東 京 今 昔 3
06.3.26〜3.28

湯島天神・旧岩崎邸・上野

今日は最終日、地下鉄銀座線にて上野広小路まで出る。

地下鉄を降りると、上野の山には桜が咲いているのが見えた。

上野広小路交差点より春日通りを本郷へ向け歩き天神下の交差点に来ると

湯島天神への道案内があった。 それに習って左に折れ、次に右に

路地を入ると、階段の上に、湯島の白梅で有名な湯島天神が見えた。

緩やかな階段があり、その上がり口に女坂と表示があり、それを登る。

途中に踊り場が設けられ、確かに女性の向けの階段らしい。

登って見ると本殿の右手に出て、左手には踊り場のない急勾配の男坂があった。


  
女坂                                     湯島天神の本殿      

こちらは元、手力雄命を奉ったのが始りで、道真公を奉ったのは1355年と伝えられている。

五代将軍綱吉が上野の山に林羅山が建てた孔子廟を湯島に移させ、湯島聖堂として

勉学を奨励したことから湯島天神にも学門の神として参拝者が急激に増え、

この地域が文京地区に発展していったと云われている。

  境内には300本の梅が植えられ、泉鏡花の「婦人系図」お蔦と主税の舞台、

♪知るや白梅、玉垣に残る二人の影法師・・・♪ 

小幡 実のこんな歌が口をつく。

残念ながら梅はすっかり散りはて花の額だけが残っていた。


花の額だけの白梅

境内の庭には泉鏡花の筆塚や水谷八重子等により立てられた新派の碑などがある。

聞いて頂けるか? 認知症にならない様に、天神さんにお参りをして、お暇をする。



里見惇達により立てられた泉鏡花の筆塚

帰りは正面の鳥居より出て、右に行くと湯島天神入口の交差点で

坂道と出くわす、この坂道は、切通し坂といい、石川啄木が朝日新聞社に勤めていた時代、

享年27才の儚い人生の死期が迫っているのも知らず、本郷の下宿からよく通った道と云う。

「東海の小島の磯の白砂に我泣きぬれて蟹とたわむる」

この頃の短歌である。

そこを左折し、切通し坂を下りて行くと湯島天神の夫婦坂があった。

本来は此方から参拝すべきだった様だ。

湯島天神を過ぎ、左への路地を入ると、旧岩崎邸らしい門構えのがあった。

やはり、岩崎邸だ。 早速、中に入る
。  我々が朝一の客の様だ


旧岩崎邸門

門より邸宅まで長いアプローチが続き、左手に曲がった所に

コートダジュールで見る様なルネサンス風のエキゾチックな建物があった。

こちらは元三菱創設者の岩崎弥太郎の本邸であったが、

その後3代目の久弥が現在の建物をジョサイヤ・コンドル

(鹿鳴館やニコライ堂の設計者)に依頼し、明治29年に建築した邸宅で以前は

今の敷地より大きく南と東側に敷地が伸びて20棟もの建物があった。

戦後はGHQに占領されキャノン機関が使用していたが、

現在は重要文化財として都が管理をしている。


この他、駒込の六義園、江東区の清澄庭園にも別邸を持っていたそうだ。



弥太郎が三菱財閥を発展させた要因は同じ土佐藩である後藤象二郎と

少林塾(吉田東洋主宰)で出合い、その後、後藤が藩の要職つき、

彼より藩の開成館の業務を任され、物資調達と海運をおこなったことにより、

海援隊の坂本竜馬やイギリスの武器商人グラバーとも交流ができ世界経済を学んだ。

維新の廃藩置県の時、海運事業の払い下げを受け、海運と商社の九十九商会を興す。

その後、三菱商会となり新政府の台湾出兵や西南戦争での軍需輸送へ協力し、

財を成し、政府との関係を深め、成長していったと言われる。



外壁の彫刻の華麗さに驚く




1階、階段ホ−ル柱と梁の木造彫刻



  
二階客室                            二階集会所    




 
洋館の二階ベランダの列柱頭にイオニア式の装飾がある。




本館東側、ガラス張りの多いサンルーム




南面ベランダの列柱前に芝生庭園が広がる



   
   日本間への渡廊下、船底天井足元の明り取り            大広間 座敷                          




和館大広間の濡れ縁と庭

以前は芝生庭園が池となり、大名庭園の形式であったが洋館建築時に変更され、

大広間前の手水鉢や庭石、モッコクの大木にその面影を残している。



和館外観とモッコクの大木

岩崎邸を出て前の道を左に向うと辻があり、左に折れると、有名な森鴎外の小説「雁」

に出てくる青年が格子の家に囲われた女性に出会う無縁坂である。


無縁坂、左の石積と煉瓦の塀が岩崎邸

我々は右に廻り、不忍池西に出て、弁天堂へ渡る。

桜堤は桜が満開で、不忍池には色々の水鳥が春を謳歌していた。


不忍池西より見る弁天堂

弁天堂の参道には桜の季節で屋台が出ている。





天龍橋を渡り階段を登ると上野公園に入り、平日と云うのに賑わっていた。

桜並木越しに清水の観音堂が見える。 維新、上野の戦いで焼け残ったのが

この観音堂と五重塔、東照宮と霊廟だそうだ。


清水観音

上野は江戸を開いた徳川氏の菩提寺である寛永寺があり、天海僧正が徳川家の

安泰と江戸城の鎮護の為に鬼門に当るこの地に寺を建てたのが始りだそうだ。

幕末には幕府の彰義隊が立て篭もり、多勢に無勢、新政府軍の

アームストロング砲により、敗れていった悲劇の場所である。

明治に至り新政府は、寛永寺の焼け跡に病院を建てようとしたが、

自然を重視するオランダ人ボードウイ博士の強い進言で、

現在の自然豊かな公園が造られたと云われる。

彼等は自分の国を水の上に築いたと言う人達であり、江戸の200年先の

都市計画を描き見とおしていたのであろう。




桜並木には青いシートを地べたに敷きサラリーマン風の若者が、

今夜の花見の場所を取り、手持ち無沙汰の顔で、恨めしそうに桜を見ていた。

動物園前の広場に来ると小学生の団体や地方から来た観光客で賑わい、

我々は先ず左ての鳥居の東照宮へと向う。

石畳の道には各大名から寄進された石灯籠が両側に並んでいる。

その参道には桜見を当てこんだ屋台が店を出し、花より団子と言った様相。


東照宮参道

参道より暫らくして五重塔が右手に見えてくる、動物園の敷地内に立っていて、

此方からは立ち入れない様だ。 この塔は1637年に大老職の土井利勝が

寄進したものであるが、現在は寛永寺のものでなく都が管理しているそうだ。


旧寛永寺五重塔

やがて、正面に東照宮東照宮が見えてくる。

この社は家康の遺言によるもので、1627年、天海僧正と藤堂高虎が建立し

その後、家光の代に大改築したのが現在の建物で徳川家康が祭られている。


本殿奥と唐門

唐門から本殿を巡らした菱の格子塀など三河の東照宮と良く似ていて、

唐門は重文に指定され、金箔朱漆で仕上し、松竹梅の透かし彫りが為されている。

両側の金塗りの枠には昇り竜と下り竜が掘られ、左甚五郎の作といわれる。


唐門

各地の東照宮は家光の代に普請された物が多く、金も掛けられている。

家光は国を治める為、余ほど東照大権現様の威光の必要を感じたのであろう。


各大名が奉納した青銅製の灯篭




御三家の奉納灯篭

青銅製の灯篭では日本で一番大きいと言われている徳川御三家の奉納したもの。

この後、国立博物館へ

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