トルコ古代遺跡めぐり
2002.11.2-11.12

訪問先

シンガポールイスタンブールチャナッカレ(トロイ)ベルガマ〜エフェソス

パムッカレ
コンヤカッパドギヤボアズカレイスタンブールシンガポール

この紀行文は以前、トルコに行った時のものをまとめたものであり、現在状況とは多少の違いが

あるかも知れないのでお含み願いたい。 古代遺跡といえばエジプトやギリシャ、イタリアが有名で

あるが、最近はトルコが新規の発見もあり見直されていると言う。 トルコは西アジアと東ヨーロッパ

を結ぶ文明の十字路と言われ、世界三大文明のメソポタミアの一地域でもある。今回はイスタンブ

ールよりアナトリア地域八箇所の延べ2450kmをバスで廻るキャラバンである。 中部空港よりは

トルコまでの直行便がないのでシンガポールまで飛び、シンガポールでデュバイ経由イスタンブール

行き便まで時間があるので、12・3人乗りでのクルーズで、シンガポールの街を運河より見物する。 

こちらではマンションが5000万円から1億円するそうで手が出ないとガイドが言う。確かにどこでも

資本主義の国は物価が上がり勤労者を苦しめる。  そんなことを思いながら、クルーズを終わり、

クラークキーに上がる。クラークキーとは盛り場でレストランやバー、カフェが並ぶエレアでSF映画の様

な色が変わる巨大な屋根に覆われたストリートやUFOの様な形のオープンテラスが並ぶナイトスポット

で大勢の人たちが食事やワインを楽しんでいる。 またプロムナードからの夜景が美しい。我々は食事

を済ませ、水を吐き出し青白く輝く マーライオンを見て夜の空港へと向う。 フライトは23時50分発

のシンガポール航空である。


クルーズより見るシンガポールのビル群


イスタンブル

イスタンブルはアジアとヨーロッパの大陸にまたがる都市で、その間を通るボスポラス海峡は黒海、

マルマラ海、金角湾に注ぎ込んでいる。 イスタンブールは、かつてローマ帝国、ビザンチン帝国、

オスマン帝国という3代続いた大帝国の首都でもある。 そのため過去の遺産も数多く残している。

人口880万でトルコの文化、経済、学術、観光の中心である。市域は、ヨーロッパ側はコンスタンチノー

ブルと言う旧市街区を中心にマルマラ海沿いに伸び、金角湾を隔て北へも広がっている。 アジア側は


ウシュキュダル、カドゥキョイ地区などからなる。 昔は皇帝自身の名前をとってコンスタンティノープル

と呼んでいたが、オスマン・トルコ時代からイスタンブルと呼んでいる。




ボスポラス海峡 アジア側・イスタンブール駅

翌朝、7:00時、イスタンブール空港に到着する。 少し小雨での市内観光に入る。 まずブルーモスクの

北西側にあるヒッポドローム(競馬場)という広場に行く。 337年のローマの大競技場跡で、長さ500m

あり、コンスタンティヌス帝によって造られた。 広場には3本のオベリスクが建っていて、1本はエジプトの

カルナック神殿のものを持ってきた。古代エジプトのヒエログリフ(象形文字)が彫られ、紀元前15世紀の

エジプトのファラオ・トトメス3世を讃える碑文が刻まれている。 2本目は蛇の柱で蛇が螺旋状に棒に巻き

ついた感じで、西暦前479年に、ギリシアがペルシアとの戦争で勝利をしたことを記念して、ギリシアの

デルフォイのアポロン神殿に立てられていた記念碑で、コンスタンティヌス帝がこの地に運んだとされる。


最後のオベリスクは元は青銅で覆われたものであったが、13世紀初頭、ヴェネチア商人が十字軍として

進入し、貨幣鋳造のために青銅を削り取ったと言われている。 この後、世界遺産であるブルーモスクへ

と歩く。 ブルーモスクは内部が青いことから呼ばれる俗称で、公式には「スルタンアフメト・モスク」と呼

ばれオスマン帝国時代の第14代スルタン・アフメト1世により1609年から7年の歳月をかけて建てられた。

世界で唯一優美な建築と言われ6本のミナレット(鉛筆のような塔)が立ち、直径27.5mの大ドームを持つ、

内部は数万枚のイズニクで製造された青いタイルやステンドグラスで飾られ、白地に青の色調の素晴ら

しいモスクである。 普通スルタンの令で作られたモスクは4本のミナレットであるが、こちらが6本になった

のは言い伝えによると、スルタンから”アルトゥン(黄金)で作れ”と言われたのをアルトゥ(6)と聞き間違

えて6本のミナレットのモスクとなったと言われている。 



スルタン・アフメトモスク

ブルーモスクを見て、トラムの通る道路に出る。地下鉄の様な入口の建物を入って行くと、そこには

「地下宮殿」が広がっている。 此処は東ローマ帝国時代に作られた大貯水槽で水槽は長さ138m・

幅65mの長方形の空間で高さ9m、1列12本で28列の大理石の円柱が並ぶ構造となっていて78,000m3

の水を貯えることができる。 当時は戦争が多かったため水道橋をこわされても水の確保を行うため街

の中に幾つかの貯水槽を設けていた。 15世紀に、この地をオスマントルコが征服し、この地下貯水池

を見たときに、多数のギリシャ式の円柱で支えられていて宮殿の様に立派だったことから地下宮殿と名

付けたそうだ。 嘗ては、こちらは柱廊によって囲まれた中庭を持った空間で、そこを壊して地下貯水場

が作られたため、アカンサスの柱頭を持った円柱が多い。 水の中には多くのコインが投げられていて

縁起でもかついで投げ入れたのであろう。 一番、奥の所には、メヂューサの頭が土台にされていて、

その顔が横向きと逆さのものがあり、実に不気味な感じがした。 メデューサとはギリシャ神話に登場す

る怪物で蛇の頭髪を持ち覗き込むと石になるという瞳を持つ女で、海の神であるポセイドーンの愛人で

ある。 *アカンサスとはハアザミのことで古代ギリシャでは装飾のモチーフによくもちいた。


地下宮殿と呼ばれる貯水場の列柱

地下宮殿を出てアヤソフィア寺院を見る。 アヤソフィアはブルーモスクの向かいにあり、あたかも

一体に建てられたかの様に庭園で囲まれ、ブルーモスク同様、イスタンブルの歴史地区の中心的

な建物でユネスコの世界遺産である。 アヤソフィアとは”聖なる知恵”と言う意味で、東ローマ帝国

時代にキリスト教の大聖堂として建てられ、1054年、東西教会に分裂の後はバチカンのカトリック

本山と東はビサンチンの正教会の本山となった。 その後1453年にはオスマントルコにイスタンブ-ル

は征服されイスラム教徒の都となった。 建物は6世紀の建造で老朽化が進み崩壊を防ぐため、天井

のドーム53mの高さまで支持の補強鉄骨が組まれていて日本人にはかなり、危うく見える。 内部は

漆喰で飾られて壁面や天井には一部モザイクも残っているが、かなり剥げ、イスラム時代になりモスク

に改装されたため説教壇も設けられていて、彼方此方にイスラム文字のコウランの教えなどが掲げられ

ている。 また金箔のモザイクのイエスやマリア、ヨハネや皇帝などの装飾も残されている。 また外部

には4本のミナレットも立てられているが違和感は感じられない。現在は教会でもモスクでもなく歴史的

な建築物の傑作とし博物館としていると言う。 



アヤソフィア寺院

アヤソフィアを見て大きなレストランで昼食をとる。 名物のトルコパイである。 こちらでは水の

ことをスと言うそうだが、熱い飲み物は食事の後で出るそうで、食事前に欲しい人は注文して

下さいとのガイドの案内。 トルコは今、丁度、ラマダーン(断食)の期間で一般人は日没から

日の出まで断食となるそうだ。 但し、観光客は対象外だそうだが、トルコは比較的シビアー

でなく老人や、外国人相手のガイドなどは免除されているそうで、我らの女性ガイドも食事が

可能と言っていたが、余り目立っ食べ方はしないと言っていた。 彼女は大学の先生が本職で

ガイドは内職だそうだ。 またトルコではトイレでチップが必要な所もあり、”25万〜50万リラ”

程度のチップを用意して入って下さいとのことで、数字の桁違いの多さに、皆さんどっと大笑い。


因みに枕銭は100万リラ、ドリンクは100万〜2000万リラと来る。レートは\1000=1000万リラ

と大インフレで紙幣が多くて、換算に脳が混乱する。 食事を終え外に出ると、アイスクリーム屋

がトルコの延びるアイスクリームを押し売りに来る。 これより、チャナッカレまで310kmを走る。

道中はマルマラ海に沿って走り、この辺りは第1次大戦時はガリポリの戦いが行われたところ。

 ダーダネル海峡を渡りアジア側へ。 チャナッカレは10万人程の小さな都市でアジア・ヨーロッパ

にまたがるダーダネル海峡を持つ海峡交通の要所でもある。  チャナッカレの港からは対岸の

ヨーロッパへと渡るフェリーも多く出ている。 こちらは「トロイ遺跡」へのアクセスの拠点として

の街である。 今夜は、こちらのビュユック トゥルワホテルで泊まる。 ダーダネル海峡の海に

面して立つリゾートホテルである。 翌朝は25km先の小アジア半島北西端にあるトロイ遺跡

に向う。 間もなく木に囲まれた小高い丘があり広場にバスを止める。 入口を入ると、遺跡ら

しく糸杉が生えているのが見える。 その先に「トロイの木馬」が目に入る。  これだ!!


ト ロ イ

 「ホメロスの叙事詩」に出てくるトロイの木馬である。 こちらはドイツ人のシュリーマンが1870年

から3年を費やして掘り当てた遺跡で、叙事詩「イリアス」によればトロイは王妃ヘレネをめぐり

ギリシアと10年に及ぶトロイ戦争を行い「トロイの木馬」のオトリにより、一夜にして落したと言う

伝説の処。


トロイの木馬は伝説上のもので神話を元に複製した

シュリーマンは多くの財宝を見つけギリシア軍に攻め落とされたトロイ王の名から「プリアモスの財宝」と名付けた。

そのご、考古学者が第1市から紀元前350〜400年頃のローマ時代の第9市まで9層にわたる都市の跡が発見され

トロイ戦争より1000年以上も古い時代のものであることが解り、彼が掘っていたのは、紀元前2600〜2300年ごろ

の第2市であることも分った。 この様にヒッサリクの丘はエーゲ海に張り出した古代の遺跡の宝庫であった。



トロイ最盛期の第6市の遺跡

次いでチャナッカレよりはエーゲ海沿いをベルガマへ230kmを走る。 エーゲ海が見え、ギリシャ領

の大島も見える。 背の高いポプラやオリーブの植栽も見え、新しい住宅や別荘風の建物も見えて、

裕福な様子が窺える。 だんだん丘陵に入り樹木も多く緑が多くなる。 やがてベルガモンの街に入ると、

賑やかな街並みで人も多い。 ビルの窓枠がギリシャ風に白く型どられ、60年前まではギリシャ人が多く

棲んでいたそうだ。


ベルガマ

 この都市はエーゲ海に面したエフェソスと並び、アレクサンダー大王の死後のへレニズムの時代 

BC3から2世紀のベルガモン王国の都として栄えた所で、カイコス川の河口に開けた丘陵には、

アクロポリス遺跡や大劇場、トラヤヌス神殿などローマ時代の遺跡群が広がっている。 この遺跡は

1860年代に、ドイツの建築家カール・フーマンにより発見され、出土品はベルリンの世界的な博物館

「ベルガモン」に保管されている。 アクロポリス遺跡は「高い都市」と言う意味で、標高が300mを越え

る山の上にあり、下へと続いている。 丘を登り、まず第一はトラヤヌス神殿である。 こちらのシンボル

的な存在でグレコ・ローマンの建築様式で柱頭にアカンサス彫刻を持ったコリント式や、イオニア式の

渦巻き飾りのある柱頭の大理石で出来た列柱が残っている。かなり風化はしているが、その石積みの

技術と彫刻は素晴らしく、往時の石工のレベルの高さに驚かされる。 この神殿はトラヤヌス皇帝の死後

ハドリアヌス皇帝が建立したものと伝えられている。 次いで大劇場のスケールのでかいこと、この高い

位置に、これだけの石材を搬入したと言うことは、市民にそれだけ重要な役割を果たしたと思うのだが

ガイドの話では、主に市内を展望するために使われたと言う。 しかし街を展望すだけでこれだけ多くの

座席がいるのだろうか?? ちょっと腑に落ちない。

坂を下ると、この他にも精神治療や泥風呂などの病気治療の施設や図書館跡などが残っていた。



トラヤヌス神殿




大劇場・観覧席と城壁




下に見えるはベルガモンの街 大劇場に立つ教授のガイドさん

昼食を挟んで、エーゲ海地方屈指のリゾートの地、クシャダスへと向う。 午後の太陽にきらきらと光る

エーゲ海を右手にホテルまでは180kmの行程である。 クシャダスは古代都市エフェソスの港として

発展してきた街で、BC2世紀頃には聖母マリアとヨハネがこの辺りに生活していたと伝えられている。

その後、11世紀にはテュルク人の支配する時代となり、キャラバン達のオリエントに向う基地となった。

 バスはクシャダスの街に入って、大きく湾曲した砂浜が見え、大きなホテルも建ち、エーゲ海クルーズ船

も停泊している。 我々はシーサイドのスルメリエフェス・ホテルである。 台形型をしたリゾートをそのまま

にした様なホテルで入ると、大きな横に長い大理石のホ−ルがあり、床には宮殿風に模様のデザインが

なされ壁にはエフェソスの遺跡が描かれローマの雰囲気である。 部屋も大きくゆったりしていて、窓から

は青いプールが見え、その先に波打ち際が見え、申し分のない1級のホテルである。 今夜はこちらで旅の

疲れを癒すこととする。 


エフェソス

翌朝、本日はエーゲ海最大の遺跡があるエフェソスに行く。 こちらからは25kmほどある。  エフェソスは

紀元前から栄えた交易都市で、当時はローマ、アレクサンドリアに次ぐ世界で三番目に大きかった都市

であり、アナトリア半島の首都でもあった。
 この辺りは小高い山が多く緑も多い大きなポプラの木が多く

見られる。 やがてオリーブの樹が生い茂る山道に入り、曲がりくねった坂道を登って行くと遺跡が見え

てくる。 この辺りは掘れば遺跡が出てくると言う。  更に進むと生い茂った木に囲まれた広場に駐車し

ぶらぶら木立の道を歩くと「聖母マリアの家」に着く。 小さなレンガ造りの建物であるが、中を覗くと祭壇

とマリア像があり、今は教会になっている。 傍にプールがあり礼拝に来たキリスト教徒が洗礼した水だ。

キリスト磔刑の後、ヨハネはマリアを連れて、この地で余生を過ごしていたと言われている。


聖母マリアの家

マリアの家を見て、バスで少し山を下りた山間の処に、ゲートがあり、エフェソスの大遺跡が広がっている。

エフェソスは古くはイオニア人(ギリシア人)が殖民した都市であったが、今の遺跡は紀元前2世紀以降の

ものが多く、シーザーが暗殺された後、権力を握ったアントニウスがクレオパトラと滞在したところでもある。

ゲートを入るとクレディア通りが伸び、右手に浴場や音楽堂があり、左手にはアゴラ(市場)がある。 更に

進むと、右手にハドリアヌス神殿があるが、レプリカだそうで本物は博物館に納められている。 その近くに

公衆トイレや娼婦の館なども見られる。 



ハドリアヌス神殿

2世紀に建てられたもので、アーチのレリーフにはギリシャ神話のメデューサや女神のティケ

が彫られ梁には古代神話の物語が彫られている。 更に進むと通りの突当りに図書館がある。

ベルガモンよりは小さいが、当時1万冊を越える書物を納めていたという。 道は右に曲がり、

左はアゴラ、右には大劇場がある。 こちらは収容能力が2万人越え、奴隷と猛獣、剣闘士の

戦いを見せていた。 大劇場のところで道は左に折れ、通りは港までが延びていた。




アレキサンドリア、ベルガモンの図書館と並ぶ世界三大図書館の一つであった。




大劇場

こちらの劇場はベルガモンと違いローマン式の円形劇場でオーケストラや

ライオンや奴隷を囲っていた。



港まで伸びていたアルカディアン通り、側には体育館や浴場が建てられていた。


エフェソスの遺跡を出て、少し離れたセルチェクの街にアルミテス神殿がある。 紀元前550年頃、クレタ人に

より神殿は建てられ、神殿は広さが縦115メートル、横55メートルで、径が1.9m、高さ18メートルのイオニヤ

式の柱127本が立てられて、神殿内部は大理石の板石で飾られていたと言う。 神殿の奥には高さ15メートル

のアルテミス像が置かれ、その像は木製で顔と手足の先以外は黄金や宝石で飾られていたと言う。


*アルミテスはアポロンと双子の清純な女狩人で豊穣多産を象徴する多数の乳房を持っていて、

この女神の象徴は蜂であった。 この偶像の複製や縮小したものが出回り、現在も残っている。



アルミテス神殿 エフェソス

現在、神殿の柱はただ1本だけが残っている。 左手奥の高い建物はビザンツ時代の城塞で、

その前はセルジュク・トルコの寺院である。 神殿の柱の背後に見える建物が、聖ヨハネ教会である。

ギリシャ人に信仰されて来た豊穣の女神アルミテスのヘレニズム文化も共和制ローマの支配となりエフェソス

の人々キリスト教に変わり、アルテミス神殿もその魅力を失って神殿は破壊されてしまった。 その残骸の

石材は他の建物に使われ、柱はアヤソフィア建築にも使われたそうだ。 またキリスト磔刑後、聖母マリヤトと、

こちらを訪れたヨハネは、こちらの聖ヨハネ教会の墓地に眠っている。 神殿を見た後セルチュクの街でシシカバブ

の昼食をとりパムッカレへと走る。 到着まで185km、山並みが続き、高いポプラの木やオリーブの木が見える。

畑には今は綿の木が植えられているが、春はイチゴが栽培されるそうだ。 畑仕事が済むと男性は遊びに熱心

だが、女性は家の中で遊ぶそうだ。 やがて小高い薄黒い丘陵が見え、糸杉の木が多く植えられている。


パムッカレ

こちらがパムッカレの北の玄関のネクロポリス(死者の街)である。 パムッカレはアナトリヤのエーゲ海側か

らは内陸部に入った位置にあり、トルコ語で「綿の宮殿」という意味である。 昔からこの辺りは綿花の大生産

地と言う。 パムッカレには真白な石灰で出来た棚に温泉が流れると言う景観の温泉保養場と ヒエラポリスと

言う古代遺跡がある。 ネクロポリスは、その一部でヒエラポリスの共同墓地である。 茶色い丘陵に石棺が

山の様にある。 蓋が平面のものや山形のもの、また土を盛った饅頭のものもあリ、大きな部屋を持った人が

入れるものもある。 古いものは多神教のものが集まり、十字のあるキリスト教のものもある。古代墓地の規模

としてはトルコ最大とのこで、1000以上の墓があると言う。 黒い土の墓地の道を南に向って行くと、

やがて大通りの遺跡門が見えてくる。




ネクロポリス(死者の街・墓地)

こちらが古代都市で紀元前2世紀、ペルガモン王国のエウメネス2世により建設され、古代ローマ時代

の後、1世紀から2世紀にかけて建造された都市で、円形劇場や公衆浴場などの遺跡がある。



ヒエラポリス大通り北門

糸杉に囲まれ、北門の奥にはローマ時代の円柱が並びアゴラ(市場)のあとである。



ヒエラポリス・浴場遺跡

道を、更に進むと、パムッカレの丘の上に、白く雪が降った様な高台が見えてくる。 こちらが

世界遺産の白い石灰棚の温泉が流れるパムッカレの保養地である。 温泉は熱いのやら温い

ものと色々あり、入口の石灰棚には水路があり、その水路に腰を下ろし、足湯をしながら、

夕暮れの景色を眺めていると、遠く昔のアナトリアの人々の営みが幻影の様に浮かんでくる。



白く広がる石灰棚とパムッカレの街




温泉に足をつけ楽しむ人たち

日が暮れて、全ては見ることは出来なかったが、ヒエラポリス博物館を覗くと、温泉プールがあり、

湯温は35℃前後と高くなく、プールの底の源泉からは、泡とともに湯が噴き出している。 底に

ローマ時代の彫像や円柱が湯の中に、ごろごろと倒れ込み、その中で水着姿の温泉客が泳ぎ、

楽しんでいる。 こちらでは1354年に大地震があり、建造物は壊れ、街も廃れていったそうだ。

今は何もなかった様に、美しい石灰棚の景色の温泉保養地として世界遺産に登録されている。

日も暮れ、今夜は、こちらのリッチモンド・サーマル ホテルで一夜をとる。 ごく普通のホテルで、

ロビーの前にはプールがあり、温泉も出ている。


翌朝は、6時の朝食の後、早々と、コンヤまで430kmを走る。 パムッカレを出ると、道幅も広く

舗装された快適な道路が続く。 バスは小気味良いエンジン音を響かせてアナトリア高原をまっしぐ

らに内陸部へと進む。 何と、いっても信号がないのが一番で、心地よいドライブである。 しかし、

昔の駱駝のキャラバンは、歩みを繰り返し、目的地へと、このシルクロードを通ったのであろう。

ポプラやオリーブの樹木の緑がの丘陵地帯を通り、砂漠の平原に入る。 暫く走ると、新しい街を

建設中か中層のアパートらしき建物が平野の中に多く建ち入居者を待ちかねている様である。

やがてバスはコンヤの街に入り、人も多く、トラムも走っている。


コ ン ヤ

コンヤはアナトリア高原の南部にあるが、平原の様な平坦地で北にはアンカラがある。 人口は

90万人で、トルコ第三の都市でだある。パウロがキリスト教の布教に訪れたことでも知られ、トルコ

随一の宗教都市で 踊るイスラム神秘主義教団であるメヴレヴィー教団の発祥地として広く知られ

トルコ国内各地から訪れずれるムスリムがモスクを埋め尽くすほどと言われ、賑わいを見せている。

また古くはセルジュク・トルコ時代には首都でもあった。




メヴラーナ博物館

メヴラーナ博物館は、トルコ石の様な緑の尖塔の屋根を持つ印象的な建物で、旋舞のメヴラーナ教団の

創始者ジェラルディン・ルーミーの霊廟で、教団の発展に尽くした名僧たちの霊廟、資料室、修行場がある。

アタチュルク(トルコ初代大統領)の宗教分離政策により教団は解散され、旋回舞踏は禁じられ、1927年に

霊廟は宗教色を薄める形で博物館となったと言われるが、中に入ると、オレンジ色に輝き、コーランや絨毯が

飾られ、霊廟に移ると、室内は天井から壁まで隙間なく装飾の金色のアラビヤ文字で埋められ、館内全体が

黄金に輝いている。 多くの高僧の棺があり、その上に置かれた帽子の大きさでイスラムの僧侶の位が表さ

れているという。 最奥に安置された創始者メヴラーナの棺は最も大きく重厚で豪奢な眩いばかりの装飾が

施されていた。 霊廟の隣の資料室にはムハンマドのあごひげを納めた小箱も展示されており、信者の皆さん

か熱心に見学をされていた。 やはり博物館と言えども、霊廟もあり、女性はスカーフを頭に被っていた。



メヴラーナ博物館の入口 赤いビロードが下がっている。それを開けてはいる。

中庭には身を清めるための噴水も出ている。 メヴラーナの拝観をして、バスで一直線に伸びた

シルクロードを走り、キャラバンサライによる。 日も暮れて到着時には暗くなっていて、全体像が

つかめなかった。 説明によると、この建物は1200年代のセルジューク・トルコの時代に建て

られたもので、内部には宿泊所、売店、診療所、食堂、炊事場などが揃っている。  ラクダによる

一日の歩行距離は40Kmぐらいで、トルコではキャラバンサライが40個ほどあったそうで、宿泊

は勿論であるが、盗賊などの略奪、暴行などの危険の回避と旅の情報交換などのために設けら

れたそうだ。 キャラバンサライを駆け足で覗き、次のカッパドギアへと急ぐ。 秋のつるべ落とし

と言うが、日の暮れるのが確かに早く旅人泣かせである。


キャラバンサライ

とうとう暗闇の中のシルクロードを走ることになる。 そとは何も見えず、旅人には残念な道中である。

ガイドが気をきかし、話を始める。 このトルコの中央部を横断するシルクロードは、遠く中国の西安を

発し、中央アジアに入り、幾つかに枝分かれして、その中の一本が、アナトリア高原に入って来ている。

カッパドキアやコンヤとを通って、終点のエーゲ海に面した港湾都市エフェソスまでつながっているそうだ。

我々は夜中でも100kmを越えるスピードでの旅であるが、彼らの時間の深さとは味わいが違がおう。

我々は時間に追われて、20日ネズミのように車を廻している様なものである。 文明は多くの地球の

エネルギーを費やし、貧富の格差を広げていく。 どうしたものか・・・ コンヤからカッパドギヤまで

300km、漸く、明るい光が見えてきた。 カッパドギアだ? カッパドギアとはアナトリア中央部の

高原地帯で、今夜は、その観光の拠点となるユルギュップ市の「ムスタファ・ホテル」に宿泊する。

ホテル前にプールを持つ五階建ての中規模のホテルである。


カッパドギア

カッパドキアは約3000万年前に周辺にある3つの火山(エルジエス、ハサン、メレンディズ)の爆発があり

ユルギュップ高原は火山灰や泥に覆われ、火山灰は時がたつにつれ柔らかい凝灰岩となり、侵食をされて

ぺリバジャラル(妖精の煙突)と呼ばれる奇岩群や様々な形をした谷が形成されたと言う。


朝ホテルより見るユルギュップの風景

朝起きて見ると、木のない赤茶けた山の中腹には穴が開けられ住居があり、100年前まで住んで

いたが、今は山裾の住宅に移っている。 こな辺りは土地がやせていて、ぶどうとジャガイモを栽培し

ているが、ぶどうは皮が固いことからあまり作られていないという。 朝食を済ませ、セルベの谷の

奇岩群を見に行く。 自動車用の綺麗な道路が付けられ、辺り一面の丘陵が尖がりの奇岩で

埋められている大地が何処までも続く。


ゼルベの谷 奇岩群

次いでパシャバー地区に行くと、真っ白な石灰石の丘の斜面を登り、丘の上に出ると、その展望が素晴らしく

360度のアナトリア高原が広がり、奇岩の不思議な風景が飛び込んで来る。 一面真っ白な石灰石地表がむき

出した台地が、秋の太陽に輝きまぶしい。 その台地でキノコ岩群が広がる平野に向って丘を下りる。 奇岩の

先には道路が横断し、駐車場のバスまで歩く。 この後、バスでギョレメの洞窟住居へと行く。 古代ローマ時代

の後期、ギリシャ人のキリスト教徒たちが、異教徒を怖れて岩盤に穴を掘り、地下までも掘り下げて地下都市を

作っていた。 キリスト教の修道士たちは洞窟で外敵から身を守りながら過ごし洞窟内に教会までつくり、

フレスコ画によりイコンを描き信仰に勉めていたという。


石灰石の白い丘陵より見る「きのこ奇岩群




紅葉の三角棒を被った奇岩 パシャバー地区




ギョレメの洞窟住居

地下都市は、古代のヒッタイトによって造られ、その後キリスト教徒がアラブ人の迫害から

逃れるため地下に移り住んだというのが一般的に伝えられているが、洞窟内はかなり、

狭く、常時、棲んでいたのか疑問も残る。 誰か見張りでもおき、普段は洞窟外で生活しで

いたのではないだろうか? お昼になり洞窟レストランで食事を取り、近所のトルコ人家庭

でチャイをよばれる。 一般の人はラマダンに入っていて恐縮の至り、我々も一年に一度ぐ

らいは、飢餓の気持ちを味あわないと、人間欲望三昧となりがちである。 貧者の気持ち

を思いやる為にも、良い教えと思う。 人間とかく傲慢になり勝ちだから・・・


午後は鳩の谷の展望台へと向う。 途中、バスを止め、「きのこ奇岩」の間から見えるエルジエス山

を見る。 生憎、山頂に雲がかかり、ちらりと裾を見せただけであった。 エルジエス山はアナトリア

高原で一番高い火山で、数億年前に形成され、この山の噴火がカッパドキアを生み出したそうだ。

こちらを見て、鳩の谷の展望台へと高原風景を楽しみながらバスすを進め、展望台の土産物店が

軒を並べる駐車場に止まる。 鳩の谷と「ウチヒサルの要塞」と言われる尖がり山が見える。



エルジエス山 3916m




鳩の谷展望台から見るウチヒサ−ル奇岩群と密集した住宅地

ウチヒサールは嘗ては「尖った砦」という意味の巨大な一枚岩の外的を防ぐ要塞となっていたが、

今では斜面いっぱいに住居が広がり、地下には1キロの長さの通路があり、近隣の川まで地上に

出ることなく水を調達できる言う。 ところで、こちらの土産店で色々な彫像のレプリカを並べている

ので、その中に「豊穣の女神・アルミテス」が並べてあり、珍しさにそれお買う。 店の主は包装する

といって奥に持ち込み、青い紙に包んで持ってきてくれた。 良い買い物をしたと思っていたが、旅行

を帰って開いてみると、何と豊穣の女神が薄汚れたマリア像に化けていた。国が変わると事情も違う。


本日の予定は以上で終わり、夕食は洞窟のレストランで、ベリーダンスやこちらの寸劇などを見な

がらの食事となったが、途中、ベリーダンスに誘い込まれ、踊りも出来ないのに無理やり腰を振り

見られたものではなかったろうに、それが、また受けるから皮肉なもんだ!人汗かいて、ジ・エンド。


ムスタファ・ホテルで2日目の朝を向え、今回のツアーも早いもので、もう8日目となった。

カッパドギヤの自然の造り出した不思議な景観と、その地形を利用した遺跡とも別れ、今日は

更に古いヒッタイト王国の首都のあったボアズカレへと230kmを走る。 バスはアナトリアの

中央高原を進み標高は更に高くなる。 見渡すと谷と丘が重なってつづいて行く。やがてガイド

がボアズカレ到着を告げるが、見渡しの聞く禿山の織りなす中に下り立った。


ボアズカレ

ボアズカレはトルコの首都アンカラの東150kmの位置にあり、紀元前16から14世紀の古代ヒッタイト

の首都で、1906年に、こちらの土地から粘土板文書が発見されたことから、古代ヒッタイト帝国の首都

ハトゥシャであることが解った。 その内容はヒッタイトとエジプトとのガデシュの戦いの後、交わされた

和平協定の内容で、エジプトのカルナック神殿の壁に記されたものとが一致したことから判明した。 その

遺跡から、更に出土した粘土板の楔形文字や象形文字の解読で、ヒッタイトの様々な歴史が解明され、

現在も発掘が続けられていると言う。



バスを降り、丘陵地帯を歩くと、大きな岩の重なった場所があり、岩の間に入って行くと、そこは

ヒッタイト帝国の都・ハトゥシャの聖地である「ヤズルカヤ」がある。 ヤズルカヤとはトルコ語で

碑文のある岩場という意味で、その通りの現場である。 神殿は紀元前13世紀のものでヒッタイト

人の敬う神々が岩場に彫られ12神や太陽、月、空、などの神々が並んでいる。 また紀元前13

世紀のトゥトゥハリヤ4世やシュッピルリウマ 2世のレリーフ. も祀られている。 ヒッタイト人は

尖がり帽子に指先の跳ね上がった履物が特徴的である。 エジプトのカルナック神殿に比べると

規模も小さく、素朴なものであった。


ヤズルカヤ遺跡入口





ヤズルカヤ遺跡 12神

ハトゥシャはボアズカレの近郊にある標高が1000mほどの見晴らしのよい丘陵にある遺跡で、ドイツの

F・ウインクラーによって発見された。 起伏のある広大な敷地を加工の少ない石で城壁を造り、スフインクス

門やライオン門、王の門と3つの門があり、第1から6つの神殿跡がある。 東側の崖には大城塞などもあり、

中央アナトリヤ高原が見渡せる展望の良い場所に置かれ、外的に備えていたのであろう。 ところでヒッタイト

の滅亡理由は定かでないが、通説によると紀元前1160年に民族分類不明の海の民によって滅ぼされた

と言われている。


獅子の門

ハトゥシャに別れを告げ、首都アンカラへとバスは向う。 アンカラよりは夜行寝台車でイスタンブールに戻る予定

である。 秋の日暮れは早く、アンカラの街に入る頃には、三日月が出ていて、高台で柱に囲まれたアタチュルク

(初代大統領)廟だけが、夜の帳の中にオレンジ色に輝いていた。 市内のホテルで食事を済ませ、アンカラ駅

に到着。 寝台車はホームに待機している。 アイボリ−のボディに赤と青のラインの入った綺麗な車両、それに

早速、乗りこむ。 二人個室が並ぶ一等寝台は締め切られ、夜の静かな空気が流れる。 寝台は2段ベッドで、座席

の背もたれを倒すと裏面が寝台になる仕組みである。 列車が音もなく動き出すとノックがあり、車掌が寝台をセット

して帰り際、ウインクをして行った。 備え付けの冷蔵庫に、サービスの菓子と水が入っていた。 寝支度をすませ

やっと落ち着く。 今夜は、これでイスタンブールまで9時間の行程。 それでは、オリエント急行に乗った気分で

今夜はおやすみ。 7日間の旅の疲れか、ぐっすりと眠り、眼が覚めると外は明るくなっていた。 朝食のサービス

を受けて、無事、イスタンブールへオリエント急行は到着!


再びイスタンブール

こちらは、アジア側でイスタンブール駅とは言わず、ハイダルパシャ駅とよばれ、20世紀の初頭にたてられたネオ・

ルネッサンスの宮殿の様な建物で、1階のコンコースは動物のモチーフのないイスラム式の垢抜けたデザインである。

この駅舎は、ドイツ皇帝ウイルヘルム2世が、オスマン・トルコのスルタンへの友情の贈物だそうだが、そこには第一

次大戦が忍び寄っていた関係もあったのであろう。 その後、ドイツはトルコと組んで大戦を戦った。


ハイダルパシャ駅とオリエント急行の機関車、(アジア側のイスタンブ−ル駅)

 コンコースを出ると、前はボスポラス海峡、対岸はイスタンブ−ルのヨーロッパ側のシルケジ駅がある。

この駅がオリエント急行の真のターミナル駅である。 朝のラッシュ時期で連絡船は通勤客や通学の

学生達で大混雑している。 我々も渡し場から連絡船に乗り、ヨーロッパ側へ渡り、ボスポラス海峡 

クルーズとなる。 ボスポラス海峡は長さ約30qに渡って、ヨーロッパとアジアを分断している海峡で、

幅は最も狭い所で700m、広い所は3.7kmほどで、北は黒海、南はアルマラ海に貫けている。現在、

2本の橋が架かり、陸上の東西交通の大動脈となっている。 その1本は第二ボスポラス大橋で

日本政府の開発援助で1988年、親交国のトルコに贈られた。



波が高いボスポラス。 高い塔はガラタ塔

イスタンブールはトルコのヨーロッパ部分と大部分のアジア地区に別れていて、ボスポラス海峡は黒海

と地中海を結ぶ海上交通の要衝をなしている。南のマルマラ海への出口の西岸、金角湾との間の地が

東ローマ帝国時代のビサンチンで、イスタンブルの旧市街である。またアジア側のウスキュダルは40万

の人口の密集地で、古い街並みが残ている。 話は古いが江利チエミの歌「ウスクダラ」で日本人には

馴染みの場所でもある。


ドルマバフチェ宮殿 

オスマン帝国最後のスルタンの居城であったが、オスマントルコ崩壊後は、共和国大統領の

アタティルクの執務場所となり、現在も使われている。 彼は女性参政権を認め、イスラム世界で

初めての政教分離を行い、アラビア文字を廃止し、ラテン文字を採用するなど、画期的な改革を

行った。 オスマン帝国の宮殿や高官の別荘など歴史的建造物は海峡に面し、建ち並び、前に

に船寄せ場を持っている。


ルメリ・ヒサル要塞、

この要塞はメフメト2世が東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略中の1452年に、

僅か4ヶ月ほどの短期間で築造し攻略の拠点となったところで1457年コンスタンチノーブル

は滅び、オスマントルコの首都・イスタンブ−ルとなった。 奥に見える鉄塔はの1988年に

日本の援助で作られた第二ボスポラス大橋(
ファーティフ・スルタン・メフメト橋)この辺りが

海峡の一番狭いところ。


1854年モスク・オルタキョイ・ジャミイ

1854年にアブドゥル・メジト1世によって建てられたモスクで、オスマン・バロック装飾の

美しい建築で、市内有数のビューポイントとなっている。 手前の吊橋は第一ボスポラス大橋で

1973年に建設された。 6車線を持ち、平日朝は西行きの車が多く4車線を西行き当てるそうだ。


海峡沿いには高級な住まいや別荘が多くある。

クルーズを終え、食事のため、オリエント急行の終着駅で有名なシルケジ駅に行く。

駅舎は1890年代の当時の建物で、駅舎の一角に「Orient Express」と言う有名な

レストランがある。 窓はバチカンのバラ窓の様なステンドグラスが入り、レトロな

雰囲気である。 現在は一般乗降客は反対側の建物より列車の乗降がされている。


食事をすませ午後は、バザールをのぞく。 「カパル・チャルシュ」と呼ばれ、1461年メフメト2世

により建てられ、16世紀スレイマン時代に更に拡張された。 4000の店舗が入り、敷地内には

モスクまである。 アーチ型の門があり、門の上にはアラビヤ文字で、「金の目方をごまかすな」

と書いてあるそうで、客に対して、いんちき商売をするなと言う教えだそうで、それよりも来客

への警告の様にも思える。 グランドバザールに入って行くと、いきなり、我々の顔を見ると

「ナカタ!」ナカタ!中田!!と人懐こく、売り子が声を掛ける。 何のことはない。 サッカーの

中田選手のことである。 この調子に載せられて、金の目方の足りないものを買わされてしま

うと、言うことであろう。 兎に角、名にし負う国際都市の市場、商売は巧みである。 客に得を

したと思わせるのが、実にうまい。 こちらも何時の間にやら土産を買っていた。 バザールの

中は金製品や宝石類、陶器、香辛料、絨毯等の店が多い。 バザールは大きく限がない。裏通

りの喫茶店に入りコーヒーを頼むが、何か落ち着かない店で、早々に逃げ出し、休憩が出来な

かった。 帰りの集合場所に戻ると、皆さん、何れも土産をお持ちだった。 バザールの後、半島

の先のボスポラス海峡、マルマラ海、金角湾に囲まれたオスマン帝国のトプカプ宮殿に行く。



トクカプ宮殿

トプカプ宮殿は東ローマ帝国が、オスマン・トルコに破れ、15世紀の中頃から19世紀の中頃まで

オスマントルコの君主が居住した宮殿で、現在は博物館となっている。 総面積は70万へーべあるが

大きな建物はなく、比較的小さな建物と部屋が連なった形式で、遊牧民のテントの感じが残っているよう。

門を入ると大きな並木のある第1庭園があり、東ローマ帝国時代のイレーネ教会も残っている。更に門を

潜ると第2庭園が広がり右手に昔厨房であったが今は世界の陶磁器や金属食器なども展示されている。

勿論、伊万里焼きもある。 左手は高い塔のあるハーレムとなり、オスマン帝国の御前会議も行われた。

こちらの召使は宦官と黒人が用いられ、一夫多妻制度は、東ローマ帝国との戦いで、多くの兵を亡くし

未亡人が増えたため、裕福な人間が扶養したことから始まったと言われるがこれは口実の様に思もえる。


スルタンで一番多く持ったのは18人だそうだ。 しかしアタチュルクが大統領の時、一夫多妻は廃止された。

念のために。 次いで第3の門を入ると、右手に謁見の間があり、外国の要人との面会をこちらで行った。

往時は外部の話が外に聞かれない様に水が流されていて、内部の召使は聾唖の者であった。 謁見の間 

の背後には宝物館とイスラームの開祖ムハンマドの慰霊館がある。 内部はコウランが流れ、厳粛な空気 

が漂い、ムハンマドの遺書を初め、短剣、衣装などの遺品が展示され、多くのスルタンの遺影もある。 また

謁見の間の奥にはアフメト3世の図書館がある。彼は18世紀初期の皇帝で列強との戦争で領土も失ったが

積極的に西欧文化を受け入れ、華麗な文化がもてはやされる平和な時代をつくった。 最後にテラスに出て

金角湾とボスポラス海峡の展望を眺め、宮殿を引き上げ、今夜の宿、ヒルトンホテルに入る。 夕食はマルマラ

海に面したレストランで海鮮料理で食欲を満たす。 明日は昼12時半出発のシンガポール航空の為ゆっくり

と久しぶりに寛げる。 兎に角、道中が長距離のバスで疲れが残っているようだ。


翌日、予定通りデュバイ経由でシンガポールにたち、翌朝、シンガポールに到着。 しかし、名古屋便が深夜

の為、また、こちらで市内観光をする。ダイヤモンドや余りこちらには興味のないショッピング店につれられ、

最後は植物園のボタニック・ガーデンに入る。 こちらは赤道直下、熱帯植物いっぱいの国立植物園で敷地

は63.7ヘクタールあり、世界最大と言われるラン園・ナショナル・オーキッド・ガーデンが中にある。 園が開か

れたのはプランテーション経営者のヘンリー・リドリーが1859年に開いたそうで、彼はゴムの木の栽培をし木に

害を及ぼすことなく、ゴムを採取する方法を発見し、自動車産業の発展に伴いゴムの需要が増し、東南アジア

の発展に寄与したと言われている。


オーキッド・ガーデンのラン

赤道直下の広大な敷地、こちらはトルコの晩秋の爽やかさとは取って代り、蒸し暑く、ランを見るどころか

ついて廻るので精いっぱい、ホテルに入って、専ら休養、暫く眠り、夜のフライトで帰途につく。

旅を終えて

 明治23年、オスマン・トルコの軍艦エルトゥールル号が日本皇族小松宮夫妻のトルコ訪問の答礼に来た

帰路、暴風雨に遭遇し和歌山県串本町沖合で、遭難した。 この事故で、トルコ特使を含む518名が死亡し、

69名が地元漁民の懸命の救助により一命を取りとめた。 貧しい村人達は惜しまず自分達の衣類や食料を

提供し救護したと言う。 この話が政府に知らされ明治天皇に伝えられ、各新聞も大ニュースとして伝え多くの

義捐金・弔慰金が寄せられた. 遭難事故の20日後、69名の遭難者たちも、明治天皇の命により軍艦、比叡と

金剛により、トルコ・イスタンブルに送り届けられた。 その後、一民間人の山田寅次郎という人物が、新聞社な

どの協力を得て全国を歩いて義捐金を集め、それを携えてトルコに渡り、外務大臣サイド・パシャに義捐金を手渡し、

皇帝アビドゥル・ハミト二世に拝謁。 トルコ側の要請でトルコに留まり、日本語を教えることになり、日本とトルコの

友好親善に尽くした。 その時、教え子の中に後のトルコ共和国初代大統領となる英雄・ケマル・アタチュルクが

いたと言う。 この事件の15年後、日本は日露戦争に勝利する。 ロシアはトルコの因縁の仇敵で、トルコ人に

とっては大いに溜飲を下げた。 それから遭難事故後95年が経過した1985年3月17日、イラクの故サダム・

フセイン大統領が 「今から40時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機をすべて打ち落とす」と宣言した。 イランに

住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かおうとしたが、どの飛行機も満席で乗ることができない。

日本政府では自衛隊機は海外に出せず民間機は危険で拒否され途方にくれていた。 現地では迫る時間に

日本人だけが取り残されていた。 この時、一機のトルコ航空機が飛来し、日本人全員を乗せて日本へ向け

飛び立った。 元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語っている。

エルトゥールル号の事故に際して、日本人がしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコ人たちは忘れていません。

私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。 トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。

今の日本人が知らないだけです。 それでテヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。



今、日本は隣国の中国と韓国両国と領土問題で対立し、経済面まで問題が発生している。 日中韓3国の経済は

前大戦の当時とは比較にならないほど世界経済に入り込んでいる。 今、どの一国の経済が疲弊しても、3国は勿論、

低迷している世界経済への影響は大きく、危険をはらんでいる。 日本の政治家の一部には、一つ覚えの様に力に

たよろうとするが、先人の歩んできた歴史を良く睨み、大きな見地より冷静な判断が必要といえる。

人間は感情の動物である。 冷静なつもりが、相手の態度で直ぐ熱くなる。

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