歴史散歩・静岡
09.12.29〜12.30

静岡は日本のほぼ中央にあり古くは今川氏が守護として治めて来たが戦国時代を経て徳川氏が

天下を取り270年に渡っての政治がなされて来た都市である。 気候は温暖で住みやすく、

永年、大御所のお膝元と言うことからか安泰を願う人々の気質なのか古くからの老舗が生き

残っていて何処かおっとりした町である。 一昨年に、つづき歴史的スポットを歩いて見た。


清水次郎長生家ー三保の松原ー柴屋寺ー誓願寺ー臨済寺ー

浅間神社ー駿府城誓願寺ー臨済寺ー浅間神社ー駿府城


まず最初に清水区へ、清水区と言えば、何と言っても清水次郎長、その生家を訪れる。

生家は船持ち船頭らしく場所は駿河湾に流れ込む巴川に沿った次郎長通りにあった。

残念ながら家は休みで中へは入れなかったが、長の字の暖簾や格子戸がそれらしい

雰囲気で眺められた。 彼はこちらで生まれ叔父で米穀商の甲田屋の養子に入るが、

人を殺めたことから清水を出て無宿渡世を経て東海一の大親分となった侠客であるが、

幕末から明治維新に掛け、彼の偉大な所は侠客の親分では終わらず、清水発展の為

大いに尽くした。 それは江戸城無血開城の立役者・山岡鉄舟との出会いである。 

清水港で旧幕府軍・咸臨丸が新政府軍に見つかり沈没され、次郎長は生き残った

乗組員を新政府軍の目をのがれて逃がし、殺されて駿河湾に放置されていた遺体を

見るに見かねて埋葬したことから新政府軍より咎められたが、死者に賊軍も官軍もないと

撥ね付けたと言う。 これに山岡鉄舟は深く感激し次郎長を見込み警察署長に任命した。

これ以降、次郎長は侠客もやめ、公私両面にわたり清水発展に力を尽して来たと言う。 



清水次郎長・生家


次郎長・生家の海側に突き出た三保半島は安倍川から流れた土砂により形成された処で全長

7kmに渡り松林が茂る砂浜がつづき、その先に霊峰富士山が見える美しい眺めの海岸である。

三保の松原は、その美しさから平安時代から万葉歌人に親しまれ歌にも詠まれたり、

謡曲の「羽衣」など謡われている名勝地でもある。


三保の松原

食堂や土産物屋がある広場に車を止め、階段を上って行くと羽衣伝説の御穂神社がある。

神社の名前は三保ではなく御穂(みほ)とかいてあった。 最近は見掛けなくなった松並木の

参道が真直ぐに伸び、その先に天女が羽衣を掛けたと言われる「羽衣の松」がある。

 松は幹が分かれ半分は枯れていて一方の幹に堂にか松葉が生き残っていると言った

老木である。 傍の案内には1200年とあったが、とても、そうは見えなかった。 


その周囲で中学生たちが短冊をもち頭をひねっていた。

果たして、今の若者から、どんな和歌が生まれるのやら・・・ 興味が尽きない。


傍には山部赤人の歌碑があった。

 ”田子の浦に うち出でてみれば 白妙の富士の高嶺に 雪は降りつつ”  



国指定名勝・三保の松原

最近は松林が少なくなり松原の美観保存の為か松には幹に監察票が付けられ

記録がされていた。 三保も景勝地、役所が保存に気を配っているのであろう。

浜に出ると、寒稽古か道着を着た唐手のグループや体育会系の一団が、夫々

冬季トレーニングに励んでいた。 砂浜の左手には雲を横になびかせ雪をかぶった

富士の雄姿が松林を横に、浮かんで見え、名勝に違わぬ眺望を見せる。



柵に囲まれた「羽衣の松」

昔々、十五夜の月明かりの美しい宵、三保村の猟師が松の木の枝に美しい衣が掛かって

いるのを見つけ、辺りに人影がみえず、誰かの忘れ物だろうと持ち帰ろうとした時、

天女が現れ ”その羽衣がないと天に帰ることが出来ません” と、泣き始めました。 

猟師は天女を哀れに思い”では天女の舞を見せてくれるなら、この衣を返ししましょう”

と、衣を返すと、天女は舞を見せて宵の空に消えて行ったと言う伝説である。



三保海岸より浮かんで見える富士





クラブの寒稽古


吐月峰・柴屋寺

三保より東海道を下り、丸子インターより匠宿に入った所に名勝・史跡庭園を持つ

吐月峰・柴屋寺がある。 吐月峰入口の案内がありそこから300mほど道を登ると、

山が迫りそれらしい雰囲気の場所である。


簡素な木戸門があり、それを潜ると草庵風の寺がある。 人影がないので声を掛けると

お婆さんが庫裏より出てきて本堂に案内される。 本堂の周囲は庭に囲まれ、竹の寺と

言われるだけに、庭は背の高い竹に覆われている。


説明によると、こちらは丸子泉ヶ谷にあり室町時代は丸子城の一角であった。

当時の国守であった今川氏親に招かれ、1504年、京都大徳寺の禅僧であった

宗長が草庵を結び、京都・銀閣寺の庭を模して作庭をし四季を楽しんだと言われる。

彼は禅僧であり著名な連歌師でもあったことから、風雅の世界を好んだ氏親に仕え、

連歌だけでなく公家や幕府重鎮、地方豪族との外交も引き受け軍師でもあった。

しかし、世の流れ氏親が一線を退くと、今川家は禅僧・太原雪斎(臨済寺)を

招聘したことから、宗長も潮時を感じ庵を後にしたという。


こじんまりした本堂は、庭を眺め、月を眺めての歌詠みには相応しいところ。

庭は銀閣寺には、規模的にとても及ばないが、周囲の山を借景に

しての造りは銀閣寺と同じである。 庭は月見石が中心にあり

閑寂な雰囲気が漂い宗長の歌心が伝わって来る。 

ここで氏親を始め多くの文人墨客や要人と風雅を楽しんだと思うと

いきなり足利時代が近く感じる。 最後に宝物を見せてもらう。


御水尾天皇御宸筆短冊、足利義政より贈られた文福茶釜、一休和尚より贈られた鉄鉢、

今川氏親の真筆扁額、等々
、どれも古色蒼然、献納があったものだそうだ。


お婆さんの説明が、あまりにも詳しいので尋ねると、こちらの坊守さんで

15代目だそうだ。 道理で詳しい筈である。 お礼を申し上げてお暇。



本堂





柴屋軒・宗長像




本堂よりの庭の眺め





銀閣寺風庭園





庭の竹林

庭の竹林が風になびき、恰も名月を箒で掃き出している様に見えたことから

吐月峰(月を吐きだす)と名付け、宗長の号が柴屋軒であったことから

寺の名を「吐月峰・柴屋寺」と名付けたそうだ。




借景の天柱山



誓願寺

柴屋寺を出て東海道を少し下り二軒家の信号を右折して300m程走ると誓願寺がある。

誓願寺は1199年に源頼朝が親の追善供養のため建立したが、今川時代、武田軍との

戦火で焼け駿府に進出した武田信玄により1568年再建される。 また豊臣氏滅亡の

切っ掛けとなった「京・方広寺鐘銘事件」の一舞台となった寺でもある。


小さな山間、大鑪山の麓に立つ山門を潜ると、真直ぐな石畳の参道が伸び、両側に

槙科らしい並木が風変わりに手入れされていて、正面に本堂がある。

古くからの寺らしく左手奥に多くの墓地が並んでいる。

その中に、豊臣家の重臣・片桐且元夫妻の墓がある。



誓願寺・本堂





片桐且元夫妻の墓


片桐且元は近江・浅井長政に仕えていたが、長政が信長に滅ばされてから

秀吉の家臣となり、本能寺での信長死後、柴田勝家軍と賤ヶ岳の戦いで、

秀吉方として戦い、加藤清正等と7本槍で手柄を上げ、豊臣家の重臣となるが

秀吉死後、京都・方広寺の鐘に刻んだ「国家安康」の文字にから徳川家康に

難癖をつけられ、釈明のため駿府に向かうが、駿府に入ることが許されず、

この寺に滞在した。 豊臣方には徳川方に寝返ったと疑われ、徳川からは

拒絶され両方から見捨てられると言う悲劇の人となった。

 墓は子孫の片桐貞昌により建立されたと言う。


” 桐一葉 落ちて天下の 秋を知る ” 

桐は豊臣家の家紋、秀吉が亡くなって豊臣家の衰退を案じた句



左片桐且元、右同妻の墓


誓願寺を出て旧東海道に入ると、この辺りは江戸時代20番目の宿・丸子宿(まりこ)である。

歌川広重が東海道五十三次で描いた名物茶屋・丁子屋が丸子川の橋の前に、大きな

「鞠子宿」の石碑を前に萱葺屋根の軒に「とろろ汁」の暖簾を揚げ、今も昔の雰囲気の

佇まいを見せている。 丸子宿は西からの駿府へ入る要衝としての丸子城が築かれて

開けて行った宿場街で、安部川と相まって駿府を護って来たのであろう。


今日は、ここまで、静岡駅横のホテル・アソシアへ。


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部屋より望む朝の静岡駅ホーム

翌朝、食堂へ行こうとエレベーターホールに来ると、黒いヤッケを着た中年の小父さん

がもの思いにふける様に窓の外を眺めている。 不景気で何か心配事でもあるのかと

少し気にしながらエレベーターに乗り食堂へ。 ウエイターが案内してくれて席へ。

朝食は和洋中のバイキング、こちらは和食をとり、うち上げはチョコレートパンにジャムを

つけコ−ヒーで仕上げた。 エレベーターにのり部屋の階で降りると、未だ、小父さんは

じっと外を見ていた。 気になったので声を掛けると、な〜んと、”新幹線を写真に撮る

ために、来るのを待っているんです” とのこと、や〜と気持ちが落ち着き、一巻の終わり。



静岡は葵区にある浅間神社より北に向かって賤機山(しずはたやま)が伸びている。

静岡市について昔は駿河国・駿府とか府中と呼んでいたが徳川慶喜が大政奉還後、

新政府になり、府中は不忠に通じることから、南北に走る賤機山に因み「賤ヶ丘」と

しようとしたが、「賤」が賤しいと言う意味から「静岡」と言う名に決まったそうだ。

今日は、その静岡の名の元となった賤機山の山麓にある臨済寺に行くことにする。



臨済寺

臨済寺は丁度、駿府城の北西の山麓にあり、元は善得院と呼ばれ、今川氏親が出家した

子の義元の為に太原雪斎に後見を頼み創建したが、氏親の後を継いだ長兄・氏輝が急逝し

義元の異母兄弟の玄広恵探との跡目争いが生じた為、雪斎は氏輝の母と共に義元を推し跡目を継承。

氏輝はこの寺に葬る。この時、京都妙心寺より雪斎の師である大休宗休を招き氏輝の法名から臨済寺と

名を改め太原雪斎が住持となった。 それ以来、義元は雪斎を厚く信頼し執権として政治・軍事・外交を

任し重用する。 雪斎も、それに答え手腕を発揮して仕え、住持としても領内に臨済宗を広め勅願寺に

昇格させる。 また、竹千代(家康)は人質としてこの寺で耐え、雪斎より学問を受け育った。


その後、雪斎は甲相駿(武田・北条・今川)の三国同盟に尽力し1555年60歳で亡くなり、

それと共に今川氏も衰え、1560年には義元が信長に討たれると、1568年には同盟を

破棄した武田信玄の侵攻をうけ駿府城下も火が懸けられ臨済寺の堂宇も灰燼に帰した。

その後、1582年、武田氏が滅びると、徳川家康が駿河を領有し城下を整備して本堂も再建

して江戸時代には徳川の直轄地となり、手厚い庇護を受け隆盛を続け今日に至っている。 

現在、寺は修行僧の専門道場となり、建造物・庭園内は春・秋の特別拝観の時期以外は

公開されていない。 


修行僧が掃除をしていたので尋ねて見ると、”どうぞ” とのことで

境内を拝観する。 但し、書院や夢想庵は見ることが出来なかった。



三門より本堂への参道

流石に徳川の庇護を受け財政にも恵まれたのか三門から参道は隅々まで石畳が敷詰められ

両側は屋根瓦葺きの漆喰塀が建てられ立派なものである。 階段を登ると横に大きい本堂がある。

桧皮葺の屋根に寝殿造の様な高床である。 前庭は白砂が敷き詰められ、左手には座禅堂が建ち

修行僧達の禅道場となっている。 本堂の裏側は賎機山の斜面を利用し庭が作られ書院や茶室が

上へ向かって建っている。 大書院にはコ川家康が人質となった竹千代時代に雪斎に学問を習った

部屋も残っている。 家康は1549年、今川義元が三河安祥城の織田信広(信秀の長男)を攻めて

捕虜とし、織田氏の人質となっていた竹千代(家康)と交換によって雪斎と出会うことになった。



参道より見える本堂(大方丈)重要文化財





本堂前より見る禅道場・座禅堂





新仏殿



浅間神社

臨済寺の後、同じ葵区、賎機山の南端にある浅間神社を訪れる。

この神社は人質となった竹千代(家康)が生涯篤く崇敬した神社で14歳の時

元服式を行ったことで有名である。 

延喜式によれば醍醐天皇の勅願により901年、富士宮の浅間神社より勧請され、

御祭神は木之花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)が祀られている。

神社の境内には6世紀頃の豪族の墳墓とされている賎機山古墳もあり、国の史跡

とされ秦氏の祖神を賤機山に祀ったのが神社の発祥であるとも言われている。


鎌倉時代以降、歴代幕府など武将の崇敬を受け、特に今川家は氏神として尊崇し

戦国大名となった家康は、1582年、賤機山に築かれていた武田氏の城塞を

攻略の際、社殿を再建するとの誓いを立て、戦勝後に社殿を建造した。

特に寛永・文化年間には大造営がなされ徳川幕府の祈願所となり将軍家から

手厚い庇護もうけ、更に1804年から60年余の歳月と巨費を投じて

建築されたのが現在の社殿群と言う。



楼門

丹塗りの楼門は1815年に建てられた総漆塗で軒下には「水呑の龍」「虎の子渡し」が彫られている。

門を入ると、正面に神楽殿、その後には煌びやかな大拝殿がある。 珍しい2階楼閣造りの

拝殿で、いわゆる浅間造の代表的なものと言われる。 金の装飾金具が施され豪華そのもの。

高さ25m、殿内は132畳敷きの広さと言う。 天井は十間の合天井となり、その各間に狩野栄信、

狩野寛信の「八方睨みの龍」「迦陵頻伽」「天人」の絵が飾られている。 社殿群は当時の金額で

10万両と言うから1両、6万円としても60億円の普請となる。



前・神楽殿、背後・大拝殿





一階の上に楼を持った珍しい大拝殿


最後に駿府城へ。 神社前の長谷通りを東へ一つ目の信号を右折すると駿府城がある。

天主閣は、ないが外堀と中堀、内堀の一部が残り、城内は市の公園と役所群が建っている。



駿府城

ここ駿府城の地は室町時代より今川氏の館があり、代々駿河を治めて来て九代・今川義元

の時代に一番栄えた。 この頃、家康は7歳から18歳までの人質として駿府に暮らした。

1560年今川義元が桶狭間で信長に討たれると衰退し間もなく武田氏に攻められ駿河は

武田氏の支配となる。 しかし、武田氏の支配も信玄が亡くなると、1582年には織田・徳川軍が

進攻し徳川家康が治めることとなり、こちらに築城、天守閣を築き浜松城より移り棲むことになる。

それもつかの間、豊臣軍の小田原・北条攻めが始まり1590年に北条氏が滅ぶと、秀吉より

関東移封を命ぜられ北条氏の旧領である関東7国を治めることとなる。 これは秀吉による

体勢維持の家康敬遠策で、それが為、駿府には豊臣政権の老中・中村一氏を城主が入る。

その後、豊臣政権が滅び、徳川の時代になると家康は秀忠に将軍職を譲り1601年には

家康の異母弟・内藤信成を駿府の城主にするが、自らも駿府に移り城を大修築し大御所として

政治を操り、駿府も城下町が整備されて、1616年、73歳で亡くなる。 その後、秀忠の三男

忠長が城主となるが、兄の家光との確執から改易となり自害する。 それ以降、駿府城は

幕府直轄で明治維新を迎える。



中堀の眺め

駿府城は、家康の築城の時は、輪郭式で石垣を廻らせて三重の堀を持ち、

本丸の北西には5層7階の天守を配置した勇壮な城であったそうだが、

現在、石垣と内堀の一部、中堀と外堀が往時の姿を留めていて近年になって

二の丸の巽櫓と東御門(櫓門)が再建された。



東御門(櫓門)

東御門は中堀に面した門で主に重臣達が出入りしたと言う。




駿府城・本丸跡に立つ徳川家康

おわりに

静岡を見終わり感じることは、気候が温暖で住みやすく、日本の中央と言う

恵まれた立地に徳川のお膝元と言う条件にも恵まれながら、大阪や名古屋に比べ

あまり発展していないのが不思議である。 この辺りを探って見ると、徳川忠長が

兄・家光に改易された後、明治元年までの230年間、駿府は城主をおかず、

幕府直轄として来た。 その為、幕府の役人が城代として42人も交替している。

他の藩であれば、大名がいて我が領土と言う意識が高く繁栄に夫々力を注いだ。
 
また、世襲が許された為、尚、励みになったことであろう。 一方、城代は所詮、

自分の領土でもなく江戸よりの都落ち一時の腰掛、これでは意欲も自ずとそがれる。

 今日、地方分権が話題となっているが、参考になる事例ではなかろうか。


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