志賀・草津ルートの絶景
12.10.13-10.14
佐久より望む浅間山と稲穂干
丁度、8年前の10月、山の紅葉が見たくて草津温泉より志賀草津高原道を志賀高原へ貫ける予定であったが
生憎の積雪の為、渋峠が通行止めとなり、渋々引き返した。 今回は、その念願の実現の為、息子一家を誘い
出かけることになった。 今度は息子の運転で、こちらはゆっくりと景色を眺めながらのドライブである。 朝6時
に名古屋を出発する。 天気は上々である。 瀬戸へと走り、瀬戸・赤津より東海循環道で、中央高速へと乗り
入れる。 孫達は朝早かったため食事をせずに出てきて、早速、母親から握り飯を貰って、ぱくついている。息子も
嫁に握り飯を貰い、食べながらの運転である。 こちらは歳のせいか、5時に起き、何時もの味噌汁の朝食を済まし
ての出発で、落ち着いたものである。 山並みに朝靄がたなびき、斜めからの朝日がさして、道路に足長の影が
映る。 夕日と違い朝の光は何故か期待と、わくわくした精気が高まってくる。 しかし、朝日を受けての運転は帰り
には夕日を受けることになり、運転手にとっては、眩しくて辛いものである。 先ほどまで握り飯を食べていた孫達も
何時の間にか後の席で眠りこんでしまった。何時もより早い起床で、成長ざかりは、まだ睡眠が不足なのであろう。
中央高速を順調に走り、駒ヶ根SAで休憩して伊那谷を岡谷へと進む。 南アルプスを眺めながら、やがて伊北を貫け
岡谷ジャンクションを通って142号線に入る。 和田トンネルを潜って立科に入ると、こちらでは、まだ刈り残された
黄金色の稲穂が見られ、稲穂が整然と柵に干され、日本の風景の原点が見え、懐かしい思いがこみ上げてくる。
田圃は人間の作った人工美ではあるが、自然の力を借りて出来上がった美観で、そこに魅力が潜んでいる。しかし
この風景も我々が地のものを食しないと、瑞穂の国は維持出来ず、見ることも出来なくなるであろう。我々の気持ち次第
佐久より軽井沢に入り、変な山道を走り出す、鬱蒼とした手入れのないS字カーブの山道を登っていく。 息子に何処へ
行くのかと聞くと、”何処へ行くと思う、そこは歴史的なところ”と言う。 これで分った。 ”浅間だね”と言うと、ピンポンと
返事が返る。 何と、今を去る40年前、連合赤軍のメンバーによる浅間山荘事件である。 山荘の管理人の妻を人質に
10日間、立て篭もり、銃撃戦の上、三人の死者と27名の重軽傷者を出した処である。 この辺りは高度成長期に開発
された別荘地であるが、急峻な山地で、別荘にするには無理のある地形である。 その為か、生き残ることが出来ず
浅間山荘を初めとする別荘は殆どが廃墟となり、山地も荒れ果てていた。 山を下りた池の畔では、当時に開発された
レイクタウンも戸が閉ざされ、1軒のブチックだけが、かろうじて商いされていた。 バブルにボケていた日本の結末を
見せつけられった様な気がした。
人影の見えない軽井沢レイク・タウン
急峻な崖に建つ浅間山荘 今では鬱蒼と、はびこった木に覆われている。
浅間山荘を下りて、活気のある旧軽井沢の街を通り、整備の行き届いた別荘地帯を貫けると、形を整えた浅間山が姿を
現す。 ロマンチック街道より有料の鬼押ハイウエィをルンルンと上ると、鬼押出園の案内があり、左折すると浅間山の
中腹に赤い社が見える。 こちらは浅間山の溶岩や岩石が造った奇岩風景で、遊歩道が作られ溶岩地帯を周遊出来る
ようになっている。 駐車場に車を留め、赤い社に向って遊歩道を登って行く。 道中、自然の造り出した奇岩群と浅間山
の雄姿が巧く溶け合った珍しい山岳風景が見られる。 浅間山は天明3年(1783年)に大爆発を起こし溶岩は北へ流れ
て嬬恋村鎌原地区と長野原の一部を直撃し、鎌原地区では村全体が飲み込まれ、生存者は高台の鎌原観音堂に逃げ
助かった93人のみだったと言われている。 溶岩地帯の周遊は止めて観音堂に参る。 こちらの縁起を見ると、この辺りは
西部グループの経営で観音堂も堤康次郎の建立と記されていた。丁度、昼時間となり、こちらの見晴らしの良いレストラン
で食事となる。
溶岩と浅間山
園内遊歩道
山腹の観音堂
群馬方面
鬼人形と溶岩
腹ごしらえをして、後は草津温泉へとはしる。 鬼押ハイウエィを通って59号線に入り、草津温泉のホテルに
二時に到着。 ホテルは木立に囲まれた温泉町からは少し外れた山側にある思ったより立派なホテルであった。
係員が出てきたので、チェックインの時間には、少し早いがと思ったが、”どうぞ” と仰るので、荷物を部屋に置く。
係員によると、このホテルは老舗の奈良屋旅館の経営だそうで、周辺に建つリゾートマンジョンも同一グループの
経営になっていると言う。 温泉街へはホテルの専用バスが巡回していると言うので、そのバスを利用し、まず
「西の河原公園」へ行く。
草津ナウリゾートホテル
この公園は温泉街より少し西よりの山手に近い処にある草津の源泉の1つであり、土産屋の並んだ道を入って
行くと「西の河原公園」の案内板が立ち、岩がゴロゴロと転がり、あちこちに湧き出た湯が、温泉の川となって流れ
琥珀の池、瑠璃の池などの湯溜まりが点在している。 川の中に遊歩道が設けられ、公園奥の西の河原露天風呂
まで通じており、斉藤茂吉や水原秋桜子の文学碑なども立っている。荒涼とした河原は今回は紅葉と土曜日が重
なり、大勢の観光客で前回訪れた時の寂寞感はなかった。
西の河原公園入口
琥珀の池
孫達は好奇心旺盛で直ぐに手を突っ込み、湯加減を見て得意満面!! 危ないので湯気のある
処は火傷するぞと、息子が脅す。
瑠璃の池
高温泉が湯気を上げている
地蔵菩薩が祀られ賽の河原の様だ
西の河原より、ぶらぶら歩いて温泉街の湯端へ行く。 湯畑に着くと孫達は射的を見つけ射的に駆け込んで行く
射的場は一杯で、こちらは営業妨害になるといけないので早々に退く。 孫達に待合場所を告げ、湯畑を見物。
湯畑とは草津温泉の最大の源泉で幅20m、長さ60mの中に長い木樋が何本も通り、そこで湯を冷まし湯宿に
温泉が送られている。 木樋に白い湯の花が溜まり、温泉の元として各地に販売しているそうだ。 湯畑は草津の
シンボルで、草津温泉は日本三大名泉の1つである。 奈良屋旅館は八代将軍・徳川吉宗、十代家治に草津温泉
の源泉を江戸へ献上していたと言う。 泉質はPH2.1と強酸性の湯で殺菌作用が強いことで有名。 温泉街には
草津は西の有馬温泉と違い炭酸煎餅に代わり温泉饅頭が名物の1つである。 饅頭屋では試食のため、4つぐらいに
切って配っているのが普通であるが、蒸かしたての饅頭を1個丸ごと、配っているのには驚いた。 茶色と白の2種類が
あり、茶色は黒砂糖入りの皮で、白の方は、栗入りである。 こちらは少し値段が高いが9個で1000円也、しかし皮の
柔かさとふんわりとした味は実に美味である。 美味かったので土産にも買ったが、皮が固くならないのが凄いところ。
草津に行かれる方々には、お勧め。
温泉街・湯畑全景 7本の木樋で湯を冷やす
同 湯畑 白い所は高温泉
湯畑の周りは石柵で囲まれ、草津温泉に縁のあった人物名が彫り込まれている。 古くは日本武尊や行基、
源頼朝、長尾為景、巴御前、前田利家・・・ 新しくは志賀直哉、竹下夢二、福田赳夫、岡本太郎、石原裕次郎・・・
この湯畑の周囲は昔の雰囲気をもった空気が満ちている。 やがて約束の時間となりバス停に孫達も戻って来た。
射的で得たのか、一杯のプラスチックの玩具を宝の様に持っていた。 やがてホテルのバスが到着し乗りこむ。
食事の前に風呂に入る。 浴場は温度違いの湯船があり、露天風呂へも続いている。 聞くところによると、こち
らの湯元は湯畑からではなく、2kmほど先の山の上から引いているそうで、浴後、身体がぽかぽかとほとり、冬に
かけての入浴にはぴったりの湯と言える。 食事は和洋のビュフェ・スタイルで家族連れには好きなものを夫々が
選べて、好都合な食事である。 食事が済むと、孫達はいち早く軍資金を握る家内をつれてゲームセンターへ。
食堂には息子と男組だけが残り、ぐたぐたと人生話に花が咲く。 時間が来たのかウエイターが皿の回収に来た。
こちらも気を利かし引き上げることにする。 ”ちょっと遅すぎる” か??
ゲームセンターを覗くと、孫娘が息子にねだる。 ”この縫いぐるみ、ちょっとも、掴めん” 見ると、クレーンで掴んで
ホッパーに落とすと、掴んだ品をゲットできると言うもの。 ”いくら使ったの?” と息子が聞くと、00円と答える。
”これで最後だよ!” と息子は言って、孫娘を連れてフロントの方へ行ってしまった。 やがて、係りの人が付いて
戻ってきた。 すると、キーでゲーム機を開けどれが欲しいのと、孫娘に聞く。 ”これ”と、答えると、その縫ぐるみを
ホッパーの傍に置いてくれた。 ”これで、やって下さい” と言って、係員は去っていった。 後は、コインを入れて
クレーンを孫娘が動かすだけ、果たしてゲットできるか? クレーンの位置を前や横から眺め、クレーンが動くと
ころりんと、縫ぐるみは、ホッパーに落ちて行った。 目出度し、目出度し。
それにしても、息子は如何に交渉したのか??
湯畑の湯滝と滝壺
昨夜、遅かった為か、孫達は朝の起床が遅く、念願の志賀草津高原ルートへの出発は9時になってしまった。
ホテルの人たちに見送られ、白根山へと出発!! どうも、お世話になりました! ありがとう!
それにしても、このホテルは、何かと、よく面倒を見てくれ、良い感じのホテルであった。
ホテルを出ると、間もなく登山道に入り、S字カーブが続く。 山はすっかり紅葉が来ている。
草津国際スキー場のリフト
ナナカマドが赤くなり、常緑樹との色分けが目立ち、景色にアクセントをつけてくれる。 複雑に曲がりくねった道路は
車の方角を何度も替えて標高をどんどん上げていく。 視野が一挙に開け、曲がりくねた高原道路が雄大につながって行く。
道に任して進んでいくと、大きな駐車場がある。 こちらが白根山の駐車場である。 今日は紅葉狩りも天気に恵まれ、車も
だんだん増えている。 やはり山登りは早く立つのが定石と言われるが、その通りである。 草津から志賀へはまだ少ないが
志賀からの車は数珠繋ぎになって来ている。 これから車を下りて白根山の湯釜(噴火口に湧き出した温泉)を見るため
白根山登りである。
ナナカマドの紅葉と山並みを縫う高原道路
白根山の火口の壁
白根山の火口付近は硫黄の酸性で白茶けて植物が生えず荒涼としている。 以前は火口まで簡単に登れたそうだが、
硫黄ガスが発生して、今は危険区域が広がり白根山の頂上近くよりの展望となった為、登りの距離が長くなったそうだ。
活火山の為、駐車場にも避難場所があったが、要所にシェルターが設けられている。 山裾は熊笹で覆われ、登山道は
コンクリートにグリ石を埋め込んだ道で、時間がたつにつれ、このグリ石の凸凹が返って登り難くなってくる。 振り返ると、
先ほどの駐車場も、小さく見え、隣に水釜の池が見える。 上がるほどに坂道はきつくなり、息が上がる。 孫達は身軽く
さっさと登って行く。 頂上に近くなると、ロープが張られ、大勢の人達がいるのが見えてきた。 漸く、頂上だ。
大駐車場と右手・水釜
水釜と車の行列
白根山よりの笠が岳
白根山より見る山田峠
白根山案内図
火口付近にはガスが発生している為、進入禁止となり、遠くからの釜覗きである。 しかし、草紅葉が広がり
白茶けて荒々しく削られた火口の中には薄緑色のつるりとした湯面がみえる、この対照的な景観は、不思議な
世界に舞い降りた様な思いである。 ライトグリーンの池面が魅了する。 きっと、周囲赤茶けた環境が、それを
引き立たせるのであろうが、 皆さん、吸い込まれるように見とれていた。
白根山・湯釜の絶景
白根山頂上
白根山を下りて、次は、また車で横手山に向って走る。 暫く走ると山田峠、これからは群馬と長野の県境を走ることになる。
上がったり下がったり変化に富んだコースである。 この辺りは背の低い針葉樹が生え所々にナナカマドの紅葉が見える。
山田峠を越えて、県境を伝って、高原道路の日本最高地点の渋峠2172mに着く。 こちらは、もう長野県の志賀高原国立
公園地区である。 標高が高い為か、寒くなってきた。 これからリフトに乗って横手山山頂に登る。 白根山同様このルート
の目玉であり、登山者が多く繁盛である。
渋峠の案内板 2172m 日本国道最高地点
渋峠よりの横手山山頂へのロマンス・リフト
ロマンス・リフトにゆられ距離892mを上る。 後半は風に吹かれ、じっとしているため
寒くなってきた。
所要7分26秒で横手山・山頂に到着。 頂上は広く、標高2305m、展望台の建屋があり、そちらに
まず入る。 入口の温度計をみたらC9度であった。 寒いはずである。 階段を上がって展望台に出ると
そこは、天界のような世界、これだけ広い視界はそうは見れない。幾重もの山並みと山脈は左右へと
視界を越えて伸びている。 遠くは白い霞がたなびき、ほのかな光の差す神秘的な光景。 こういった
美しい風景を見て、人間は心を潤し、また精気をよみがえさせる。 人間は食欲だけで、心の潤いも
求めている。 それは美しさなのであろう。 以下、美の世界を堪能した。
寒暖計はC9度を指している。
左下・山田峠、その奥黒い山は白根山、 背後は左浅間山、右高峰山
山田峠、背後白根山
前、左より笠が岳、熊の湯温泉、 背後左より北アルプス、白馬連山、戸隠、黒姫、焼山、妙高
背後の山は左より黒姫、焼山、妙高、斑尾と続く。 手前は熊の湯、ほたる温泉
その他、北の新潟の山々
中央が笠が岳、バックの峰々は左より立山連邦、北アルプス、白馬連山、戸隠、黒姫、焼山、妙高へと続く
自然の造りだす世界は実に美しい。 芸術家の多くは自然より触発されて創造がなされることが少なくない。
やはり自然環境と言うものは生物にとって重要なものであることが、こう言う環境に来ると、ひしひしと感じる。
気分を良くした所で、山を下りることにする。 次は志賀高原の紅葉であるが、これからの志賀高原は高度が
低くなり、山岳風景より、湿原や湖沼が多く、白樺などの雑木林の黄葉が目に付く。 熊の湯、木戸池、蓮池
など見所も多いが、しかし、今回は時間を白根、横手で取りすぎ、時間が足りず志賀高原は、専ら車の中から
の眺めとなり、残念ながら、パス。 また、次の機会に、じっくりと散策したいものである。
志賀高原
志賀高原・白樺の黄葉
ワタスゲ平湿原
志賀高原を横目に走りぬけ、山之内温泉郷の湯田中温泉をぬけると、そこは信州・中野、403号線を
葛飾北斎の逗留で有名な小布施を通り須坂を抜けて松代へと急ぐ。 何故かと言えば、松代は関が原
の後、真田氏の城下町となり、真田氏や幕末の佐久間象山などの遺品も残されている。今回は真田邸
や宝物館の開館時間が4時半までの為、少し慌ててしまった。 これも旅の味のうちだろう。
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