歴史散歩
興津・由比・甲斐・信濃
08.12.29〜12.30
訪問先
清見寺・薩た峠・恵林寺・向嶽寺・石和・甲斐善光寺・大泉寺
武田神社・武田八幡神社・願誓寺・諏訪大社上社・諏訪大社下社
昨年、暮れ休みに息子から誘われ、東海道から中央道を回り、駿河の興津と由比、甲斐の塩山・石和・甲府・韮山
それに信濃の諏訪と歴史ゆかりの地を歩いてきた。 暮れのこととて宿を探したが、何処もいっぱいで石和温泉で、
やっと一部屋見つかり出かけることができた。 朝7時に出発、東名高速は年末でも上りは逆行のせいか比較的すいていた。
しかし、下りは数珠つなぎで運転者は辛い道。 牧之原SAで休憩し、更に走り日本坂トンネルを抜けると
低い山の峰に真っ白に雪をかぶった富士山が頭を覗かす。 やはり雪をかぶった姿は富士らしい。
やがて富士は見えなくなり、静岡で息子と合流、最初の目的地、興津の清見寺へと向かう。
清見寺は国道1号線を40分ほど走ると左手東海道線のすぐ上の崖の中腹にあった。
清見寺
清月寺 門
国道1号線沿いに総門があり東海道線を挟んで線路越しに寺院はあった。
門の階段をのばると大きな額が頭上に掛かり、「東海名区」と書かれていた。
これは秀吉の朝鮮出兵以来、国交を断絶していた朝鮮と徳川幕府が国交回復し
朝鮮通信使を迎えた江戸への途中、清見寺に逗留した時に書き残していった書を額に
したものだそうで、背後に急峻な山を控え前には白浜の海が広がり、素晴らしい
眺めの仙境であることを褒め称えたものだ。 門をくぐると前は東海道線が
遮り左手に線路を跨ぐ陸橋が渡され、そこを渡ると山門が構えている。
当時は海向きに参道が続いて白浜も見え、正面に三保の松原、
左に伊豆の山々という眺めだったのであろう。
総門の「東海名区」の額
山門 仏殿
山門は1651年に作られ左甚五郎の弟子の彫刻で飾られている。
丹塗りの柱は風雨にさらされ、かなり風化している。 入ると仏殿が座り、江戸後期に建てられた禅寺式ものだ。
清見寺は奈良時代に創建された東海道の名刹と言われ、臨済宗の寺で古くは足利尊氏が帰依して保護をし、
その後、足利氏の流れを汲む今川氏が、この駿河を治め守護してきた。 室町時代には将軍足利義教などを向かえ
隆盛を誇ったそうだ。 この時代には雪舟や俳人の宗長なども逗留したと言われ、江戸時代には徳川家一門の
帰依を受け伽藍など改修がなされて栄えて来た。 近代に至っても明治、大正両天皇はじめ藤村や
漱石など著名人の訪問が後を絶えなかったと言われる。
寺の地形が山からすぐ海に迫る天然の要害としての構えから、古くから争乱の場となり、
永禄年の武田氏の駿河への進攻や、徳川家康の天正10年の甲州攻めなどで、こちらに
陣が置かれた。 天正18年の豊臣秀吉、韮山攻めの際には梵鐘を陣鐘に用いた。
足利尊氏像
仏殿には釈迦、迦葉、阿難の3像が祭られていて、前には足利尊氏の木像が安置されている。
深閑とした場内で、像がこちらに微笑みかけて来てくれる。 仏殿の裏に回ると五百羅漢が
裏山に無造作に立ち、その中に武田信玄軍の船乗りの墓石が古色蒼然としてあった。
向井兵庫頭政綱(武田信玄軍の船乗り)の墓石
五百羅漢
方丈の中は赤い敷物が敷き詰められ鴨居の上には、明治維新に幕府軍・咸臨丸が清水港で新政府軍艦と
戦った折の戦死者の遺影が掛けられている。 方丈の西の間奥には二畳ほどの小さな陽当りの悪い部屋があり
家康が幼少の頃、今川氏の人質ととして、こちらで手習いを受けたという。 冬場は寒そうな部屋である。
方丈の大玄関は家康の姫君が寄贈されたもので、その天井材に旧清見関の古材が使用されていて、
鎌倉時代の初期、「梶原景時の変」で家臣団の不満から一族が清見関で
皆殺しにされたと言う悲しい話である。
その時の血痕が今も残っていると言うが、現在では確認ができない。
方丈の表には家康お手植えの臥龍梅や、清水次郎長、榎本武楊が建てた咸臨丸碑も残ってる。
大方丈
咸臨丸 戦没者遺影
方丈の大玄関の血染めの天井、微かにシミはあるが血痕かは定かでない。
方丈前の家康お手植えの臥龍梅
方丈の右手裏に慶応3年に明治天皇の行幸の際、建てられた書院がある。
大きい書院座敷の奥左手に玉座が置かれ当時の様子が窺がわれる。
書院の間 玉座
床の間には当時の茶壷など美術品が飾られて、徳川の葵の紋も見える。
帰りがけ前庭で、山下清画家が、こちらからの景色を描いたそうで、前を走る鉄道を見て
「寺は古いが上等に見える。 寺の前庭を東海道線が走っているのはどういうわけか、
お寺より汽車の方が大事で、お寺の人はそんしたな」と皮肉な言葉が残されている。
今では建物が多くたち昔の風景は一変しているのであろう。
清見寺を出て1号線を経て由比の薩た峠へ向かう。 広重が浮世絵を描いた所で、東海道の興津と
由比の中間にあり難所としても有名な場所である。 国道を走り少し行き過ぎて寺尾より旧東海道へ入る。
急斜面の山稜を横に走る昔の細い道を走ると由比宿の表示が見える。 宿らしい街並みが残っていて
歩いてみたくなる所だが、道が狭くて車が止めれず、残念ながら横目に走る。 やがて倉沢宿に入る。
「間の宿」といわれ本陣跡が見えて来る。 徳川幕府が宿と宿との間に設けた休憩の為の宿で、
泊まりは禁じられていたそうだ。 狭い道を走り西倉沢宿の端に歴史的縁の場所「望嶽亭」がある。
こちらに寄ろうとしたが、車が留めれず、困っていると、前に腰を下ろし話し込んでいた御婆ちゃん達が
「車が留めれないから、先に薩た峠へ行って来なさい」と教えてくれた。
間の宿・望嶽亭と薩た峠
「望嶽亭」
それではと前を見ると道は更に狭く急な登り道となり両側はみかん畑で直ぐ手の届くところに沢山の
みかんがなっている。 どうやらこちらは難所といわれるだけに厳しく農道と兼用の道のようで、
怖れていた対向車が前から来た。 どう交わすか、もたついていると先方が巧く交わして呉れた。
合図をすると、地元の農家の人の車だった。 目的地の峠へは更に、みかんに覆われた道を進む。
視界が開け10台程度の駐車のできる広場が見えた。 こちらが薩た峠で、あの広重が浮世絵の富士を
描いた場所である。 車を止めると、おじさんが近寄ってきて、「帰りに寄って下さい」とチラシを呉れた。
こちらはシーズンには、きっと車を止めることは不可能で車で来るのは難しかろう。
薩た峠の碑
みかん畑の山越しに見る富士山が幸いくっきりと見えた。 広重がこちらの展望に惹かれ描く
気持ちに掻き立てられたのが成る程と頷ける。 実際には、ここから一段降りた所だそうで、
富士三十六景も東海道五十三次も、今日の風景より崖の嶮しさや波頭の描き等、実にダイナミックだ。
薩た峠より見る富士山
富士の風景を堪能し、来た道を戻って「望嶽亭」へと進む。 この道は昔、波打ち際を走っていた為
波にさらわれる危険性があり、現在の山側への迂回コースとなったそうだ。 やがて到着し「望嶽亭」の
少し東の海側にあるコイン駐車場に車を止める。 無人の駐車場で何処に金を入れるかと思いきや
蛇腹のチューブがあって、その横っ腹に硬貨の入れ口が切ってあった。 直ぐには見つからない。
お婆ちゃん達は、まだ話し込んでいたが、望嶽亭に入ろうとすると、その内の一人のお婆ちゃんが
来て、「いらっしゃい」と言われる。 この人が望嶽亭の人の様である。 前日、電話で連絡した
ものですがと告げると、態々、名古屋からお出でと、快く迎えてくれた。
「望嶽亭・藤屋」は江戸時代の西倉沢宿の一番西にある茶店で、当時は
磯料理でアワビやサザエのつぼ焼きを名物として、離れより見る富士山の眺望がよいことから
「望嶽亭」と呼ばれたそうだ。 2006年にNHKTV「街道てくてく旅」でも取り上げられている。
「望嶽亭」の表札
中へ入ると茶壷や絵や絵はがき写真などが土間を上がった部屋に並べられていて
お婆さんが説明してくれる。 現在は24代目だそうで、お婆さんは23代目の奥さんだそうだ。
既に、ご主人(松永宝蔵氏)は亡くなられたそうで、ご主人の描かれた絵やはがき等を見せてもらう。
昔は脇本陣・お立場(たてば)・茶亭・網元などの経営まで広げ隆盛だったそうだ。
茶壷や写真、東海道読物等の展示品
奥に案内され突き当りを右手に廊下を進むと、往時の大きな黒光りの梁などが見え突き当りに、
土造りの重厚な扉の奥の蔵座敷に案内される。 正面に掛け軸が掛かり、窓を見て、あっ!この窓は
NHK・TVの「街道てくてく旅」で映していたものだと直ぐ分かった。 Jリーグの元日本代表岩本選手が
この窓から外を眺めていた・・・ 漆喰で塗られたアーチ型の窓で、そこに障子風の建具が入ると言う
ユニークなデザインである。 部屋には昔、文人墨客の訪れが多かったらしく書や俳句等が残されていて、
中でも山岡鉄舟の残していったピストルや昭和天皇・皇后両陛下が使われた寝具、
朝鮮通信使がお礼に置いていった「CHINA」銘の陶磁器皿などがあった。
まー お座りくださいと座布団を出され、お金も払っていないのに、お茶まで戴く。
お婆さんが窓側に立たれると、やおら、お時間があれば望嶽亭の昔話をお話しますと言われ説明を聞く。
山岡鉄舟を救った藤屋・望嶽亭
昔は今よりも大きい規模で手広くしていましたが世の移り変わりで現在の様になりました。
これからは主人が書き残した藤屋・二十代当主、松永七郎平の時代で当時は明治維新前の国全体が
尊王攘夷か佐幕開国かで、世は騒然としていて「間の宿」でも来客への神経を使う時代であったと言われる。
当時、幕臣であった勝海舟の命を受けた山岡鉄舟が、駿府伝馬町に駐留する官軍の参謀・西郷隆盛との
江戸城無血開城の下談判をすべく駿府に向かう途中、由比に来て海岸沿いの道を避け、暗い山道を選び
進んだが、運悪く警戒していた官軍に見つかり、暗闇の中を逃げて薩た峠の西の端にあった当家の戸をたたく。
官軍に悟られないよう小さな声で「たのもう」と叫ぶ、家のものが様子をうかががった瞬間、男が入ってきて
名も名のらず事情を説明(徳川慶喜の名代として駿府の大総監府へ行く)する。 当時の主人・松永七郎平は
商売柄、時代を読む目も持ち、多くの人物と出会いもあって、事情を察し、直ぐ蔵座敷へ案内する。
蔵屋敷の土蔵扉を閉め松永七郎平は改めて事情を確認し、陸路は危ないと、魚師の装束に変装させ
清水の次郎長宛てに手紙を書き、駿府まで海路届ける様依頼した。 次郎長は子供の頃、由比に住んでいて
藤屋の主人の世話に、よくなっていたと言う。 「官軍だ」と言う声に、座敷の隅にある隠し階段より
山岡鉄舟を案内し船着場へ案内し別れた。 松永七郎平が家に戻ると、官軍が「戸をあけろ」と声があり
松永七郎平は主人がここに居ては拙いと判断、後を家人に任かし、隠し階段より脱出する。
その後、「主人はいるか」と官軍が入って来て、息子が応対「商用で出ている」と告げると、使用人全員
を集めさせ、「武士が居るはずだ」と刀で脅すが、知らないと答えると、官軍兵はいたるところを探し
襖や隠れていそうな場所を刀や槍で突きさしていたが見つからず、帰りに小判を置いて出て行ったと言う。
最後に御婆さんが、御主人が書き残した巻物を見せてくれた。
白陰禅師の残した書の額の前で説明をするお婆さん
松永宝蔵氏(お婆さんのご主人)
蔵座敷 山岡鉄舟の残していったフランス製のピストルと山岡鉄舟の写真
NHK・TV映していた「街道てくてく旅で、サッカーの元日本代表岩本選手が覗いていた窓
この窓の下に張られた金網も薩軍によって破られていた。
戸の左隅上にある薩軍の刀疵跡
部屋の隅にある隠し階段
帰りがけ、お婆さんからご主人の描かれた絵葉書や蜜柑まで、土産にもらってしまった。
お婆さんは、歳が84歳だそうで、ご主人の残された遺志を後世に伝えることが生きがいに
されているように思えた。 最後に申し訳なく志をおいてお暇をする。
お婆さん何時までもお元気で!
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