松代・真田の城下町
12.10.14

松代には何とか間に合い、受付事務所で、先に真田邸か文武学校を見て宝物館を最後に見て下さい

と、アドバイスされ、まず、真田邸に入る。 松代は長野市の南東部にあり、真田邸は松代城の時代は

三の堀の御殿跡であった。 初代藩主は真田昌幸の長男・信之(幸村の兄)で、上田より国替え後、

廃藩置県まで、250年10代にわたり松代を治めてきた10万石の藩主であった。 この屋敷は正式には

「新御殿」と呼ばれ、1864年、9代藩主・真田幸教により造られ、当初は幸教の義母・貞松院の居所で

あったが、明治以降は真田家の私邸となり、現在は町に譲渡されている。


冠木門

両側に長屋を配した黒い冠木門を入ると、斜めに6文銭の家紋の幔幕のある玄関に向かって砂利道が敷かれ、

玄関を入ると玄関の間があり、廊下を入ると、右手に向けて、通しの赤い絨毯の廊下が伸びている。 御殿は

中庭を挟んで、表より奥に重点が置かれたつくりとなって、南面に東より役所、表座敷、寝所、居間、化粧間と

続いている。 北面は台所、奥女中の間、湯殿などの部屋がならぶ。


玄関




通し廊下

表座敷では公的行事が行われ、居間が主人の私的な寛ぐ部屋となっている。 庭園は池を中心にし築山には

三尊石を配した池泉庭園のため庭内には入れず、専ら主屋からの観賞庭園である。


庭園




役所、御殿の事務仕事をする藩士が詰めていた処






御殿 築地塀

真田邸を見た後、松代藩の藩校であった文武学校を覗く。こちらは藩士の子弟の学問・武芸を奨励するため、

八代藩主・幸貫が水戸の弘道館を範として計画され、佐久間象山らの意見を入れて蘭学、西洋砲術などを積極的

に取り入れた藩校としての文武学校を目指し、9代藩主・幸教が受け継ぎ1855年に開校された。 幕末期の儒学

中心から近代的学校への転換の過渡期の建物である。 そのため、孔子廟など儒学を廃し、実学を重視した造りと

言える。 こちらでは8歳〜14歳ぐらいまでは文芸を中心に、15歳から35歳までは武芸を習ったと言われている。

 廃藩置県後は学校として使われ、松代小学校としても使われた。



文武学校門


門を入って正面にある正庁は西半分は藩主が政務を執った居間で、家老を初め供役人が夫々に

控え執務していた。 東部は文学所があった。 文学所では主に漢学の講義がなされていた。

こちらは「花の丸御所」焼失時、一時期、藩主の御居所にも利用された。


御役所

門を入って左に西序がある。西序では、しつけ方や漢方医学、西洋医学などの講義が為された。




西序





正庁・西部の御役所




御役所棟の玄関の間に飾られた六文銭印の甲冑




直江兼続・甲冑




文学所に飾られた幸村・赤備えの甲冑




同 ・甲冑

文学所の前に東序がある。 こちらでは軍学を教えていた校舎で、序とは校舎のことを意味し、文武学校では

武芸の術が重視され砲術の理論学習もこちらで為された。 実習は槍術所で為された。



東 序




弓術所 



槍術所 校内奥部西北にある。





文武学校通り

真田宝物館は松代藩真田家に伝わった武具、調度品、書画、文書などの大名道具を収蔵・展示する博物館で

松代町が真田家十二代当主・幸治氏から1966年に譲られ展示しているもので、何万点の所蔵の為、年4回

 の展示換えを行っている。 主なものは国の重要文化財「青江の大太刀」、真田昌幸(信之・幸村の父)所用

の「昇梯子の具足」、武田信玄・豊臣秀吉・石田三成・徳川家康らの書状など、である。


真田宝物館





真田家・甲冑と六文銭旗印




大名陣羽織




火事装束




石田三成書状  関ヶ原についての豊富方の宣戦布告状、家康追討を依頼している。




徳川家康より真田伊豆守信之宛


真田邸に近いこの界隈は上級武士が多く住む武家屋敷町で、樋口家はその中でも中心的な位置にあり、

藩の目付役なども務めた家柄で、主屋、土蔵、長屋、屋敷神の祠、表門、土塀、板塀がある。

主屋、土蔵、長屋の3棟が長野市の文化財(建造物)に指定されている。


旧樋口家

松代の街は昔を残した落ち着いた町並みで、松代城址を初め儒者・山寺常山邸や佐久間象山記念館

など長野市では見るべき文化的スポットが多く、また次の機会に訪れたいものである。

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