歴史散歩V
甲府・韮崎・諏訪
08.12・30
昨夜は部屋での食事で、感じのよい女性の接待を受けたが、今朝は食堂での
ハーフ・バイキング、血糖値を無視し、つい食べ過ぎる。 これでは、身体もよくなる筈はない。
今日は甲斐・善光寺へと向かう。 温泉街を通り抜け140号線を西へ走ると5・6分で到着する。
朝が早いか、未だ人影は見えない。 低い石垣がつまれた中に、手入れの行き届いた
形のよい赤松が植えられていて、やはり禅寺とは構えが違う。
丹塗りと青銅の屋根を持った破風が正面を向き、出雲大社と同じ向きである。
長野の善光寺に比べると、心なしか小さく見える。
甲斐・善光寺
こちらの善光寺は浄土宗、正式には定額山浄智院・善光寺と称し長野をはじめとする善光寺とは区別
していると言う。 開基は1558年、武田信玄が川中島の合戦の時、信濃善光寺の消失を恐れて
信濃善光寺の鏡空を迎え本尊如来像や諸仏事宝類をこちらに移したと言う。
川中島の合戦は都合5回戦っているが、2回目の合戦で戦火が善光寺に及んだため移されたそうだ。
もし、信長であればどう行動したであろうか、歴史に、「たら・れば」はないが興味深い。
その後、1754年に本堂は火災で焼失し、現在の建物は1796年に再建されたものと言う。
武田氏滅亡後、本尊は織田、徳川、豊臣氏と渡り、1598年信濃へ戻されたと言う。
従って、こちらでは前立仏を本尊とし現在に至ってると言う。
* 前立佛は阿弥陀三尊像で1195年尾張の僧・定尊が信濃の前立佛として
造ったもので重要文化財に指定されている。
本堂
本堂・須弥壇
本堂を参拝し、本堂の天井には二頭の龍が描かれていて、”鳴き龍”と呼ばれている。
中陣の左手に足マークがあり、そこから手を叩くと龍の鳴き声と言って、多重反響で音が響き渡る。
日光東照宮の薬師堂にも作家は違うが、こちらより小さい”鳴き龍”がある。
この後、「戒壇廻り」を行う。 本堂左手より奥へ行くと武田軍の使った陣太鼓がある。
残念ながら堂内は撮影禁止でご披露はできないが。
戒壇廻りはご本尊の真っ暗な床下に入り鉄の鍵に触れば本尊との結縁ができると言われている。
本堂の裏に回って行くと、入り口にリックを背負った青年がいた。
”もう済みましたか”と尋ねると、”いや、真っ暗でチョッと怖くて出てきました”と言う。
こちらは、以前に信濃の善光寺で経験があったので、” 一緒に行かれますか”と言うと、
”お願いします”とついて来た。入って行くと直ぐ壁にぶつかり、信濃とはコースの形が違う様で
面食らう。 初めの勢いは何処へやら、壁を手でこすり、こすり、やっと鍵に触る。
ガチャ、ガチャと音がする。 これでホッとして、”こちらです”と言うと、青年も声の方へ。
ガチャ、ガチャ! ありました!と叫ぶ。
外に出て、お互いが顔を見合わせ ホッ!と、満足の笑顔。 よかったね!
大 泉 寺
甲府・古府中町
善光寺の後、北西に位置する大泉寺に、「愛宕山こどもの国」の前を通り、元紺屋を右折すると間もなく着いた。
境内には妙な動物など寺には凡そ不似合いなオブジェ風の像が立ち、また対照的な枯山水の砂模様もある。
寺は1521年、武田信虎が菩提寺として開基した曹洞宗の禅寺ある。 もとは真言宗の大川寺であったが
天桂禅長を向かえて曹洞宗の寺院として開山した。 本尊は釈迦如来という。
武田氏の庇護を受けて栄えたが、その後も 浅野家、柳沢家の帰依により栄えた。
こちらには信虎、信玄、勝頼の3代の墓がある。
武田氏の祈願所
参道の庭にある珍しい枯山水、真ん中に柑橘が
本堂の奥に入って行くと御霊殿と書かれた門があり、丁度、お坊さんが鍵を開けていた。
尋ねてみると、どうぞ入って下さいと言われるので入ると、左奥突き当たりに
小さな苔むした輪塔があり、これは曽我兄弟の墓です、と言う。 その右手、丁度
御霊殿の真後に3基の輪塔があった。
真ん中が信虎・右が信玄、左が勝頼と三代の墓です、と教えてくれた。
御霊殿
曽我兄弟の墓
武田氏15代信虎は武田信綱の子として1494年に石和館(現甲府市)で生まれ、1507年武田氏の家督を継ぎ
甲斐国内の統一に成功したが嫡子・晴信(信玄)と対立し、駿河(今川氏)に追われ、流浪の末、
三男の信廉をたより伊那・高遠城に入り、1574年、高遠の娘婿・禰津紳平の庇護のもと
高遠で亡くなり、大泉寺で葬儀が行われた。
手前より信玄・信虎・勝頼の墓
武田神社
甲府・古府中町
武田神社は大泉寺の北へ1km余りの同じ町内にある。 南には甲府盆地が広がり
遠くに富士山を仰ぎ、北は要害山を控えて甲斐の連山が取り囲むという恵まれた土地である。
信玄の父・信虎が武田氏歴代の居館であった旧石和町からこちらへ館を遷し、1519年、躑躅ヶ崎館を
築いた跡で、1581年の孫の勝頼(信玄の子)が韮崎に新府を移すまで63年間、甲斐武田氏の本拠として
城下町が整備され、天下にその名を轟かせたところである。 舘の北に控える要害山には城を築き
信玄は、1521年、こちらで誕生したと言われが、彼は城よりも人を重視し
「人は城、人は石垣、情けは見方、仇は敵なり」と主張、この言葉通り、
生涯、一度も甲斐国内に新たな城を造らず、躑躅ヶ崎館一つで済ましたという。
武田神社は武田信玄公を御祭神として祀り現在に至っているが、明治新政府になって
殖産強兵の政策から歴史上の忠臣重視が叫ばれて、日露戦争後、神社に軍神を祭る必要から
軍神と言われる武田信玄を祭る機運が高まり、大正4年、大正天皇の即位の時、信玄公墓前に
従三位追贈されたのを契機に官民一体となった「武田神社奉建会」が設立され、
大正8年に社殿が竣工、4月12日の命日には、初の例祭が奉仕されて、現在も多くの参拝者で賑わう。
神社前は大きな道路が走り、参道が真直ぐに正面鳥居に向かって通じている。
境内は濠に囲まれ石垣も残り、正面に朱塗りの神橋が濠に架けられ参道が伸びている。
境内は森が覆い二の鳥居の先に拝殿がある。
武田神社正面
神橋
拝殿
新年用の「日章旗と奉祝天皇」の垂れ幕が下がり正月への準備は万端。
参拝をして拝殿の傍に信玄が使用したという井戸があった。 柵で囲まれていて中の確認はできなかった。
この後、左手にある宝物館へ行く。館内には風林火山の旗や信玄の兜レプリカ、「武田氏相伝」金小実南蛮胴具足
信玄公軍扇、七星軍扇、屋筒、太刀「吉岡一文字・重文」、信玄公画像、山本勘助鎧、甲陽軍鑑書などがあり
特に焦げ茶色に焼けて風化した今にも破れそうな「風林火山」の幟が時空を超えて迫って来た。
信玄公御使用の井戸
この後、甲府を後に韮崎市に向かう。
武田八幡神社
韮崎市神山町
韮崎市は武田氏の発祥地で、常陸国から来た源義清・清光が旧北巨摩郡で勢力を延ばし
信義(清光の二男)が最初に甲斐・武田を名乗り、この地域を治めて来た。 こちらには武田八幡神社を始め
初代・信義の館跡、願成寺など、武田氏の旧跡が点在しているが、今度は武田八幡神社と願成寺を訪ねる。
武田八幡神社は釜無川(富士川)の武田橋を渡り「武田の里」と言われる長閑な野良の風景に山を背に建つている。
社記によると、822年嵯峨天皇の直命により九州宇佐八幡を迎かえ地神・武田武大神と共に祀られた。
その後、京都石清水八幡を併祀し甲斐源氏の崇敬をうけ、鎌倉時代には武田氏初代の信義よりこの郷一帯を寄進して
氏神とし、戦国時代には武田信玄が現本殿を再建した。 信玄の子・勝頼が長篠合戦に敗れて織田軍に追われ
韮崎城が陥落寸前の1582年、勝頼夫人(北条氏康六女)が戦勝を、こちらに祈念した。
その時の願文が今も残されていると言う。 結果は報われず、
勝頼と共に追い詰められ天目山の田野で自害したという。
その後、徳川氏の時代にも神社は庇護を受け栄えたと言われる。
勝頼・辞世の句 「おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは」
勝頼夫人・辞世の句 「黒髪の乱れたる世ぞ果てしなき 思いに消ゆ露の玉の緒」
*恵林寺の快川紹喜は彼女を 「淑女君是なり」 と遺墨を残す。
*武田氏系図略 初代・信義―(略)―14代信綱―15代信虎―16代晴信(信玄)―17代勝頼―18代信勝
武田八幡神社
総門の前に石垣が積まれ、その上に背の低い石の鳥居が設けられると言う独特な形で
鳥居を潜る構造ではなく、始めてみる珍しい構えで、石垣と鳥居、共々有形文化財に指定されている。
境内は山の斜面に杉等の森に囲まれた閑寂とした世界、武田氏発祥の地らしく歴史を感じる佇まいである。
石垣を迂回し、かなり寂びた総門を通って階段を登ると舞殿の先に拝殿がある。
拝殿の奥、更に高い所に本殿が鎮座している。 本殿は重要文化財に指定され、
1541年、武田信玄が守護になり再建したものと言われる。
ご神木杉・天然記念物に指定されている。
舞殿から見る拝殿
桧皮葺屋根の本殿
*武田信義像
甲斐源氏、源清光の次男として1128年に生まれ、13歳の時、武田八幡宮の社前で元服し
武田太郎義信と改めた。 武田の里に館を構え、要害城を築き、甲斐源氏の統率者の地位
につき1180年、以仁王が発した令により信濃の平氏方を討ち、北条時政より源頼朝の為
加勢を要請され、信義の率いる甲斐源氏の奇襲が、世に言う「富士川の合戦」の勝利で
あって、その後も平氏方追討の主力となり頼朝の鎌倉幕府創設の礎を築いた。1186年
59歳で波乱の生涯を閉じ、その墓は成願寺に祀られている。
参拝者が少ない為か社務所もなく参拝者も見られず、韮崎市も観光には力を
入れている様だが、ちょと寂びしすぎる。
願 成 寺
韮崎市神山町鍋山
武田八幡神社から釜無川(富士川)に向かって真直ぐ参道を下ると、右手の小高い所に願成寺がる。
駐車場より観音像の並ぶ階段を登ると境内に入り、赤い屋根の本堂、庫裏、左手には
武田信義の石塔墓地が大きいスペースに安置されている。
成願寺は曹洞宗の寺で縁起によると、771年、心休了愚法印によって開創された京都祇園寺の末寺であったが、
928年、地蔵菩薩を安置して願成寺となる。 武田信義、武田の荘に館を定め、ここを祈願時として
後白河法皇に山号を奏請し、京の仏師に木造・阿弥陀如来三尊を造顕させて本尊とする。
1582年に織田信長の侵攻により伽藍は焼失するが、幸にも仏像は焼失を免れ、
重要文化財の指定を受け、現在は保存庫に安置されていると言う。
武田信義の墓地は、甲斐源氏の総師に相応しい大五輪塔が鎌倉時代初期の塔形を
完全に近い姿で残していて傍に武田家・家臣団の招魂碑も建てられている。
三門
正面本堂、右手庫裏
甲斐・武田初代 武田信義の墓所
諏訪大社
韮崎市より諏訪へは20号線を走る。 左手に南アルプスの甲斐駒ケ岳や地蔵ヶ岳など白峰を真際に見て
右手には八ヶ岳の峰々と甲斐の山々を眺められる眺望のすばらしいところである。
雪山が青空に映え美しい山並み、4・5月には春霞の桜・桃と雪山がまた魅力であろう。
景色に見とれ北杜市より茅野市へ、もうこちらは長野県、ちょっと八ヶ岳山麓の富士見高原を道草する。
さすがにリゾート地だけにペンションや別荘も多く建ち、寒いのに若者たちが都会から大勢来ている。
夫々に、スキーや買い物、ドライブと思い思いの目的で来ているのであろう。
これだけアウトレットを初め店屋ができているのには驚いた。 思えば前に来たのは何十年も前だ。
一周して小淵沢ICより中央自動車道で諏訪へと走る。 山麓の眺めは素晴らしいのに、舗装が
スノウタイヤのスパイクに削られているのか、がたがたと頭に響き快適とは云えず止む無く
低速運転、やがて舗装もよくなり諏訪インターに倒着。 大社は少し韮崎側に戻った山裾にあった。
諏訪大社・上社
参道の入り口で車を止めて神社へ。 気の速い人たちがもう年越し参りをするつもりか賑わっている。
拝殿には「謹賀新年」 「天皇陛下ご即位20年」と垂れ幕で新年の装いがすっかり準備されている。
参道
拝殿
諏訪大社は国内でも一番古い神社の一つとされ、全国に散らばる諏訪神社の総本社でもある。
御神体は上社は背後にある宇屋山であり、下社は一位の木と杉の木がご神木と言われ本殿を持たない。
御祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)が祀られている。 鎮座の年代、起源等は定かでなく、
古事記によると出雲を舞台に天照大神の孫・ににぎの命の降臨の時、たけみかづちの命を遣わし、
出雲の大国主命に国譲りを申し出る。 しかし、大国主命の子・建御名方命が反対し
たけみかづちの命との争いとなり諏訪に逃れて国を築いたとあり、諏訪大社は、これを起源と言われている。
*金達寿の「日本の中の朝鮮文化」によると、古事記は大和朝廷の系譜であり、出雲が
大和朝廷の勢力範囲に治められた話で、渡来した朝鮮系の民族が出雲から追われ新潟から諏訪へ
入ったのではと述べている。 新潟には諏訪神社が多いと言う。
戦後、諏訪大社の御神体の宇屋山の麓、国見ヶ丘でフネ古墳が発掘され、副葬品として
直刀、鉄剣、蛇行剣、鑓、管玉、小玉、変形獣文鏡、素環刀太刀、鉄釧、鉾、斧、鑿など
が出土した。 5世紀のものと言われ、地方の豪族にしては豊かさと多さが目立ち、
特に蛇行剣は国内では例が少なく、素環刀太刀は大陸系要素が強いと言われている。
諏訪大社・下社
上社を出て20号線より諏訪湖の東側を通って北側の旧中仙道との合流点のところに下社がある。
下社には八坂刀売命(やさかとめのみこと) と御兄八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)が祀られている。
八坂刀売命は上社・御祭神の建御名方命(たけみなかたのみこと)のお妃神である。
諏訪大社・下社 秋宮鳥居
鳥居を入って行くと正面に大きな木が見える。 一位の木で年輪が狭く堅い、樹令は六七百年と言う。
下社の御神木となっている。 奥に神楽殿があり、両脇を青銅製の狛犬が守っている。
その奥に、二重楼門造りの拝殿と左片拝殿及び右片拝殿が横に並ぶ。
御神木・一位の木
諏訪大社・下社 秋宮 神楽殿
二重楼門・拝殿
この下社では毎年8月に「船祭り」が行われ、青柴で作った大きな舟に翁姥の人形を乗せた柴舟が
氏子によって春宮から秋宮へ曳行され式を終ると翁姥人形は焼却されると言われる。
これなどは裏山のフネ古墳の埋葬者が出雲系で、子孫が祖先を思い、祖先が舟で渡って来たことを
忘れないために柴舟祭りで祖先を敬い追討する祭りなのであろう。
諏訪大社のしめ縄が出雲大社と同じ様に太く、武田氏に滅ぼされた諏訪氏が代々諏訪大社を
守って来た一族で神氏とも呼ばれ、出雲からの建御名方命とのつながりも強ち否定できない。
他に信濃は渡来系と見られる地が多い。 穂高神社の関係も船で来た民であり、松本市の
桜ヶ丘古墳も渡来系の埋葬者と看られている。
こう見ると、改めて日本が単一民族でないことを頷けられる旅であった。
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