歴史散歩・長篠・設楽原の戦い
09.4.3 新城市
愛知県東部にある新城市は戦国の歴史を国家統一へとかえて行った長篠・設楽原の戦いの現場である。
その戦いは最強と言われた武田の騎馬軍団と織田・徳川連合軍との合戦の歴史を塗り変えた戦いであった。
花見の帰りに、その古戦場を訪ねて見た。 長篠の地は豊川をさかのぼって長野県、静岡県北部に通じる
151号線の途中にあり、平地から山地に移っていく地点で、江戸時代には豊川舟運の終点でもあった。
長篠城は宇連川と豊川との合流点の丁度、扇の要の位置にある。
現在は、その城跡の入口に長篠城址史跡保存館が建っている。
長篠城址位置と城を取り囲む武田軍の布陣
長 篠 の 戦 い 長篠城域は境の地で過去、今川、武田、徳川、何れかの脅威を受けていた。 武田信玄の死後、後を継いだ武田勝頼は 1575年、徳川方に組した長篠城主・奥平貞昌を攻めるため1万5千の軍を率いて甲斐より三河へ進軍、長篠城を取り囲み 長篠の戦いが始まる。 奥平軍は城兵5百でこれに、よく耐えたが城中の食糧が乏しくなり落城は間際に迫っていた。 城主・貞昌は危急打開のため家康軍への救援要請の使者として鳥居強右衛門を立てた。 彼は夜半、城を抜け出し岡崎へ 使命をはたして城に戻った時、武田軍にとらわれ、武田軍は城に向かって「援軍は来ない」と叫べば、助けると言ったが彼は 敵の裏をかき、「援軍が間もなく来る」と叫び、磔に処せられた。 これを切掛けに戦いは長篠城から設楽原へと移り武田軍と 織田・徳川連合軍との一大決戦へと進んでいく。 |
史跡保存館
館内には武将や足軽の甲冑や当時の火縄銃などが展示され、信玄の雄図に、戦いの経過、鳥居強右衛門の
救援要請の行動ぶりなどがパネルで展示され、中でも奥平家の家宝と言われる篭城時に使ったと言う
陣太鼓が目を引いた。 血染めの陣太鼓とあり、よく見たが分からない。
本丸跡地
城は豊川と宇連川が深い断崖をつくり西北は深い小沢が流れ込み天然の要害である。
北東のみが人工の堀と土塁で囲まれ、今は水はないが当時は導水がなされていて、外郭は
柵や塀で囲まれた天守閣を持たない戦国末期の平城であったそうだ。
現在、本丸の跡地は広場となり、大きなモミの木や楡の木の大木が聳えていた。
本丸の外側には当時の土塁と堀が残っているが、水はなく空堀となって深さは浅く、木も生え、
この深さでは城兵500名では到底持ちこたえは厳しく、風雨により埋まって行ったのであろう。
本丸の樅と楡の大木
土塁、一部ぐり石も使われている様。
掘割
当時、長篠城主・奥平貞昌は21歳、少数ながら15日間篭城に耐えたのは、鉄砲を所持していたのが
やはり有効だったのであろう。 長篠城攻略に予想外の時間を費やした武田軍は織田・徳川軍到着の
報を聞き、3千の兵を残して高坂弾正等の重臣の反対をよそに設楽原へと突っ込んで行った。
当時、武田勝頼は30歳であったと言いわている。 林に囲まれた寂びた城址に往時を忍び、資料館の
人から教えてもらった救援要請の使者として犠牲になった「鳥居強右衛門の磔死跡」へ行く。
城を出て151号線を南下、有海交差点を左折し、左に廻り込んだ道の奥、城の南の畑の外れにあった。
鳥居強右衛門磔死跡の碑
この時、鳥居強右衛門は家康と信長に会い、援軍の返事をもらって、かんほう山で狼煙をあげ、城中への
途中、この地(篠場野)で捉えられ、武田方から「援軍は来ないと言えば助ける」と言われ承知をしたが
城中の見渡せる場所へ連れて来られ、城兵を前に「援軍は間もなく来る」と叫んだと言う。
武田勝頼は勇気の士として、その行動をたたえたが、武田の兵により磔となった。
鳥居強右衛門 36歳の最期 !
これを境に戦いの舞台は長篠城から設楽原へと移る。
設 楽 原 の 戦 い 設楽原の戦いは戦国最強の騎馬軍団1万2千を率いる武田勝頼軍と、それに対する織田・徳川連合軍が 設楽原・連吾川西に馬防柵と足軽鉄砲隊3千挺を前面に立てて3万8千が対峙した火縄銃対騎馬の戦い であった。 時正に1575年5月21日、武田軍の鳶ケ巣山奇襲に始まり、うけて立つ連合軍は火縄銃の銃声 で迎え撃った。 武田軍は勇猛に馬防柵の突破をはかり戦いは明方から昼過ぎまで続いたと言う。 結果は織田・徳川軍の勝利で終ったが、6000近い犠牲者を出し、武田軍は1万を超える犠牲を出した。 特に武田軍は撤退を進言した多くの重臣を亡くしたのが勝頼には痛手で彼自身も僅かの家臣に守られての 惨めな退却であったと言われている。 これを契機に徳川軍は三河地区を取り戻し、織田軍は勢力を拡大、 天下統一へと進んで行った。 |