伊豆箱根と三島湧水
伊豆下田・浄蓮の滝・修善寺
 
04.8.16


仁科を出て、海水浴客を避ける為、海岸道路を通らず、松崎より松崎街道を東へ向う。
婆娑羅峠を過ぎ、間もなく414号線に出て、下田へと走しる。

何10年か前に、下田温泉ホテルに泊ったことがあったが、今はビルになってしまい、
前に広がっていた松並木の砂浜はスッカリ無くなり、当時の面影が、掴みきれない。
港に、犬走島を見つけ、やっと、当時が浮かんで来た。
島の左手に、黒船(ペリー提督)が錨を下ろしたとか・・・・・・

以前、砂浜であった場所は、コンクリートで固められ、ベイステージ下田が建っていた。
そこに車を止める。

新波止場の方より、橋を渡って通りに入ると、下田風情を漂わす、なまこ壁
(瓦を漆喰で網目に固めたもの)の建物を見つける。

前に来たときは、よく見かけ、江戸の趣きがあったが、スッカリ普通の町に成り変わっている。

何か、・・寂しい・・・・・・

下田は、日本開国の歴史の舞台となた町だけに、様々な人間模様が隠され、
見るべきところが多いが、その代表的な所を廻ることにする。

なまこ壁の家


先ず、幕末に下田の奉行所が置かれていた宝福寺を訪ねる。
人口が2万程度の小さい町で、直ぐに見つけられた。

此方は、お吉の菩提寺としても有名で、寺の隣は、お吉記念館となって、
お吉の籠等遺品、写真、ハリスの使ったワイングラスなどが、陳列され、当時が迫ってくる。
寺は、お吉記念館の付属寺の様で、今は観光客向けの様。

お吉は下田の芸妓で、当時日米開国に当り、幕府の命を受け、日米関係の懐柔の為
政治の犠牲となって、歴史の裏側で、淋しく、亡くなっていった女性の一人である。
詳しくは 宝福寺HP

今NHKでは新撰組が佳境を迎えているが、当時、この寺では、土佐藩主山内容堂が、とう留していて
偶々、訪れた勝海舟が坂本竜馬の脱藩の罪の許しを乞い、認められたと言われる。

若し、ここで両者の出会いが無ければ、歴史に、若しは無いが・・・・・
薩長同盟は無かったかも知れず、歴史の不思議な巡り合わせを感ずる。



お吉の墓の隣に鶴松(夫)の墓もある
先代水谷八重子が墓石を寄進していた。
お盆というのに、参詣者は見掛けられず、お吉も淋しかろう?!


次いで町の南西に位置する了仙寺へ、昨日と変わり日差しがきつく、汗が滲み出る。
やっとお寺への進入路を見つけた。
芳しい花の匂いがして来る、この寺はアメリカンジャスミンが有名で、境内中に咲いている。
毎年五月にジャスミン祭りが行われるとか。
今日も二番咲きの花が咲いていた。

白く見える花がジャスミン




寺は身延山日蓮宗の名刹で、1635年日朝上人によって開かれ、
徳川家光の肝いりで建立された。
幕末、日本開国に当りペリー一行と幕府の下田条約締結の場所となった。

寺は宝福寺に比べると今も寺らしく、宝物館も前見た時とは、スッカリ整備されていた。

 了仙寺HP



この後、市街から東に外れ、吉田松陰が密航の為隠れた弁天島の傍にある
玉泉寺へ、湾を須崎半島へ向け走ると直ぐ着いた。



山門には元米国領事館の石碑と露艦デイアナ号水兵墓地の碑があり
門を潜ると本堂があった。





ここは、アメリカが日本で初めて領事館を置いた所で、
初代領事タウンジェント.ハリスは、この本堂に住み、お吉も、ここに出仕していたと言う。
がらんとした本堂では、冬場、寒ったのであろう、本堂左側の壁に
ストーブの煙突の穴がポッカリ空いていた。

本堂右に見えるブロンズの4角い碑は、初めて牛乳が伝えられた碑で、
当時、幕府は四つ足の動物を食べる事はご法度とされていたが、
ハリスが病気に罹り、牛乳の要望に、奉行所が例外的に認め、
管内全体に呼びかけ、役牛から牛乳を集めたと言う。




日本最初のアメリカ領事館旗が掲揚された碑




ペリー艦乗員の航海中他死亡者五人の墓




1854年安政の大津波(東海地震)で亡くなったロシヤ艦デイアナ号乗員三人の墓

HP玉泉寺

これより下田を後に、414号線を北上する、こう見ると伊豆は山、又山!!
天城峠に近づくとループ橋に入る、これは巧く出来ている!!
クルクル廻っている間に一挙に山を駆け上がる。
ヘヤピンの繰り返しがなく、楽々!!

ループ橋



天城を超え、浄蓮の滝に寄ることにする。
道は下り道に変わり、間もなく道の左側に大きい広場が見え、車が沢山止まっている。
伊豆の踊り子の像が立ち、レストラン、土産物等の観光センターがある。
滝だ!!



車を降り、深い原生林に驚く、見たところ、滝はかなり奥の様、心配になり
取っ掛かりの店のオバさんに、尋ねると、”険しい階段だから、膝が笑わない様に
ゆっくりと行けば20分程度で着きますよ”と言う。

20分なら行くか! 声をかけ進むと、かなり急な落差の階段、谷は深い様である。
深山幽谷のと言ったところ、空気が湿った感じ!
間もなく小屋が見えてきた。
滝のようだ、20分と言ったが、思ったより、づっと早く着いた。
あのオバさんは、我々を何歳に見たのかな???
いずれにしても、心配して呉れたのであろう。

小屋では、ワサビを初めとする土産物を売っていて、鱒釣りの道具まで貸し出していた。
傍には小さなワサビ沢があった。
時間が無いので釣りは止める事にする。



滝は濃い緑の茂みから、轟々と音を立て、エメラルドの滝壷に、白いしぶきを輝かし
吸い込まれていく、かなりの滝の響きであるが、逆に静けさを感ずる。
見とれている内に、汗が引いていた。

沢では子供が水遊びをしている。
水はかなり冷たい! 16・7度かな??





そろそろ帰るとするか?
帰り道は急な登りとなる、喘ぎながら足を運ぶ、やはり厳しい。
漸くあがり切ると、家内がワサビ入りのアイスクリームを買った。
淡い甘味のすっきりした味だった。

思わず旨い!!!


アイスクリームで暑さを凌ぎ先へと急ぐ。
湯ヶ島、月ヶ瀬温泉を通り、136号線に出て暫らく走る。
やがて136号とも別れ、桂川に沿って走ると、修善寺温泉街に入る、
川中に、独鈷の湯を見つける。

やっと着いたか!

独鈷の湯

弘法大師が独鈷(仏具であるが元は武器)で掘ったと言われる温泉、誰か入っている様子。



車を止め、先ず修禅寺へ、山門前まで来ると、大きな建看板が目に付く
見ると開創1200年祭記念、本堂全面平成大修理、平成18年竣工予定と書かれ、
入ってみると、白いパネルで覆われ拝観することは出来なかった。
恨めしく隙間から、ちらりと見てお暇とする。

修禅寺は807年弘法大師が開基し、ここでは源頼朝の弟、範頼、長子、頼家が
幽閉され、最期をとげたと言う源氏哀史の寺。
現本堂は1883年建てられたもの。
もう改修しなきゃいけないのかな???

代りに本堂右手の宝物館に寄る、頼家の顔の木彫りの面、裏山から出土した仏教密具、
金銅製独鈷杵、頼家の旗印、北条政子奉納の三尊仏像等々当時を忍ばせる品々があった。


指月殿

宝物館の後、前の指月橋を渡り、向いの高台にある指月殿へ。
ここは北条政子が我子の頼家の冥福を祈り、大蔵経を納めた所
御堂の中には、蓮の花を右手に持った釈迦如来像と、
その両翼に釈迦を守る金剛力士像あった。
御堂の横には、頼家の墓があり、冥福を祈る。

ついでに、源範頼の墓にも参る事にする。
通りより入った細い坂道を午後の太陽に照らされ、だらだらと登る。
やがて道が右に曲がり草深い林の中にひっそりとあった。
町の外れで参詣者も、あまり無い様子?・・・・・

範頼の墓


後は、箱根へと、まっしぐら!!
136号線を北上、三島に出ると一号線が大渋滞、息子の意見に従い、
御殿場経由とするが、昨日よりの祭りで、街を貫けるのに一苦労。
御殿場までは渋滞は無かったが、結構かかった。
宿泊は元箱根だから、ずいぶん遠廻りをすることになった。
山に掛かると、ガスに覆われた、視界がきかない。
芦ノ湖スカイラインも、すっかり霧の中、これじゃ夕焼富士も見えやしない!
ただ、道路の白線を頼り、にひたすら走る。
元箱根に着いた時には、夕闇に包まれていた。

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