加茂菖蒲園
豊橋市加茂町 04.6.5 |
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杜若の時期も過ぎ、花菖蒲の季節となった。
豊橋に綺麗な菖蒲園があると聞き、出かける事とした。
東名高速の豊川インターを降り、10分程度行くと、小さなのぼり旗が道の両側に
立ってをり,その旗に沿って行くと、警備の人がいて、
旭精機の工場駐車場へ導いてくれた。
今日は土曜日で、地域への協力で駐車場を開放しているのであろう。
お蔭でゆったり駐車することが出来た。
車を降り、ぶらぶらと菖蒲園に来ると、大きいのに驚いた。
こちらは豊橋の北部地区に位置し、聞くところによると、
300種、37000株が植えられているという。
太鼓橋を中心に左右に菖蒲園は分かれ、
橋と交錯して遊歩道が設けられている。
花は江戸、肥後、伊勢と三種が育っていた。
橋の下には川があり、浮き草がぎしり茂っていた。
蒼の中に朱色の橋が鮮やかに見える。
おりからの照り付けで、弱ってる花も見うける。
太鼓橋を渡った先は、加茂神社の参道に繋がり、両側には、食物屋、植木屋・・・
の屋台が連なり、地元出身の歌手のCDを盛んにながし、宣伝していた。
鳥居の所に”夏越の茅輪くぐり”と案内があり、厄除けに、この輪を潜ってはいる。
社殿の手前左側に、朽ち掛けた楠の老木があり、立札に、
”天正元年徳川家康が野田城の戦いで
形勢侭ならず、この樹のほこらに身を隠し、難をのがれた”と伝承されている。
根っこを見ると、大きく古い樹である事が判る。
今はその根っこからでた枝がおおきくなり、二本の木となっている。
皆さん菖蒲を見に来て、神社に参拝されていくのか、
その逆かは判らないが、とにかく、大勢来ていた。
帰りに、折角来たのだからと、吉田公園にも寄ることとする。
公園に着いみると、こちらは菖蒲園とは変わり、ごったがえっていた。
屋台が公園内の道中に出ていて、競技場では大きな声援が聞こえ、
広場ではゲームをしている。 屋台の人に聞くと、
今日は夜にかけて屋台祭りが始まるとの事で、
日中の運動大会の事は、よく判らなかった。
その性で駐車場探しに一苦労、やっと、
一番奥まった工事中のプールの傍に見つかった。
こちらに城があると、聞いたので、ぶらぶら歩くと、流石、
城があった雰囲気の、大きな老木を見かける。
遊歩道を歩いていると、豊川に出た。
海が近い為、潮の干満があるのか、あちこちに、魚の網が仕掛けられている。
川の中では、漁師の人が腰まで水に入り、シジミらしきも物を盛んに取っていた。
川岸では、漁師の仲間なのだろう老人が三人が話し合っていた。
”お城はどちらですか?”と尋ねると、”すぐ上にある”と言われる。
上を見ると、成る程、櫓が見えた!
案内板に依ると
こちらの城は、前は今橋城と言われ、1505年今川氏の豪族、牧野古白
によって構築され、以来東三河の要衝として今川、武田、徳川と戦国武将の
攻防を経て、1590年に池田輝政が入封し、
15万2千石の城地にふさわしい拡張と城下町の整備が行われて来た。
しかし、輝政は在城10年で播州姫路に移封され、
その後入封した大名は譜代ながら
少禄で、輝政によって大拡張された城地も未完成の侭、明治に至る。
この城の縄張りは背後に豊川を控え、本丸を中心に二の丸、三の丸を配置し、
掘りが半円形状に取り囲む後堅固の城と言われる。
今は櫓が一つ残るのみで、石垣ばかりが苔むしている。
吉田城を出て、前の道を左に取ると豊橋ハリストス正教会がある。
この教会は1913年に建てられた愛知県最古の正教会で、
京都正教会をモデルに造られた。
ビサンチン洋式で、尖塔と、ネギ坊主の白亜の聖堂が美しい。
残念ながら内部は見れなかったが、日曜日の午後には、
公開されているとの事である。
又来るとしよう・・・・
終わり
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