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歴史散歩U
塩山・恵林寺・向嶽寺、甲斐・善光寺
08.12.29〜30
藤屋を出て1号線を通って富士市へ富士市から139号線を北上、やがて富士山が右手前方に
笠雲を乗せて見えてくる。 笠雲は天気がくずづれると、よく言われる。
西から低気圧が近づいているのかも知れない。 明日の甲府めぐりは大丈夫かな〜
しかし、こんな富士が見られるのも嬉しいものである。 土地の人にとっては何ってこともないのだろうが、
旅での雨は気分が半減するするから。 今日は最高の天気に恵まれたのに・・・・
更に走って田貫湖当たりを通過。
139号線より見る富士山
富士宮市
田貫湖付近
朝霧高原に入る。このあたりは広々と富士の山麓を代表するかの様な風景が続く。
やがて本栖湖で道路が曲がり林に入る。 続いて精進湖、この辺りに来ると車や人影も多い。
139号線より358線へと入り山道を走って精進湖トンネルを貫けると、又、山道のワインディングロード。
くねくねと走って甲府市に入る。 140号線を石和温泉から甲斐の鎌倉と呼ばれる塩山へと走る。
やはり、こちらは丘陵地帯、桃畑が多く、もぶどう狩りの農場も道沿いに何軒も見かける。
シーズンには、ぶどう狩りや桃狩りのお客で賑わいを見せるのであろう。
塩山に入り恵林寺の案内を見つけ、真直ぐな道を辿ると正面に恵林寺が見えた。
恵 林 寺
恵林寺は臨済宗妙心寺派の古刹で1330年夢窓国師によって開かれた。 応仁の乱で荒廃するが、
武田信玄によって菩提寺と定められて復興され、美濃から快川紹喜を迎え入れ領地も寄進され栄える。
甲斐の名刹であるだけに、流石に時代をへてきた佇まいである。
黒門より参道を上がると丹塗りの四脚門(赤門)がある。 この赤門は1582年織田信長に攻められ
全山焼かれたが、徳川家康によって1600年に再建された。 国の重要文化財に指定されている。
家康は他国を懐柔させる為か、よく神社仏閣に援助をしているのを見かける。
三門は信玄死後、天目山の戦いで敗れた六角義弼(近江の大名)が、この寺に逃げ込み、
引渡しを要求した織田信長軍に快川和尚が拒否した為、和尚はじめ100人の僧を三門に
閉じ込め火を放ったと言う。 火が燃え上がる三門の上で快川和尚は
有名な遺偈 「安禅は必ずしも山水を用いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と、
となえ亡くなって行ったと言う。 武田信玄が仏への信仰も厚く寺を重視したのに対し
信長は各地の寺を焼き尽くし、これまでせずともと思うが、真反対の行い。
彼は世界がインドまでと思っていたが、その先にも脅威の文化を持つ
国々があることを知って、天下統一を急いだのかも知れない。
黒門
黒門より見る参道、
重文・四脚門
三門
三門柱に快川和尚の遺偈 「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼」が白字で掛かっていて、
屋根棟には武田氏の家紋・金の四つ割菱が輝いている。 門の先には開山堂がみえる。
前には玉砂利の庭があり静寂を見せてくれる。
堂内には夢窓国師、快川和尚、末宗和尚の三像が安置されていると言われるが、
薄暗くて確かめられない。 中央部で金色の眼が光っているのを微かに確認できた。
末宗和尚は三門焼き討ちのとき、那須に逃げて難を逃れたそうだ。
後に家康に恵林寺再建を命じられた僧である。
家康による伽藍再建、その後、甲府藩主である柳沢吉保が信玄の法要を勤め、
寺内の修復を行ったと言われる。
開山堂
庫裡
庫裏玄関を入ると、大きな「風林火山」の屏風があり、そこを通り回り廊下を進むと
名勝指定を受けている夢窓国師の造った庭園がある。 上段は枯山水、下段は心字池を中心に
雄大な規模の庭園に仕上げている。 国師はこの後、京都の天竜寺や苔寺の作庭をしている。
こちらは670年前の名園と言われるが、やはり冬場、庭の池は氷が張り秋の落葉を氷に
閉じ込め、久しぶりに見る冬の景色である。 中央に枝垂桜と思われる枝がさがり
春には躑躅の刈り込みなども色をつけ、艶やかな趣をつくるのであろう。
玄関
屏風・南條大亨老大師染筆による。
回廊より見る庭園
大戦中の1943.4年ごろ、こちらでは小学生150人が学童疎開で寄宿生活を送っていた。
夜になるとホームシックで泣き出す者がいたそうだ。 食料も充分でなく、この廊下には
今では何も見えないが、児童の涙が浸み込んでいることであろう。
庭園の刈り込み
本堂よりり鶯張り廊下を渡って明王殿へと進む。 鴬張りは静かに歩こうと思うほど
きゅーきゅーと音が鳴る。 曲者の侵入を防ぐための「忍び返し」とも呼ぶそうだ。
床がすばらしく光っていて修業僧が何時も磨いているのであろう。 禅寺では
すべての仕務が禅行というから。
鴬張り廊下
明王殿・須弥壇 不動明王
明王殿には須弥壇に不動明王が祀られ、武田信玄が生前に比叡山より大僧正の位を受けた時、仏師を招き
対面して彫らせた等身大の不動明王像が安置されている。 信玄31才の時に大僧正とは驚き!
黒光りした身体に赤く光る眼、悪も聖も寄せつけない形相である。
垂れ幕には武田の四つ割菱の家紋がつけられている。
信玄は戦いの前には領地内の各寺院に祈願したそうだが、この不動明王を見ていると
信玄の明王への祈りが深かったのか、鬼気迫るものが伝わってくる。
不動明王
境内の一番奥には柵で囲まれた中に信玄の墓所がある。 彼は1673年、53歳で亡くなった。
彼の死は病気によるものか狙撃の傷によるものと言う話もあるが、やはり、こちらでは病気と言われている。
武田氏家臣の墓も背後に約70基があり、毎年、命日には供養が行われるそうだ。
武田信玄公墓所
武田氏家臣団の墓石
江戸中期、徳川将軍5代綱吉の時、側近政治の大老格であった柳沢吉保(赤穂事件の黒幕で有名)は
天下泰平の時代、異例の出世をして甲斐甲府15万石の国主として優れた業績を残した、
山梨では武田信玄に次ぐ人物に指定され廟所も市の文化財としてこちらに祀られている。
綱吉没後は幕内は一変、綱吉側近は凋落して行ったが、彼は即座に職を辞し家督も
長男・吉里に継ぎ隠遁、吉里は移封されたものの15万石の知行は減らされなかった
と言うから、彼の優れた先見性と引き際の良さが見えてくる。
柳沢吉保の墓塔、左は正室・定子の墓塔
柳沢吉保・廟所
仏舎利塔
信玄は川中島の合戦をはじめ数々の戦績を残し、政治的にも業績を上げ、周囲の戦国武将から、
怖れられたが、時の運、吾にみかたせず、道半ばで人生を終えることとなった。
武田信玄は、色々な名言を残しているが、次の訓言に一番惹かれる。
「凡そ軍勝五分を以って上と為し、七分を中となし、十分を以って下と為す。
その故は、五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分は驕りをするが故。
たとえ戦に十分の勝を得るとも、驕りを生ずれば次には必ず敗るるものなり。
すべて戦に限らず世の中のことこの心がけ肝要なり。」
勝者への驕りを戒めたものであるが、人間の欲望に対する戒めでもあり、
現代人にとっても充分うったえて来る人生訓であり、自分にとっても大事な言葉である。
向 嶽 寺
向嶽寺は恵林寺よりJRの塩山駅に向かって進み駅の手前、塩の山南麓にある。
外門を通り両側を杉並木の参道が真直ぐ伸び、正面に中門と呼ばれるれる門がある。
向嶽寺は臨済宗・向嶽寺派の大本山で、開山は抜隊得勝(恵光大円禅師)が1380年に武田信成
(信玄の8代前の領主)から土地の寄進を受け創建された。 寺名は「富士山に向かう寺」から向嶽寺と言う。
禅師の門下には俊英が出て武田家歴代、特に信玄の厚い保護を受けて栄えた。
中門はこの寺の国指定・重要文化財である。 向嶽寺は創建以来、度々の火災に見舞われ
山内の殆どの伽藍を消失したが、この中門が唯一残って、 現在、本殿を改修中であった。
尚、こちらで所蔵する絹本達磨図(八方にらみの達磨)は国宝に指定されている。
国重文・中門
中門は室町時代の禅宗様式の四脚門で檜皮葺きの装飾のない素朴な切妻屋根の簡素な造りである。
門に続く漆喰塗りの築地塀は、この付近の岩塩から「にがり」をとり漆喰に混ぜて築地を強化したと言われている。
主要建物が南北一直線上に配置されている伽藍の配置で見透かしを避けるために建てられたと言われている。
古い石仏と伽藍
尚、向嶽寺は武田勝頼(信玄の側室の子)が1582年織田信長の侵攻に破れ、嫡子・信勝に元服の時
武田家伝来の楯無鎧を着せなかったことを悔やみ陣中で着せたが、時遅く天目山で果てることとなる。
鎧は家臣の田辺左衛門に託され、この寺に埋められていたが、徳川家康が入国した時、
掘り出して塩山の菅田天神社に納め、また大和村に勝頼、信勝、正室の北条夫人の
菩提を祀る為、景徳院を建てている。
名門を誇った甲斐・武田氏も、これで450年の歴史を閉じた。
宿の前の通り
今日の日程は、ここで終わり宿舎である石和温泉へ、宿は笛吹川より引き込んだ水路を
挟んだ桜並木の道沿いにあった。
ホテルくにたち
宿は笛吹川の清流の庭をロの字に建物が囲み、庭を眺められる様に造られている。
規模は大きくないが落ちついた佇まいである。 部屋は3Fの奥まった所にとってくれていた。
バルコニーは和風の坪庭が造られていた。 早速、ひと風呂浴びて出てくると、係りの人が
”お飲み物は何になさいますか”と言うので、ビールをもらい、庭を眺めて、さっぱり爽やか!!
すっかりくつろいで・・・・ 本日はこれにてお仕舞い。
宿の庭
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