談山神社 04.4.6 奈良県桜井市
西暦7世紀の頃、蘇我蝦夷と入鹿の親子の勢力は隆盛で、
国の政治を欲しいままに、していた。
この頃、中臣鎌足は強い志を抱いて、国の正しい有り方を考えていた。
偶々、飛鳥の法興寺(飛鳥寺)で蹴鞠の会があった時、中大兄皇子(天智天皇)に
出会うことが出来、西暦645年5月、2人は、藤の花の咲き乱れる多武峯(談山神社裏山)
で、密かに ”大化の改新” の談合を行った。
後に、この山を ”談らいの山” と呼ぶようになり、神社の名前となった。
茲に、鎌足は、一生涯、国政に尽したのである。西暦669年鎌足の病、重しと知った
天皇は自ら病床を見舞い、後日、内大臣に任じ、藤原の姓を賜った。
ここに藤原氏が始まり、没後、長子の定慧和尚は唐の国より帰国し、父の由縁
深い多武峯に墓を移し、十三重塔を建立し、今日に至った。
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桜盛りのこの季節、京都へと思ったが、混雑を避け、奈良方面に出かける事にする。
行き先は、多武峯の談山神社、と斑鳩の中宮寺、こちらは、以前、京都広隆寺の弥勒菩薩を見て、
是非見たいと思っていた念願のものである。
東名阪を西へ、福住インターより25号線の旧道に入る。
以前、奈良出身の知人が、大和は山の多いところと、よく言っていたが、
小山の多い、アップ、ダウンの道である。
しかし、大和路と言うだけに、のどかな、ひなびた感じが心地良い。
道の両側の雑木林は、薄緑の芽が吹き、遠くの山々はミドリがかった灰色に暈されている。
20分程で169号線に出て、桜井に向け南下する。
三輪山を左手に更に進むと、多武峯に入り、桜並木の坂道を上がると駐車場の看板があり、
予想していた通り、すいていた。
我々の駐車した横で、ワゴン車のオジさんが、何かごそごそと物売りをしている。
覗いて見ると野菜であった。
客の途切れた処を見計らって、神社への道筋を聞くと、快く教えてくれた。
こちらから聞いた訳でもないのに、会社を辞めてから、少し農業を始め、食べきれないので
売り始めたとの事、屈託なく話してくれた。
彼が教えてくれた石段を下りると、広い参道に出た。
四、五軒の土産物屋が連なり、しきりに声をかける。 観光客が少ない為
余計に激しい感じ、帰りに寄るからと、何とかぬけると、其処は神社の正面鳥居。
急勾配の石段が待っていた。 喘ぎながら登る。古い神社だけに、木々が大きく、
ここで、あの大化の改新が計られたと思うと感慨もまたひとしお。
地形から見て、飛鳥は山の向こう側、今なら簡単に自動車で行けるが、
当時は歩いて山を越えて、桜井地区の山の中で、いかに隠密裏に会談が持たれたかが覗える。
正面のきつい階段を避け、左の総社拝殿の方を廻ることにする。
前は広場となり蹴鞠の庭となっていた。
唐破風の総社拝殿八百万神と大和七福神
の福禄寿神を祭る日本最古の総社
紳廟拝所(講堂)
拝殿は朱塗りの舞台造り、中央天井は唐より渡来の香木伽羅を用いた千畳敷の間、拝殿廻りは透廊
七〇一年の創建なるも度々の戦禍で再建、朱塗り極彩色で名高く
日光東照宮はこれをモデルとして造られた。
岡崎市の滝山に三大東照宮の一つがあるが、やはり、家光が建てただけに
朱漆の絢爛たるもので、装飾は同じであるが入り母屋造りである。
拝殿前の桜
1616年建造の校倉造の宝庫、重文
678年創建、鎌足の供養塔、唐の清涼山宝池院にあった十三層の塔を模したと
伝えられている。 現存唯一の木造十三重塔、旧・国宝
何れにしても、日本の祭り事の形が出来てきた時代、十三重の塔に見られるように
中国の影響を強く反映している造りである。
帰りがけ又、土産屋の前をとおることになり、とうとう、店の看板姉ちゃんに
捕まる波目となり、栃餅と草餅を買うことになった。
その餅をほおばりながら、中宮寺へと急ぐ。
桜井市から斑鳩の途中、田原本辺りの道端の麦畑で、ピーチク、ピーチクと雲雀の鳴き声を聞く、
久しぶり、なぜか懐かしい。この前、何時だたかも思い出せない程まえ。
斑鳩にはいるが、中宮寺が見付からない。 通り掛かりのオバさんに尋ねると、
指を差す方向に三重塔が見えるではないか? ついでに、あの塔は?と聞くと
” あれは、法起寺です。” という。
法起寺と言えば、以前NHK・TVで放送していた番組(聖徳太子縁の寺で、同じ規模で、
東と西に法起寺と法輪寺があり法起寺には美しい三重塔「世界遺産」が残っているが、
法輪寺に塔がないのは淋しいとの事で、関係者の熱望が叶い、
宮大工の西岡棟梁が弟子を育てながら再建する、と言うドキュメンタリー)
を思い出し、つい寄りたくなり、予定に追加。
行ってみると、やはり、その美を知ってか、二人の画家が畠の畦道にイーゼルを立て
同じアングルより絵を描いていた。
法起寺 04.4.6 奈良県斑鳩町岡本 |
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この寺は世界文化遺産で聖徳太子が606年、岡本宮を寺に改められたといわれ、
法隆寺、中宮寺、四天王寺等の
太子建立七カ寺の一つに数えられ、太子の遺言により、
長子、山背大兄王が622年に建立したと伝えられる。
奈良時代は栄えたが、平安時代に入り法隆寺の支配化に入り、衰微していったという。
現在は本堂、聖天堂、収蔵庫、表門が、ぽつんと畠の中に残っている。
続いて西の法輪寺の方も寄ることにする。
五分程度で着く事が出来た。
法輪寺04・4・6奈良県斑鳩町三井 |
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この寺は三井寺とも呼ばれ、聖徳太子が飛鳥から、この地に三つの井戸を移したことから三井
と言う地名が残っている。 当時の創建には、622年太子が、病で伏した折、長子の
山背大兄王と、その子供が、病気の回復を願って、建立をしたと言う説と、もう一つは
斑鳩寺焼失後、百済開法師、円明法師、下氷新物の三人が創建した言う二つの説がある。
飛鳥様式の仏像ニ体を(薬師如来坐像、伝虚空蔵菩薩立像、重文)を伝えるところから
七世紀末期の頃にはかなり、栄えていたと思われる。
礎石の発掘により、法隆寺様式で規模はその三分の二である事が判明している。
金堂、1645年の台風で倒壊し、1760年再建されたもの。
作家の幸田文を始とする全国の支援者により、昭和50年に再建されNHKの番組にもなった塔。
法輪寺を出て時計をみるともう3時、慌てて、中宮寺に向かう。
中宮寺を取り巻く玉砂利の庭
中宮寺 04.4.6 奈良県斑鳩町法隆寺北 |
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中宮寺本堂、この寺は聖徳太子が、その母、穴穂部間人皇后のために、建立したといわれる
元はもう少し東の位置にあったが、室町時代に今の夢殿の東に移築された。
太子の斑鳩宮、岡本宮、葦垣宮の中間の所にあったことから、中宮寺と呼ばれた。
室町時代に、尊智女王が入寺以来、代々門跡尼が住職となり、その法灯を守ってきた。
ここには、あの有名な国宝の菩薩半加像が祭られている。
この像は飛鳥時代の傑作と言われ、国際美術史学者間では世界の三大微笑像
(エジプトのスインクスとレオナルド・ダ・ビンチのモナリザ)と呼ばれている。
確かに一般的に仏像と言えば男女の区別なく造られているが、これほど女性らしい仏像はめづらしい、
朝鮮半島北魏時代の物は、面長の顔でポーズも、よく似ている。
膝を組み、右手を頬にふれ思惟にふける姿は何とも美しい。
しかし、堂内が薄暗く、よく見えないのが、何とも、残念である。
帰りに菩薩像の写真を買おうと思ったが、既に売り切れていた。
外国人がよく買って行くようだ。
こちらは、指をくわえて帰るとするか。
帰りがけ、夢殿を覗くと、あの有名な枝垂桜を見る事が出来た。
あー! 人生巧くできているものだ!!
夢殿の枝垂桜
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