東 京 今 昔
06.3.26〜3.28


訪問先

聖徳絵画館ー新宿ー皇居ー小石川後楽園ー浅草ー湯島ー旧岩崎邸ー上野


ここの所、政治は民主党の失態から疑惑の四点セットは一向に解明されず、

小泉政治改革の先にある日本のビジョンも一向に見えてこない。

見えてくるのは、優勝劣敗、適者生存の様相が目立つばかりである。

とうとう痺れをきらし、数学者の藤原文彦氏(作家・新田次郎の次男)が

「国家の品格」と言う本を出し(新潮社)、訴えている。

この本は「バカの壁」に続き、新潮社のベストセラーになっていて、

内容は日本の近代的モラルの崩壊の過程を分析し、民主主義、自由主義の

隠れた危険性を指摘し
日本の歩むべき道を示唆している。

読後、筆者の主張する「情緒」と云う言葉から日本の近代史の出発点である

東京が見たくなり、もう一つは歳をとり懐旧の情もあり出掛けることにした。



聖徳絵画館と新宿御苑へ

東京に着くと、こちらは、すっかり春、桜が3.4分咲きとなり、

早咲きのものは、既に、満開となって輝いていた。

虎ノ門のホテルに荷物を預け玄関に出ると、ドアボーイが

” 虎ノ門駅へは、ホテルのシャトルバスが直ぐに来ます ” 

と言うので、そのバスで駅まで行き、地下鉄銀座線に乗る。

車内は昔の様には混んでいなかったが、何時の間にやら

 地下鉄網は縺れた凧糸の様な複雑さで地下に広がっているのに驚く。 

東京の人々がこんな所に暮らしているのかと思うと地震が空恐ろしい。  

そんな事が頭を巡ぐらしているうちに青山一丁目に着いた。


青山通りに出て赤坂御用邸の森を見つけ、方角を確認して、聖徳絵画館に向う。

  通りを少し歩くと、直ぐに神宮外延の銀杏並木に出た。

そこには遠近法で描いた絵の様に、2列の銀杏が植えられ、樹立が段々小さくなり

絵画館の一点に収斂されて行く、先には白亜のドームが霞んでいた。


外苑イチョウ並木

未だ木の芽が出ない並木道を歩いていると、映画「第三の男」のラストシーンが

浮かんでくる。  ♪ジョセフ・コットンが黙って並木道に・・・・

都会とは云え、この辺りは車が入らず、ゆったりと歩けるのが気持が良い。

道の中央では学生風の若者達がホッケ−ゲームに興じていた。

絵画館前に来ると馬蹄状に道が別れ、道の間の広場では少年達が

日曜日の為か野球大会が開かれていた。

その先にパルテノンの様な絵画館がどっしりと存在している。



こちらは大正15年に明治天皇と昭憲皇太后の遺徳を記念し建てられたもので、

当時、日本の各地から良質の石材が集められ、最高の技術を注ぎ込んで

造られたと言われるだけに素晴らしい。  外側は花崗岩で覆われ

中央のドームを中心に両翼に建物が繋がっている。 中に入ると、


吹きぬけドーム

ネオルネッサンス風の吹き抜けの大きなドームの天井があり、

色を違えた大理石で内装され、荘厳な雰囲気である。


吹き抜けホールより展示室を望む

中央ドームより左右対称の展示室が展開され、左は日本画、右は洋画となっている。


ドームより伸びた展示室


建物裏面窓のステンドグラス

第2次大戦が迫った年の春、初めて東京に来た時、この建物と絵画の大きさに

子供心にショックを受けたことを覚えている。

 今再び、こうして見ると、大きさはさて置き、建築の質の良さに驚かされる。

ここのとこ偽装建築で世間を騒がしている関係者は建築家の魂までなくしている。

古人の建築家の爪の垢でも煎じて呑めばと思もうが・・・


展示会画は明治天皇のご生誕から崩御までの日本近代史の出来事を

80点の絵に、一級の画家達が描いている。  

日本画では鏑木清方、前田青邨、山口蓬春・・・・
洋画では石井柏亭、岡田三郎助、藤島武二・・・・



明治天皇数え17歳の元服式の戴冠、明治元年


  

    明治10年第1回、上野勧業博覧会御出席の天皇と皇后                   明治元年、
五箇條のご誓文のお誓い                        



  
天皇、病床の岩倉具視を御見舞い 天皇は靴のままの様子            明治15年 軍人教育勅諭下賜、拝受の大山巌



  
明治28年、日清戦争勝利下関條約の調印                 明治38年、日露戦争、旅順開城水師営の会見、乃木将軍



  
明治38年、日露戦、日本海海戦、旗艦「三笠」                明治45年、天皇ご病状悪化、皇居前で御平癒を祈る民


絵画館を出て国立競技場の横を通り、神宮外延をぶらぶらと千駄ヶ谷へ。


国立競技場前のヒカン桜は満開

千駄ヶ谷のガードを潜り新宿御苑に入ろうと来たが、残念! 本日は終了の札。

* 御苑は元信州高遠藩主内藤氏の江戸屋敷跡で、明治新政府に至り、

皇室の庭園となったが、戦後一般に開放されている。 

日本庭園を初め、フランス式整形庭園、イギリス式風景式庭園の三つから出来ていると言う。


しょうがなく新宿御苑沿いに新宿西口高層ビル街へ行くことにする。


四谷大木戸跡の石碑

新宿御苑大木戸門前に昔、四谷大木戸跡の石碑があった。

大木戸とは江戸から地方へ向う主要街道に設けられた検問所のことで、
城内と市街の堺となり江戸から地方へ向う人々を検問した。

御苑内を歩くのと違い、街の雑踏を歩くのは味気なく骨が折れる。

やっと、新宿駅へ到着、甲州街道の陸橋を渡り高島屋タイムズ・スクエヤ−にでる。

夕刻となり、大勢の人で賑わっていた。  ぶらぶら歩道橋を渡りサザンテラスに出る。


この辺りはクリスマス時期には電飾のライトアップが美しく、若者に人気があるそうだ。

南の方を見ると、新宿の長方形の高層ビル群とは全く違ったスターリンが好みそうな

ペンシル型の建物が薄暮の空に、ひときは美しく見え金色の時計が輝いていた。

ビルの名前が解からず、帰ってホテルのコンシェルジュに尋ねるとNTTのビルとの事だった。

そう言えば尖塔の先にアンテナが付いていたな。


サザンテラスより見るNTTビル上部に時計が見える

今夜は高層ビルの展望レストランで夜景を見ながら食事をしようと

目的の新宿住友ビルを街の人に訊ねてみるが、解らないと言う。

始めて建った高層の事務所ビルと言うが、側にいてどうして分からないのか。

  これだけ雨後の筍の様に高層ビルが建つと、彼等にとっては何ビルが建とうと

いちいち覚えちゃいられねえ〜  てことか?

所詮、東京は六割がよそ者と言うから無理もないか、と解らぬではないが、

とうとう家内が音を上げ、ぶつぶつと、お小言。


それではと、家内の好きなようにとお任せすると、何のことはない。

ここまで折角来たのだから、もう少し探すと言う。  女心と何とかの空か?

新宿郵便局の守衛さんに訊ねて、やっと解かった。  流石郵便やさんだ!

民営化はんた〜い!


都庁の右手前に見えてきた。 ビルの前は半地下の広場となっていて、こっている。

一旦、広場に下りないと行けないようだ。 ビル内に入り高速エレベーターに乗る。

あっと言う間に51階に到着、家内が日本料理をと言うので、「魚市」と言う店に入る。

この辺りはビル街で、日曜日は空いているかと思ったが、窓際の席はつまり

一つだけ
残っていた。 静かで感じの良い店だ。

夜景が見える様、部屋の照明が暗めに抑えてあり、展望が素晴らしい。

     
    窓より見た夜景              都庁ツインタワーの夜景      

客は男女の二人ずれが多く、夫々静かに食事を楽しんでいる。  

コース料理を頼んだが、ネタが新しく美味しい。 又、揚げ物の「えびしんじょう」が

皮がパリッと、こおばしく、中味はエビのこちっとした歯触りが残り逸品だった。

平日にはビジネスマン達で賑わうのであろう。

帰りは広場に出て、地下道を一直線に進むと、あっ、という間に駅に着いた。

往きに手間どったのが嘘みたい。

中央線で東京へ、タクシ−でホテルに戻る。



皇   居

昨夜は風呂にバブを入れて入ったら身体がほとり、なかなか寝つけなかった。

朝は朝で早く目が醒め、ホテル周辺を一回り散歩、この辺りは

アメリカ大使館を始め、スペイン、スエーデンと大使館が多い、

屋敷内にポツポツと桜の木も見える。


昨夜のホテルオークラ

今日はタクシーで桜田門通りに出る。
    
この辺りは財務省を始め文科省、経済産業省・・・と官庁が並ぶ。

明治以来、裏で政治を操る人達のお勤めの所、これから9月の自民総裁選に向け

候補者周辺に寄りつき、政治構想のサポートを!とか云いながら、

政権の舵取りでも目論んでいるのであろう。


通りを突き当ると桜田門、駐車が出来ないので皇居前まで出て下りる。

朝の空気が清々しく都会の真中にいるとは考えられない気持良さ。




桜田門(渡櫓門)

清掃のボランテイアーのオジさんに門の中に入れるか訊ねると、OKと言う。

中は濠に囲まれた枡形の空地があり左手に桜田門の第一の門(高麗門)がある。

先ほど潜った大きな桜田門は第二の門で別名渡櫓門と呼ぶそうだ。

江戸後期、水戸浪士により大老・井伊直弼が暗殺されたと言う桜田門外は、

桜田門(高麗門)のことで、現在の内堀通りの雑踏では事件の想像もつかない。


桜田門内に咲く朝日を浴びる桜

桜田門を出て玉砂利の広場を二重橋へ向う。




皇居のこの光景は何時見ても美しい

小学生の頃、四日市より夜行列車で、早朝、東京駅に着いた。

眠い目をこすりながら丸の内より宮城前広場に出た時、

美しく植えられた松林の先に、朝もやの中に、二重橋を中心とした

他の城では見られない宮城の光景に
、子供心に畏敬の念を感じたものだった。

この度、秋篠宮妃殿下の御懐妊で、皇位継承問題も少し静かになったが、

秋には又、騒々しくなる事であろう。  何れにしても拙速に走らず、

不易流行という言葉をよく噛締めて進めて貰いたいものである。


皇居を参拝し、広場の南橋にある楠公さんの銅像を見に行く。

これも、当時に見た懐旧の情のなせる一つだろう。



この像は明治29年住友家(住友財閥)が高村光雲に依頼し建立したと云われ

天皇制の護持と言うことで当時の皇国史観から新政府のお声がかりもあったのだろう。


楠木正成といえば尊皇思想の持主として徳川光圀が取上げた人物で、後醍醐天皇を

擁護し湊川で、足利尊氏軍との戦いで散っていったと言う忠臣のお手本である。




皇居前広場



坂下門と宮内庁



辰巳櫓


この後、坂下門、桔梗門、辰巳櫓を通り、和田倉噴水の前まで来ると、後から

声を掛けられた気がしたので振り返ると、サリーは纏っていないがインド人らしい

男女の二人ずれだった
。 すると、”隅田川に行きたい” と言い本を出してきた。

見ると浅草の吾妻橋傍のアサヒビールの金色雲のモニュメントだった。

指を差し、これが見たいと言う。

こちらは桜でも見に行くのかと思っていたが、とんだ桜だった。

それではと、メトロの銀座ラインで浅草まで行きなさいと言うと、

サンキュウ! サンキュウ!と言って桔梗門の方に行ってしまった。


彼等は安心していた様だが、少し心配になってきた。

HOME    つづく