フスで、彼は15世紀に宗教改革の先鋒となり

教会の堕落と腐敗に抗議し自説を変えなかった為、カトリックの公会議で

遂に火焙りの刑となった。    哀しい歴史である。



旧市街広場のヤン・フスの銅像


市内観光を終わり、街のレストランで食事をして、午後は自由行動となる。

こちらは、早速、バッテリーの充電用のプラグを買う為、ガイドに百貨店の場所を聞くと1km程

なので歩いて行く事にする。  ホテルで貰った地図を見ながら辿って行くと、容易に着いた。

結構大きい店(テスコ)だった。 入って直ぐに電気製品の売り場を店員に聞くと、

我々の仕事じゃないと、言わんばかりに、イヤーな顔して案内所へ行って呉れと、

言っているようで埒があかない。 日本であれば、売り場ぐらい誰でも知っているがと思うが・・・・
 
しょうがない!  ”郷に入れば郷に従う” か!


 売り場の様子を見ながら、専ら感を働かせ、行ったり来たり、やっとを見つける。

案内所の女性は話しがよく判り、直ぐ教えてくれた。

電気製品売り場に行き、尋ねると、こちらでは扱っていてないと言う。

何処に行けば、いいかと聞くと、家具売り場と言う。

あー!今度は家具売り場か? 家具売り場を探し、尋ねると、そんな物は置いてないと言う。

又、何処に行けば売っているかと聞くと、街の電気器具店でも聞いて呉れと言う。

すっかり、くたびれてしもうた! 折角来たので、ここで人形の土産を買った。

それにしても、民主化後10年が経つと言うのに、接客態度もイマイチ。

チェコ人はスラブ民族であるが、頭の中はドイツ人で東欧の優等生と聞いていたが、

店の品揃えも少なく、種類も限ぎられていて、民主化もこれからの様だ。


この後、ビロード革命で有名なバーツラフ広場に行く事にする。

地図を見ると遠くはなく、歩くこととする。  ぶらぶら行くと電気器具屋が見つかり

そこで聞いてみたが、やっぱり、無かった。

暫らくして、中央分離帯に花の植えられた広い通りに出た。  あっ! これが!

通りの突き当る正面に国立博物館が殿と構えていて、

博物館の前には、聖バーツラフの騎馬像(ボヘミヤ国の初代の王)が立っていた。

この辺りはプラハ1の繁華街で、1968年に民衆が蜂起した民主化運動(プラハの春)に

旧ソ連軍が広場に戦車で乗り入れ、群集を弾圧した。

その時、若き学生が死の抗議で亡くなっていった場所で、その後1989年には、

ポーランド、ハンガリーの民主化に刺激され、学生や知識人を中心とした群衆が集まり

デモや集会を繰り返し、あっと言う間に、旧体制が崩れて行った。

その後、最初の大統領は、長い獄中から開放され、日本にも訪れた事のあるハベル氏となる。

血を流さなかった事で、ビロード革命と呼ばれ、新市街の歴史的舞台となっている。



広場の奥のカフェで休憩する。 店も人が多く、この辺りは何時も賑わうとの事。

少し早いが、博物館前の地下鉄でホテルに帰ることにする。

ホテルに着くと添乗員のOさんも帰っていて、こちらの顔を見ると、”何処へ行かれました”

と聞かれ、バッテリーの充電の差込プラグを買いに行った話しをすると、

”私持っているかも?”と言って、部屋から持って来てくれた。

地獄で仏とはこの事か! ありがたや! 旅行中のビデオも、撮れないと諦めていたが、・・・

彼女はカメラは持っていないが、”お客さんから聞かれたことがあったので、

小さい物だし持つようにしてます”とのこと、チェコの百貨店員との落差を感じ、

彼女の細やかな配慮に感謝するばかり。

チェコの皆さんは社会主義が永がかった為、習慣がなかなか抜けないのであろうが、

少しは彼女に近づいて貰いたいものである。






第3日 コノピシュチェ城(ボヘミヤ)


今朝はすっかり天気が良くなり、今日の予定はコノピシュチェ城を見学し、

その後、バスにてウイ−ンへの310kmの行程となる。

プラハより南にあるボヘミヤ地方へ晩秋の道を一時間程走り、小高い山を上ると黄葉の

森の中にコノピシュチェ城はあった。



コノピシュチェ城


この城は以前ボヘミヤの貴族の城であったが、オーストリア皇太子フェルデイナント

譲り受け居城としていた。

 フェルディナント皇太子はフランツ・ヨーゼフ皇帝の甥であったが、ルドルフ皇太子の自殺から抜擢された。
  しかし、1914年サラエボでオーストリアの軍事訓練を観閲中に、セルビヤの民族主義者に暗殺された。
これが動機となり、第1次対戦が始まる事となる。

城は尖塔を持った三階建で、中に入るとハプスブルグ・ロートリンゲン家の

一族の系図が掲げられていて、階段を上がると、いきなり大きな鹿の首が壁に飾られており

辺りは鹿の首や鳥の剥製で埋められ、虎や熊まで毛皮となり、遂に象の足まで飾ってあった。

欧米の貴族は盛んに狩猟を好んだが彼もその一人であったのであろう。

日本でもこの時代、貴族達は狩をしていた。 徳川慶喜はアフリカまで猛獣狩りに行っている。

日本には欧米と違い人間と自然は一体と言う思想があり、殺生はしない方が良いとされており、

庶民達はあまり、しなかった様だが、勿論、暇も金も無かったのであろう。

今日では、自然保護は世界的な常識になりつつあるが、イギリスなどは

未だに狐狩りをしている。 人の価値観を変える名案は?


奥の部屋は中世の武具の博物館で甲冑、鉄砲、サーベルなどが展示され、日本で言えば

松代の真田氏宝物館の武具コレクションに匹敵するぐらいである。

彼は武具のコレクターでもあったよう。


公園のレストランで食事を済ませ、一路ウイ−ンへ突っ走る。

皆、疲れたのかあちこちで寝入っているスース−グーグー、日も落ちた頃、ウイ−ンに到着。

オペラハウスの前のビルの地下レストランでウインナ−シュニッツェル(仔牛を薄く叩いたフライ)

とスパゲッテイーと野菜のサラダで腹を満たし、ホテル(HOTEL・BOSEI)に到着

ホテルは四階建で市の南外れシェンブルーン宮の近くにあり、周囲は運動施設がある

静かな環境である。   今夜はこちらで御休み!



第4日 ウイ−ン市内


朝、目が醒め、外を見ると今日も快晴、静かな朝明けである。 

前はゴルフ場で、烏が沢山空を舞っている。 朝食を済まし、外に出ると肌寒い11度だった。

早々とバスが到着し市内観光へ出発、ホテルを出た傍の運動施設にMATUMAE・BUDO・CENTER

の看板があり、日本人が道場を開いている。 異国で、この様な同胞を見ると心がときめく。

 街に入りオペラ座を過ぎた所で、現地ガイドが乗りこむ。

おはようございます! 流暢な日本語! その筈、男性の日本人ガイド。

今日はゆったり説明が聞けそう。  


ウイ−ンは第二次大戦で米国に爆撃を受け10年を経て漸く

復興が済み、現在人口160万人、23区あり、東京世田谷区と同じ広さと言う。


リング(19世紀半ばにウイ−ンの城壁を壊し環状道路に)を右回りに見学する。

この辺りはウイ−ンでも随一の繁華な所で、高級ショップも並ぶ所、並木の黄葉が美しい通りで

グリーンベルトが広く2列に植えられていてパリの様に、その中に丸い広告塔が要所に建っている。。

右側の王宮ガーデンには、ゲーテ、モーツアルト等の銅像が見える。

 その隣はホーフブルグ(新王宮)が連なり、左側には美術史博物館と

自然科学博物館が向かい合い、間の広場には、マリア・テレージア(ハプスブルグ家王妃)の

銅像が聳えている。 その先はギリシャのパルテノン神殿を模した様な国会議事堂があり、

右にはバラ園の国民庭園へと続く。  左には大きい尖塔と小さい尖塔を持った

ネオゴシック様式の市庁舎があり、ウイ−ンの主な建造物が集まっている。

暫らく行き左手に、二本の塔を持ったボテイーフ教会(120年前建設)が見える。

 更に進むと右に赤い色の証券取引所が見がある。

バブル崩壊後、残っている日本の会社は、野村證券だけとのこと、 淋しい事!

ドナウ沿いを走るが、ウイ−ンのドナウは人口の運河で

”美しき青きドナウ”には程遠く、背の高い並木が見えるだけだった。 これも世界ガッカリの一つかな?

正面に丸屋根の天文台が見え、左前方には”映画第三の男”のロケ地プラター公園の

観覧車(ハリーとホリーが出会た)がちらりと覗く。 道は右にカーブして、右側に郵便貯金会館

(オットー・ワ−グナー設計)があり、左にはクリムトとかホフマンのいた応用美術大学がある。

次いで又、市民公園があり、シューベルトの像や黄金色のシュトラウス像も立っていた。

この像は大阪万博の時に貸し出されたそうな。

道を右に曲がるとグリーンベルトの並木の中に、ベートウベンのブロンズ像があり、

この先、内リングから離れ、ベルベデ−レ宮殿へと走る、  バスを降りる。



宮殿の門







ベルベデ−レ宮殿より庭園を望む


宮殿は三階建で上部は以前は謁見用に使用され、下部は王子の夏季の別荘として使用されていた。

現在は上部は19・20世紀美術館となり、下部はバロック美術館となっている。

又、此方では第2次世界大戦の勝者の米英仏ロ外務大臣とオーストリアとで

占領終結のオーストリア条約が結ばれた。 

庭を眺めると、黄葉が広がり、遠くに見える丘はぶどう畑で、ウインナーワインが造られている。

手前、左手に見える黒い尖塔はシュテファン寺院で、金が無くて、一本となったらしい。

庭園の所々に、顔は女性で身体は獅子という大理石の像が置かれている。

羽根を付けた物はギリシャモデルで羽根無しはエジプトモデルという。

何れにしても、豪奢なものである。


次は更にその上のションブルーン宮殿へとバスに乗る。

少し走るとローマのバチカン寺院の様な、丸い屋根(カールス教会)が見える。

更に進むと左手にアールヌーボウ風のガラスのシャレタ建物はオットー・ウアーグナーが造ったという。

彼はウイーンの主要建造物の計画監督官であったらしい。

やがて、街外れの樹で囲まれた道路に入り、樹の繁みが無くなったと思うと、

テレジア・イエローと言われる黄色い巨大な物が見えた。 凄い!! ションブルーン!

意味は”綺麗な泉”という。   あのベルサイュを真似たとはいえ流石と言う感じ。 

小橋を渡り門に向うと、入口に二本のオベリスクのような白い柱の上に鷹らしき鳥が羽ばたき、

ハプスブルグの紋章の双頭の鷹を表しているのであろう?

門から宮殿までの広場は、ベルサイユよりも大きく感じた。 しかし、石畳はアプローチだけで、

他は白ぽい砂地で宮殿のイエローを栄えさす為、光の反射を考えた仕掛けの様に思えた。

今も、晩秋の柔らかい陽射しに、陰影をつけて美しい黄色が栄える。



ションブルーン宮殿


此方はウイーンで一番、来訪者が多いと言われるが、広いためか、そうは感じない。

宮殿の裏へ廻り、庭を通ってバルコニーの前に来ると、結構、人が入っていて、

バルコニーの上には庭を眺める為、雀が止まっている様に人が集っていた。

こうしてバルコニーから見ると、その敷地の莫大さに驚かされる。

正面には丘があり、その先が見えない為、先の広がりの大きさを想像させる。

丘は緑の芝が植えられ、戦勝記念のグロリエッテ・アーケイドが建てられている。

その前にはニンフアの泉がある。

庭園の左ゾーンは装飾的な庭園として造られ、右ゾーンは科学的な視点から

動植物園や椰子の温室等が設けられているという。 しかい時間がなく

早々に戻る事になる。  落葉しかけた大きなマロニエの並木道を通り出口に来ると

白いリムジンが止まり、中からウエデイング・ドレスを着た花嫁がエスコートされて出てきた。

良く見ると日本人、左袖の建物で結婚式をするそうだ。 驚き! こんな所でもやるのよ!

ションブルーンを見終わり、棟の長さ、庭園の大きさ、その豪壮さ

何れをも、ベルサイユを凌ぐ意気込みがよく解る。


この後、市内に戻り旧市庁舎のレストランに入る。

前にはオーストリア国旗が掲げられ、部屋の壁にはフランツ・ヨーゼフを初め

要人の写真が掛けられていた。  此方で食事をして、午後は夫々自由行動となる。


我々は先ず、オペラ劇場に行き、観賞は無理なので、見学が出来るか確認すると、

2時から日本語の案内があるそうで、それまで映画第三の男で有名なカフェ・モーツアルト

行くことにする。 近くにあるらしく、探すと丁度、劇場の前にあった。

店は結構人がいた。  ウイーン独特の高い天井からシャンデリヤが下がり、

円熟した良きウイーンを感じさせる。 細長い店内の左側にはケーキが並べられ、

やはり映画と同じ様に新聞ラックから新聞をとり、読んでいる客がいた。

当時、占領下の暗いウイーンの雰囲気と違い、店は明るい感じだった。

黒い蝶ネクタイの中年のウエーターに、コーヒー(アインシュペンナー)を貰い、

くつろいでいると、♪ カフェ・モーツアルト・ワルツ♪が聞こえてくる様 ♪・・・・・

そとの人達をぼんやり眺めていたら、何時の間にか時間となり店を出ることになる。


オペラ座に行くと、20人程の日本人が寄っていた。 我々のツアーの人はいなかった。

女性の案内者が現われ、流暢な日本語で案内が始まる。 

この劇場は1862年にルネサンス様式で造られたが、第2時大戦の空襲で全焼し、

10年かかり復元された。 建てた当時、劇場の世間の評判が悪く、設計者のファン・ニュールは

それを苦にして自殺したそうな。  入口を入るとホール、女神の描かれた大階段等、

宮殿を見るような豪華さである。 観客席ホールは赤とアイボリーで色分けされ華麗さを出している。

客席は1759席と立見席で構成され、現在1000人のスタッフで年300回の公演を支えている。

立見席は200ー300円程度で当日券(並ぶ必要))で見られる。

 因みに人気のある出し物は2・3時間前に並ばないと駄目らしい、C・ドミンゴ等は徹夜で並ぶ。

本日は7時開演で4時に来ないとだめ!

本日はカルメンを予定していて、セビイーリヤの煙草工場の舞台が立体的に造られていた。

外の廊下にはモーツアルトやハイドン、カラヤンなど有名な作曲家や音楽家の胸像が飾られていた。

又、”御茶の部屋”と呼ばれる皇帝専用であった休憩室もあり、

そこを出るとロイヤルボックスに続いている。 故小淵首相が此方で見られたとか。

上の階のギャラリーには歴代の名優の絵画が掛かかっていた。


オペラ劇場を出てぶらり王宮公園に入ると、樹々が黄葉し広場には

大きなモーツアルトの彫像があった。  何と像の多い街である。

ホーフブルグ(王宮)の前まで来ると午前中とは打って変わり大勢の人が来ていた。

先ず前のマリア・テレーザ広場行く。  

広場の中央にマリアテレーザの銅像が大臣や将軍の騎馬像を従え玉座に座り

見上げんばかり、流石にオーストリア帝国を最高に輝かした王妃だけに市民の信奉ぶりが覗える。



マリヤ・テレーザの銅像


美術史博物館に入ると大勢の人でごった返し、聞いてみると今日は独立記念日

公共の施設は無料で開放していると言われる。  これはついてる!

館内は床には色取り取りの大理石が敷かれ、

磨き上げられた大理石の柱に囲まれた大階段の天上には芸術礼賛の絵が描かれて入る。

我々日本人は木や土の建築物や侘び寂の文化で育っている為、こうした石造りの建物、それも

その時々の選り優られた材料と、最高の技術と最高の芸術性をもって造くられた

建造物に接すると、その豪壮さと、重厚さと、豪華さに圧倒される。

しかしこれだけ混んでいては、ちょっと無理の様、諦めて、王宮の方に行くことにする。


リング道路を超え王宮の新門(世界大戦の戦没者の慰霊碑)を潜り、英雄広場に入ると

王宮前で軍人も混じった集会が開かれていて、ドイツ語の演説。 イッヒ! イッヒ!

さっぱり解らなーい??  歓声も上がっている。



新王宮とサボイア家王子の騎馬像

王宮は20世紀初めに造られ、大きく湾曲したファサードで2階には円柱が並び美しい姿である。

こちらは国立図書館の一部と武器及び古典楽器のコレクションがあり、

エフェソス(トルコ)の考古博物館にもなっている。

新王宮の前を通り、更に門を潜ると中庭に出る。 

そこから、全部も見られないので皇室博物館に行くことにする。

皇帝礼拝堂(ウイーン少年合唱団参加のミサを行う)を横に見て皇帝博物館に入ると、

中は絢爛豪華な宝物の数々、中でも異色は神聖ローマ帝国の王冠、オーストリア皇帝の冠、

金の羊毛騎士団の衣装、その他、錫杖、双頭の鷹を金紗で織りこんだ衣装、法衣等々

豪華なものばかり、王家の権力が無言の威厳を放つ!

すっかり時間も過ぎ外に出ると、英雄広場の演説は終わり、ムードは変わり、

ラウドスピーカーから快い音楽が♪♪流れていて夕暮れになっていた。

帰りはオペラ座前より地下鉄(U−BAHN)にてホテルにかえる。



ハンガリーへ