東 京 今 昔 

小石川後楽園・浅草寺

皇居前を出て、大手町駅より地下鉄三田線に乗り水道橋で下りる。

これより小石川後楽園へ向う。  後楽園のコースターが見えたので壱岐坂下より

左にまがり、東京ドームに沿って進むと林が見えてきた。 

これが旧水戸藩主徳川家の屋敷跡だ。


 丁度、昼飯の時間となり文京区のシビックセンターに

 椿山荘が店を出していると言うので上がって見る。

360度の展望で、昨日訪れた新宿の高層ビルやテレビ塔、上野の森・・・と

東京全体が見渡す事が出来た
。 

   
シビックセンターより見る新宿西口のビル群                同 NTTビル   




椿山荘より見る小石川後楽園とドームの屋根


ハンバーグステーキを頼んだが、これが又、出来合いを暖めた様なしろ物で

椿山荘にしては、お粗末なのに驚いてしまった。


外に出て、徳川家屋敷の築地塀に沿い歩くと入口は南側にあった。


白壁の屋敷塀



後楽園入口

こちらは江戸時代の初め1629年に水戸徳川家の頼房が三代将軍家光から与えられた土地に
最初に屋敷を造り、その後二代目光国が完成した庭園で池を中心にして築山泉水庭になっている。
光国は当時、明の遺臣で我が国に亡命してきた朱舜水の意見を入れ
円月橋、西湖堤など中国の風物を取り入れている。
後楽園の名は范仲掩の「岳陽楼記」の「天下の憂いに先だちて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」
から後楽の字をとって名付けたと言う。
庭園は自然の美と人工の妙とを兼ね備え、四季折々の花々にも恵まれいる。
都会の憩いの場として親しまれ国の特別史跡と特別名勝に
二重指定され全国でも数少ないと庭園と言われている。


門を潜り琵琶湖に見たてた大きな池の左手を沿って歩く、小さな流れがあり

これは木曽川を模したもの、琵琶湖に木曽川とは少しおかしい様だが、

全国の名所をとり入れているとのこと。

やがて枝振りの綺麗な枝垂桜が見えてきた。  もう満開である。


枝垂桜

この木は60年の樹齢で、前の木は歳には勝てず枯れたそうだ。


庭園の周りはビルが建ち、折角の美観も損われがち。



枝垂桜を見て更に奥に入ると、嵐山をたとえ大堰川があり、

左には中国の西湖堤が造られている。


尾張の徳川園でも西湖堤を見たが、徳川一族では流行だったのであろう。



西湖堤の傍には嵐山の渡月橋もあり、高層ビルを背景に枝垂桜が栄えていた。

屏風岩を廻ると京都の清水に見立てた音羽の滝が柔らかく落ている。

滝の奥には枝垂れ桜越しに紅い通天橋が架かっている。

この橋の辺りは、秋の紅葉時期がいっそう美しいそうだ。



通天橋

通天橋を渡り坂を上がると得仁堂がある。 これは光圀が園内で建てた最古の建物で

彼が18才のとき史記の「伯夷列伝」を読み、感銘を受け伯夷・叔斉の木像を祭ったと言う。


これは光圀も兄、頼重との境遇が伯夷と叔斉の兄弟と同じで兄に代わり

跡目を継ぐ立場にあったからと言われる。


堂の名前は論語の「仁を求めて仁を得たり」より採られた。

「伯夷列伝」                            
殷の末、人々は皆、利を争ったが、伯夷・叔斉の兄弟は義を重んじて、互いに国の継承を
譲りあった為、餓死をしてしまう。 しかし、天下はそれを称揚したと言う。



  
得仁堂                       左の緑が小盧山
           

得仁堂を貫けると林羅山が”中国の盧山の様だ”と言ったことから小盧山と名づけられた。

若草の山から見える白い東京ドームが雪をかぶった山の様に見える。 



  
こちらは白糸の滝

庭園の北部に入ると白糸の滝があり、その上には中国風の石造りの円月橋がある。




丁度、池を半周した所より池中央の所に蓬莱島が見える。


やがて山あり、川あり、橋あり、亭ありの深山幽谷の庭も終りを告げる。


徳川光圀は「伯夷列伝」をよんでから人生の生き方に目覚め、

これが大日本史の編纂にもつながり、やがて水戸学にも発展していった。

その後、15代将軍となり、大政奉還を行った徳川慶喜も此方で生まれている。




後楽園を出て、飯田橋よりJRで神田に出るつもりが、総武線に乗ってしまい

次は神田かと思っていたら秋葉原、慌てて折返す。 

山手線に乗換え、やっと安心、神田に着き、地下鉄銀座線で浅草に向う。

浅草には10分程度で到着する。

地上に上がり、人並みの後を辿ると客待ちの人力車夫達が道でたむろしている

人込みの激しい所に出る。  そこが仲見世通りだった。

この混雑の中を人力車がどの様に走るのか、かなり骨が折れることだろう。

直ぐ先に雷門が見えている。


雷門

雷門を通り、肩や肘を擦りながら人垣を進む、小さい間口の軒を連ねた店屋からは

威勢のいいアンちゃんの掛け声が弾む。




昔からの土産物にあわせ新しく作られた土産物も目に付く、

特に外国人向けに作られたものが目立つ。 

仲見世も変わっていない様に見えるが、徐々に変わりつつある様だ。

しかし、土産物の種類の豊富さに驚く。

この辺りが徳川家に見捨てられても民衆に人気のあるところであろうか。

仲見世は家康の時代に寺の境内を清掃していた人達に商権として与えた店屋が

発展していったと言われるが、三代目家光の時代に父秀忠との軋轢から

徳川家の祈願所を上野の寛永寺に移したといわれる。

その為、浅草は一時は衰退したが、町民の力で盛り返していったと言われる。




押し合い圧し合いをして進むと、宝蔵門(仁王門)に出る。

こちらは三代将軍家光が本堂等と共に1649年に造ったが、昭和の空襲で焼失した。

その後、昭和39年に再建されたものだそうだ。



宝蔵門(仁王門)

昔は仁王門と呼んでいたが、何時の間にか門の中に宝物を置いていることから

宝蔵門と呼ばれる様になった様だ。


宝蔵門を貫けると本堂の前の広場に出る。


宝蔵門と本堂前広場

広場には大きな香炉から青い煙が立ち込めている。

こちらの香煙を体の悪い所にこすり付けると良くなると言うことで、歩喜人も

それを期待し、あちこちと身体を煙で撫でまわす。  御利益があるのかな


浅草寺本堂と広場

広場の左手には五重塔が聳えている。 

この塔にはスリランカより奉納された仏舎利が納められているそうだ。

塔は945年の創建で、現在のものは1973年に再建されたものと言われる。



浅草寺の起源は7世紀頃漁師が観音像を拾い上げ奉ったのが始まりと言われ、その後、

時代を経て家康が国替えで関東に移り、徳川家の祈願寺と定めて寺領11万5千坪を与える。

関ヶ原の合戦で勝利を治め、勝利は観音祈願の御利益と言うことから

人々が訪れる様になり街が活気ずいたと言われている。



本堂の参拝を済まし小腹が空いたので名物の人形焼を買い、ほおばる。

懐かしい味がした。 人間は一度味わった味覚は一生忘れないと言うが
正しい様だ。

それにしても、こし餡をカステラ状の衣で包み焼いただけの代物であるが

未だに昔の味にこだわり、続けているのに感心をする。


戻り道を雷門まで来ると、高校生風の女の子が、道の真中で

合成繊維で出来た艶やかな着物に着替えている。

その様子を友達らしい女の子が携帯のカメラで盛んに撮り、はしゃいでいる。

傍にいた外国人達も異様な光景に映ったのか、彼等も取り囲み写真を撮り出す。

最近の若い女性の勇敢と言うか、無謀と言うか常識と云う軸が変わってきた様だ。

暫し、その光景に見とれ、前の店をみると、同じ様な着物を外国人が買っていた。

価格を見ると、四千何がしの値段がついていた。


吾妻橋、アサヒビールモニュメント

帰り道、隅田川の桜の様子を覗いて見ようと、吾妻橋に向う。

目の前にアサヒビールの金色の雲のモニュメントが夕日に輝いていて、

皇居前であったインド人達を又、思い出す。

吾妻橋の上から覗くと、桜はビルの陰で黒く見え、未だ二・三分咲きだった。


引き上げ地下鉄に乗る。  これから六本木に出てぶらぶら街でも見て

森ビルで夕食でもと思っていたが、家内が疲れたと云うので、

弱いものには勝てず、ホテルの食事となる。

HOME  つづく