晩秋のみちのく・2
09.11.18〜11.20



角館へは「抱返り渓谷」を発ち10分ほどで到着。 みちのくの小京都と言われるだけに

 電柱が見当たらないせいか、落ち着いた静かな街である。

角館は町村合併で現在は仙北市角館町となり

三方を山に囲まれ南は仙北平野に広がっている。 

                          
                          角  館
  現在の角館は1620年、角館地方を領していた芦名義勝によって造られた城下町で

  北の古城山から南に掛け三本の道路を中心に街割りが行われ北の地区を武家町に

  南地区を商人街とした。 北の武家町は広い屋敷で木が多く、南の商人街は街並み

  が詰まり、当時は武家屋敷80戸、商家350戸と秋田藩の支藩では一番大きな城下

  町を形作っていた。 以来390年街の大きさは変わらず、特に武家街は道路の幅から

  曲がり角の一つまで、そのまま残っていると言われ国の重要伝統的建造物保存地区

  に指定されている。


  


街は大きなモミの木のある屋敷が目立ち、バスは街の南の田町武家屋敷通りにある

「西宮家」に入り、こちらで昼食をとなる。 西宮家は佐竹氏直臣の家柄で、明治から大正に掛け

地主として最も栄え冠木門を構え母屋と5棟の蔵もあって、昔の香りを残している。


母屋の座敷が食事処となり、蔵は民芸品やみやげ物の売り場となり、他の蔵も

文化資料の展示やレストラン、ミルクホールなどに活用され係員が活発に働いている。



黒塀に囲まれた西宮家


食事の後、角館の武家屋敷を代表する青柳家を見学する。

長い黒塀に囲まれた3000坪の武家屋敷である。 邸内には年輪を感じる

大きな木が茂り、薬医門を入ると萱葺きの母屋があり、調度品や古い着物などが

陳列され、樺細工等が並べられている。 母屋の左手に入ると庭が広がり

「小田野直武像」が建っている。 


* 小田野直武は江戸中期の画家で、青柳家とは姻戚関係で平賀源内から蘭画を学び

「解体新書」の図等描いて有名である。 藩主・佐竹義敦に認められ秋田蘭画を確立した。

青柳家は芦名氏普代の侍であったが、芦名氏断絶後は佐竹氏の臣下となり

明治に至るまで仕えた上級武士であった。



右手、黒塀 青柳邸





青柳邸 玄関





母屋の展示品


邸内にはその他、武器庫、青柳庵、武家道具館等があり、秋田の名産品や

食事、喫茶などの営業をしている。


青柳家を出て直ぐ北隣にある石黒家を拝見する。

石黒家は現存する武家屋敷では角館最古のもので、石黒家も佐竹氏の家臣で、

芦名氏断絶後、この地に入った佐竹氏に召抱えられ主に財用役や勘定役と言った

財政面担当の役職で仕えて、現在も子孫が住んでいる。


入ると、その子孫の人が案内してくれ、何か個人の生活を覗く様で恐縮する。

屋敷は1853年、蓮沼七左衛門から買い受けたもので、江戸末期の建物と言う。



石黒家 藥医門




母屋座敷に展示される季節の着物


角館を見学しての帰り「田沢湖」によってホテルへと向かう。

田沢湖は日本一深い湖で深さ423.mであるが、その成因は不明だそうだ。

因みに十和田湖の水深は327mで支笏湖に次いで第3番目である。

湖畔には伝説の「辰子像」が金色に輝いていた。


「辰子像」は昔、辰子と言う美貌の持ち主の女性が、その美しさの衰えに悲観し田沢湖に入水

湖の主の龍となった伝説にちなんで建てられたそうである。


十和田湖にしろ田沢湖にしろ、過疎の東北では人寄せの為の何か仕掛けが

必要だったのかも知れない。


田沢湖を見て岩手に戻り、雫石の高倉山々麓にある高倉温泉(プリンスホテル)に宿泊する。

こちらは、スキー場とゴルフ場を有するリゾートホテルで岩手山を望む雄大な眺めの

ロケーションにある環境に恵まれたところ。



プリンスホテル

夜は見晴らしのよい食堂でのバイキング。 早々と屋外にはクリスマスのイルミネーション

が輝き年末の気分になる。 ホテル内の案内に韓国語が多いので、訊ねてみると、

韓国からのゴルフ客が多いそうだ。 あっと言う間に韓国もゴルフが大衆化し

外国まで足を伸ばすようになり、ソール・オリンピックの頃はまだまだ経済が

大変だったが、隔世の感がする。 夕食を終えて部屋のテレビをつけると

韓国KBSの放送が入っていて、久しぶりに見たが、

相変わらず日本の番組に似たようなバラエティー番組をやっていた。 



部屋より望む朝の岩手山の裾野


翌朝は日本最大の民間総合農場と言われる「小岩井農場」へと向かう。

農場は盛岡の西の位置にあり、ホテルの東南、ホテルと同じ雫石にある。

岩手山を眺めながら走ると、直ぐ到着した。


真っ先にNHKの朝ドラ「どんど晴れ」でのタイトルバックとなった

「一本桜」に案内される。 そう言えば、旅館・加賀美屋のシーンを思い出す。

あのドラマ以来、訪れる観光客が絶えないそうだ。


緑の牧草の丘の先に岩手山を後に、凛と立つ一本桜! 

素晴らしい眺めである。 


園内ではソフトクリームやチーズなどの乳製品が売られ、乗馬やアーチェリー

なども楽しめて、レストランや喫茶などの店舗もある。



岩手山





岩手山




小岩井農場の一本桜



                          小岩井農場

   小岩井農場は900万坪の敷地をもち酪農から種鶏、林産、環境緑化、観光牧場など

   の事業を行っている。 始まりは明治23年に東北本線が盛岡まで延長された時に、

   岩崎弥之助(三菱財閥の総師)、小野義真(日本鉄道副社長)、井上勝(鉄道庁長官)

   が創始者となり三名の頭文字をとり小岩井農場として出発し、その後、三菱一族に買い

   取られ、現在は、三菱地所、三菱商事など三菱グループが主要株主となり三菱グループ

   の経営となっている。




小岩井農場入口





小岩井農場




農場・ミルク館





サイロの喫茶店




農場道路


小岩井農場を出て東北自動車道を盛岡より一路、奥州・平泉を目指してバスは走る。

宮沢賢治の故郷・花巻を通り約100kmを走って平泉前沢インターで下り、国道4号線を南へ走ると

中尊寺の入口、三門の手前に三角地点の様な所に柵が廻り、武蔵坊弁慶の墓がある。


平泉は平安末期から奥州・藤原氏の三代続いた都て、往時は平安京に次ぐ大都市で

10万台の人口をようしたと言われる。 藤原氏は義経を庇護したことから源頼朝に攻められ

1189年に滅びた。 その中で弁慶は義経を守り義経の居城高館が焼き討ちされて

最後は衣川にて最期を遂げ、この地に埋葬されたと言われている。

 墓には後世中尊寺の僧・素鳥が詠んだ石碑が建てられていた。


” 色かえぬ 松のあるじや 武蔵防 ”



弁慶の墓




                                                               中 尊 寺
   中尊寺は天台宗の東北大本山で、850年、慈覚大師・円仁が開創し、その後、清和天皇から中尊寺の号を得た。

    12世紀初頭、初代・藤原清衡により堂塔伽藍が建てられ、仏国土建設を目指し、藤原4代 ゆかりの寺として来た。

    現在も平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂等、多くの文化財を有し、国の特別遺跡に指定されている。 




駐車場より参道を進み中尊寺・金色堂へ。 参道より左への坂道を上ると階段の上に金色堂がある。

金色堂は1124年の建造で中尊寺創建当初の唯一の建物で、金色の阿弥陀堂である。

中は金箔に覆われ内部の四本の柱や長押し須弥壇まで漆の蒔絵と夜光貝による螺鈿細工と、

透かし彫りの金具で飾られ堂全体が贅を尽くした工芸品の様で、中央に本尊・阿弥陀如来、

その前に観音・勢至菩薩、左右に三体ずつ列立する地蔵菩薩が安置され、

最前列を持国天と増長天が護っている。 何れにしても金の産出や沿海州との

交易で平安京に引けをとらない財力を有していたのであろう。


中央の須弥壇の中には清衡、その左に二代基衡、右に三代秀衡の遺体と

泰衡の首級が金箔の棺に納められていると言う。


平安後期は浄土教が盛んで宇治の平等院と同じ様に極楽浄土を夢見たのであろう。

以前、来た時には木造の覆堂であったが、今はコンクリートの覆いとなっている。



参道





金色堂

金色堂を出て、旧覆い堂の横に芭蕉が訪れた時の句碑があった。

” 五月雨の 降り残してや 光堂 ”

更に進むと釈迦堂が紅葉の陰に、ひっそりと佇んでいた。

その横には、能楽殿への鳥居が杉の大木に挟まれながらも

やけに鮮やかな色で突出していた。  この奥には白山神社の

能舞台があり、1800年代に伊達氏によって再建された。


この後、月見坂を下り鐘楼や御堂を見ながら中尊寺・本堂へ。



芭蕉の句碑




釈迦堂




能楽殿への鳥居


小さな三門を潜ると中尊寺・本堂がある。 中尊寺は天台宗のため

比叡山延暦寺より分火を受け継ぎ、現在も1200年の「不滅の法燈」を

守っているが、本堂は14世紀に焼失し、明治42年に再建されたものと言う。



中尊寺・三門




中尊寺・本堂


中尊寺を拝観して参道を出た所で昼食をとる。

丁度、食事処の庭より、義経が自刃した高館・義経堂の丘が見える。

源平合戦の後、源頼朝と対立した義経は京を逃れ、平泉の藤原秀衡を頼り

平泉に住むが、秀衡死後、頼朝の命に屈した藤原泰衡(秀衡の子)に住いの高館を

襲われ、妻子共に最期を遂げたと言われる。 その後、泰衡は義経を討ったにもかかわらず、

家臣の裏切りで殺害される。 ここに藤原四代の栄華の平泉は終わる。


” 夏草や 兵どもが 夢のあと ”


芭蕉が「奥の細道」の旅の中、こちらより衣川を眺め詠んだ句の

感慨を思いながら日本三景・松島へとバスは走る。



高館・義経堂の丘




大きい川は北上川、手前の小さな橋が衣川


     つづく  HOME