晩秋のみちのく・3
09.11.20 松島
松島・五大堂
東北自動車道をたっぷりと走り松島北インターで下りる。
国道45号を通って松島海岸に出る。 松島は平泉と違い、やはり仙台平野、賑やかである。
松島は自由行動、早速、目前に見える五大堂に足を運ぶ。 こちらは何年か前に来たことがあるが
何十年も前、再度見学。 赤いすかし橋(床が空いていて下に海が見える)を渡り御堂へ。
五大堂は景勝地・松島の景観上重要な建物の一つで瑞巌寺の仏堂の一つだそうだ。
坂上田村麻呂が奥州遠征の際、この島に毘沙門堂を建て、828年、慈覚大師が
瑞巌寺の全身、松島寺を建て五大明王を祀ったのが始まりで五大堂と言われた。
現在の御堂は1604年に伊達政宗が瑞巌寺の再興に先立ち建立したもので、
四方に手すり付きの縁を廻らした東北最古の桃山建築といわれ
国の重要文化財に指定されている。
五大堂
五大堂を拝観し海岸道路を歩くと地もとの名物、牛タンや岩牡蠣などの店屋が並び
食欲をそそられる。 時間も限られ、グーと我慢。 一信号歩き瑞巌寺へ。
やがて右手に瑞巌寺の門が見える。 門をくぐると大きい杉並木の参道。
残念ながら本堂は平成の大修理の為、拝観はできなかった。
代わりに非公開の伊達政宗公正室・愛姫の霊屋を拝観する。
本堂右手の森の奥にあり、1660年、孫の綱宗により造営された。
宝華殿と呼ばれ、勾欄つきの回廊を廻らした寄棟の御堂造りで外部は
黒漆が塗られ金の飾り金具が施され、内部は金箔で化粧されて、仙台の
政宗・瑞鵬殿とは比較にならないが、豪華な造りに仕上げられている。
瑞巌寺・総門
参道
参道
瑞 巌 寺 瑞巌寺は臨済宗妙心寺派の禅寺である。 平安時代の初め慈覚大師円仁により 開山され、奥州・藤原氏の保護を受け、藤原氏滅亡後は、鎌倉幕府の庇護を受け 繁栄してきたが、戦国時代となって衰退していた。 関が原の戦い後、江戸時代に なって仙台62万石の大名となった伊達政宗が仙台城の造営と併せ領地の神社仏 閣の整備で瑞巌寺も1609年に現在の大伽藍となり、今は国宝に指定されている。 |
国宝・本堂はクレーンが入り修理中
瑞巌寺を参拝し右手に道をとると、伊達光宗の廟所のある円通院がある。
萱葺きの山門を潜ると、石畳があり右手に石庭がある。
石庭の白砂は松島湾を表し、緑の山は周囲の山々を意味したつくりで、
石畳の奥には、2代目藩主忠宗が建立した光宗の廟所・三慧殿がある。
屋根に宝珠を載せた方形造りの霊屋である。 中には厨子の中央に光宗君が
白馬に跨る像が立ち、その両側を7人の殉死者の像に守られている。
壮麗な厨子の図案は支倉常長が西欧より持ち帰った西洋の文化を表す
模様が描かれ、当時、鎖国をしていた徳川幕府を憚ってか3世紀半に渡って
公開を避けてきたそうで伊達家の秘蔵で、現在は国の重文になっている。
円通院山門
石庭
三慧殿(光宗廟所)
光宗は二代・伊達忠宗の世子で母は徳川秀忠の娘で徳川家光とは従兄弟関係にあり、
文武に優れ才智あふれ期待されていたが、19歳と言う若さで江戸城内で亡くなった。
病死とされているが、伊達家にとって稀な逸材であった為、将来を恐れた徳川幕府が
かかわったという毒殺説も伝わっている。 何れにしろ七人の殉死者がいたことは
頼もしい人物であったのでだろう。
光宗の厨子、中央に光宗の乗馬像、
円通院の本堂は大悲亭と呼ばれ江戸屋敷の納涼の亭で、子の早逝を悼んだ
二代忠宗が、1647年にこちらに移築したもので、瀟洒な萱葺きで
小堀遠州に造らせたと言われ、前庭と併せ落ちついた佇まいである。
円通院は松島の名庭園とも言われ、日本庭園の他に支倉常長が西欧より
持ち帰ったバラに因みバロック風のバラ園もある。
本堂・大悲亭
本堂・前庭
円通院を拝観して、海岸道りに出ると、夕焼けの松島が見えた。
茜色の空と雲が入りまじり、松島を黒く浮き立たせ・・・
” 絶景にむかふ時は、うばわれて叶わず ”
芭蕉は奥の細道の旅で、松島に訪れたが、あまりの絶景に見とれてしまい
奪われて句も出なかったと言われるが、やっと松島の美しさが見れた。
松島夕焼け
仙台の残照
みちのくの旅を終え、空港へ向かう途中、車窓に映る仙台は
実に晩秋の残照が美しく名残を残して去っていった。
芭蕉は150日をかけ2400kmの道程を終えたが、我々は僅か3日。
” 月日とは永遠の旅を続ける旅人の様なもの ” と芭蕉は述べているが、
自分の人生とも併せた宇宙観なのであろう。
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