北海道に住まわれている方には何でもない普通の光景ですけど、本州から来ると「へえ〜!」って思いたくなるものをナビ的に発見しました。また北海道での雑学での誤解もナビ的に専門用語を外して分かりやすく掲載しました。

No1 鳥のザンギって何?

早い話全国的に言う「鳥の唐揚げ」の事。東北地方の一部にも「ザンギ」と言う名前があるらしいが、一般的に北海道の唐揚げを意味するようです。何故北海道だけ「鳥の唐揚げ」と言わないのかは諸説があるらしいです。作り方も材料に鳥のモモ肉に小麦粉や片栗粉 卵 ショウガ ニンニク等を使用してしばらく寝かせて肉に味を染込ませ油で揚げる食べ物です。ですから特別な料理ではありません。

その理由は絶対的なレシピがあるわけではなく、例えば沖縄や福岡 大阪 東京などで食べる唐揚げだって味は違うでしょう!北海道でさえ店ごとに味付けが違うからです。ですから別の食べ物ではなく、北海道の呼び名だとナビは理解しています。
北海道以外で「鳥のざんぎ」を食べたければ居酒屋のつぼ八に行ってみて下さい。メニューに「鳥のざんぎ」って書いてありますよ。

では北海道に「鳥の唐揚げ」は無いのでしょうか?いえ、あります。実は手羽先の唐揚げが北海道では鳥の唐揚げになります。ナビが苫小牧の居酒屋で「鳥の唐揚げ!」ってオーダーしたら手羽先の骨付きの形のままの唐揚げがきました。あれ?って思ったらメニュー表にしっかり「ザンギ」も記入されていました。ザンギの存在は知っていましたが、その時は忘れてて なるほど〜!と思わず納得しました。ただ店によっては「鳥の唐揚げ」が存在しなかったり、店の人が気をきかせて「ザンギ」を出してくれる所もありますのであしからず!
北海道で「ザンギ」と呼ばれる鳥の唐揚げが何故一般的なのかと言う理由としてコンビニに その例を見ることができます。

ちなみにコンビにではザンギ弁当(東京では唐揚げ弁当)が普通に販売されていましたが、POSシステムでの全国統一の関係で
現在では鳥のから揚げ弁当になりつつあります。小さなストアーや地元のコンビニでは現在でもザンギ弁当の名称で販売されています。

中標津のセブンイレブンで購入しました。ザンギの存在はナビも知っていましたので、特に違和感はありませんでした。そして味は東京で食べる鳥の唐揚げと全く変わりませんでした。多少の手法は違っていたとしても間違いなく鳥の唐揚げでした。現在では鳥のから揚げの名称に変更されました。 中標津のセブンイレブンで購入。これは東京では売っていません。名称も「鳥から揚げ」になっていますね。プライスシールが邪魔ですが、手羽先の唐揚げでした。チンして中華ソースに添付の刻みネギを入れて食べます。すんごく美味しかった。現在ではこの商品は廃番になっています。

No2 日産のレッド&ブルーステージのお店って何?

日本での日産のお店では例えば日産サティオ○○とか○○日産自動車とか日産プリンス○○とかの複数の販売チャンネルがあります。皆さんの自宅の側にもそんなお店があるでしょうしユーザーさんもいらっしゃるでしょう。新車を購入される際はいろんなお店にいかれて見積書をニラメッコなんてのも楽しいかも?
さて北海道は、その広大な土地に対しての人口が少ないので上記のような販売店では営業的なコストがかかりすぎて利益がでないのでしょう。例えば釧路地方では古くから釧路日産自動車というお店が全ての車種を販売しています。
しかしながら日産の改革でしょうか全国的に販売店を2社に改変しました。例えば、それまでスカイラインを独占販売していたプリンス系はレッドステージとなり同じレッドステージとなったサティオ系(旧サニー系)販売店でも販売できるようになりました。
これによってブルーステージとレッドステージの2大販売チャンネル(屋号はそのままですが)が出来上がりました。

では先ほどの釧路日産自動車はどちらに属するのかですが、両方に属してしまうのでレッド&ブルーになったわけです。
看板に左から右方向に赤から青にグラデーションがかかって、中央が紫になっているのが印象的です。この看板は函館近郊(函館日産自動車)、旭川近郊(旭川日産自動車)、網走近郊(北見日産自動車)、帯広近郊(帯広日産自動車)などで数多く見ることができます。ただ札幌近郊は本州と変わらずブルーステージとレッドステージがあります。

本州では赤にRed Stageの看板か青にBlue Stageの看板を見かけます。しかし北海道の地方ではこんなグラデーションの看板を多く見かけます。 普通の日産のお店であることには変わりありません。何気に通り過ぎてしまう光景です。
以前はこのような看板がいたるところにありましたね!写真は日産サニー系列の看板です。現在ではもうこの看板は見かけられなくなりました。 日産サティオ系列(旧サニー店)と日産プリンス系列が現在のレッドステージです。グロリア、スカイライン、フェアレディーZなどを扱っています。 本州以南の日産自動車販売系列と日産モーター販売系列が現在のブルーステージです。シーマ、セドリック、プレサージュなどを扱っています。

NO3 網走刑務所って極悪犯が収容されてるの?

博物館網走監獄に行かれた方は、そう思った方もいるかもしれませんね。
極寒の環境の中で死と隣り合わせの労働は言葉に表せられないような苦痛を受けたでしょう。今もそれを連想される方いらっしゃるかもしれませんが、現在はそんなことはありません。ただ以前は過酷な囚役だった事は事実です。それを説明するためには、北海道の監獄の歴史から説明した方がいいかもしれませんね。簡単に要約してありますので詳しく知りたい方は書籍で確認してみてください。
蝦夷から北海道と名称が変わった明治初期。この頃は政情不安で治安も良くなく多数の国事犯が東京小菅の集治監や宮城の集冶監に収容されていました。収容も限界になり他の収容場所を求めるに事になり候補地を選びました。そこで一部を除いて荒野のままの未開の地が多い北海道に決定しました。場所の候補地は3ヶ所。

1.石狩国樺戸郡須倍都太(現在の樺戸郡月形町)
2.胆振国近隣羊蹄山麓(現在の虻田郡ニセコ町近郊)
3.十勝川沿岸(地域は不明。後の十勝監獄の場所とは違うらしい)
これらを測量した結果、羊蹄山麓では人家が多すぎる事、十勝川沿岸では海が遠浅で大型の船が接岸できないなどの理由から石狩国樺戸に決定しました。樺戸には陸上からの道は開通してないので石狩川を丸木船で2日使っての道のりでした。そして次から次へ囚人を送り込み集冶監となりました。これが樺戸集冶監として北海道の監獄の始まりです。

なおこの地方を刑務所長(典獄と言った)の月形潔の苗字から月形村(現在の樺戸郡月形町)になりました。
囚人は獄舎の建設と土地の開墾が主体でしたが、思った以上の功績を残しました。但し犠牲となった囚人の人権は考えていませんから無茶苦茶だったようです。それにより釧路、空知、十勝に次々と集冶監を建設していきました。主な作業は釧路が硫黄の採掘、空知が炭鉱の採掘、十勝が土地の開墾等でした。
囚人には殺人や強盗で収容された者もいましたが、比較的国事犯が多く収容されていました。丁度、新風連の乱や西南戦争で捕らえられ逆賊の汚名を着せられた人たちです。ですから新政府にとっては江戸時代のように斬首するくらいならば死ぬまで労役に付かした方が国益になるという人権無視の政策で収容された方が多数いました。(それにより多数の死者がでました。)

さて網走には釧路集冶監から網走分館として道路の開設を目的に外役所を建設。これが網走監獄の始まりです。
約200Kmの北見峠を含む未開の地を3ヶ月で完成させるという無茶苦茶な使役を与えたのです。それも9月から12月までの雪深い時期にです。これが死の行軍と言ったり死の使役といったりしたらしいです。
その後各監獄は廃止統合されたりしながら法律が改正されたり、憲法が公布されたりして現在のようなシステムになりました。網走刑務所も今では一般刑務所になり極悪犯などと称される受刑者はいませんしそのような表現は差別的で適切な名称ではありません。

参考までに長期服役囚は旭川刑務所に収監されているようです。また死刑判決を受けた既決囚は札幌刑務所札幌拘置支所に拘置されています。(死刑囚は死刑が執行されることにより刑罰を受けるので刑務所には行かないで拘置所に拘置されるとのことです。)
でも一番のインパクトは映画での高倉健演じる網走番外地がイメージを高めたのは紛れも無い事実でしょう!
現在の北海道の主たる道のほとんどは、これら囚人となり死を賭して囚役に駆り出された人たちの苦労により、今私たちが使っているんだ!と言うことを頭の片隅にでも記憶に残して忘れないでほしいです。

全てはここから始まりました。樺戸監獄の跡地です。現在では事務所跡以外は全て残っていません。内部は資料館になっているようです。 本物の網走刑務所の正門です。この門だけはそのまま使われているのでしょうか?歴史が感じられるくらい古く感じられます。これより先は行けません。 博物館網走監獄の正面ゲートです。本物とソックリになっていまが新しさが感じます。こちらは門の中まで車で入場することができます。  これは平成14年に撮影した4代目鏡橋の本物の橋です。  博物館にある鏡橋。2代目と3代目のイメージを残してあるようです。

No4 駅逓(えきてい)と鉄道の駅の関係は何?

前項の囚人の功績により、札幌から網走や釧路などの主要な町に陸路からの道路が開通しました。それまでは獣道と言えるような道での物資輸送がメインでしたが、この道路の開通により陸上で馬による大量輸送が行えるようになりました。
ただし途中には原生林が生い茂り、寝泊りはアイヌ民族の部落にお世話になっていたそうです。そのような交通不便の地に駅舎と馬を備えて宿泊と輸送の便をはかるために設置されたのが駅逓と言います。これは北海道独特のものです。実際は江戸時代の遠く寛政年間が始まりとされて所々アイヌ民族が営んでいましたが、一般に普及したのは明治以降の開拓者が入植してからだそうです。
明治以降も駅逓は建設が進み大正15年には全道で247ヶ所にもなりました。この駅逓の設置によって集落ができ、賑わったそうです。(現在でいえば鉄道の駅ができて住宅や商店が賑わったのと同じと考えてもいいかもしれません。)
北海道各地で入植者が増え開拓が進んできたことによって普及した駅逓ではありましたが、それと平行して鉄道が少しずつ開通していきました。あくまで補完の意味だっただろう鉄道の駅は駅逓の前に多く開業しました。
そうすれば人馬だと1日移動できても20Kmが限界でしょうし、冬のソリでの移動は困難でさらに短くなるでしょうが鉄道での輸送であれば当時でも1日100kmくらいは問題なかったでしょう。冬場でも関係なく輸送ができたと考えられます。それに伴い駅逓を利用する人も少なくなり少しずつ駅逓は無くなっていきました。そして昭和22年に全ての駅逓がなくなりました。その間22年間の物語だったのかもしれません。ところがこの鉄道の駅にも時代がやってきます。道路に沿って開通した鉄道ですが、その道路が整備されていくと人馬から代わったトラックが主流になっていったのです。初めは各地から小型のトラックで集まった物資を駅で貨車に積み込み貨物輸送をしていました。そのため昭和40年代の鉄道貨物輸送はピークに達しました。

ところがトラックー鉄道ートラックでは時間的ロスが多いということでトラックのみの一貫輸送に発展していったのです。それにより鉄道の駅は寂れていきました。結局鉄道は廃止の運命を背負い、ここに駅逓があったことすら忘れられてしまいそうです。第一次特定路線として白糠線が最初の廃止路線となって昭和61年に廃止になってしまいました。これも約40年での歴史を終えたことになります。ちなみに各駅停車のローカル線に乗ると、「何でこんな人家のない所に駅があるんだろう?」って思う方もいるでしょう。これは気分的に駅を作ったのではなく、過去に駅逓っていう建物があって人家が多く一つの集落があった所だったと言うわけです。
時間があったら寂れた無人駅で集落の遺構を探してみるのも楽しいかもしれません。ここに人がいて馬がいて夏には盆踊りをして、、、、なんて!

標津線奥行臼駅跡。周囲は右の駅逓以外本当に何もありません。かつては駅員がいて貨物を積み込みSLが橋っていたなんて想像できません。それだけローカルになってしまった駅跡です。ただ駅前がかなり広いです。 通りを挟んで向かいにあるのが奥行臼駅逓です。明治43年に作られた建物で山崎藤次郎氏が営んでいました。別海、西別方面の重要な基地だったそうです。現在では北海道に残る数少ない遺構です。 石北本線の奥白滝駅跡。平成13年に廃止された。駅前に行くと当時を偲ばせる駅前通りがあって、夏祭りは活況になっていたという。どこに駅逓があったかはわからなかったが現在一軒の居住宅はない。

No5 道道の番号は何番まであるの?

どうです。キリのいい道路でしょ?ここは知床の入り口斜里町内にあります。道道1000号線なんてのがあるんですね。

さすがに広大な北海道だけの事はあります。東京の都道だって大阪の府道だって4桁の番号の付加された道はありません。ナビも走っててスゲ〜って思いました。で、実際北海道には何番まであるのか、出来るだけ走って調べてみました。

一応ナビ的には大雪観光道路の1177号線が最後のようですが、本当の所はわかりません。もっとも道内には沢山の林道があって、管理も営林局から北海道に移管されたり高速道路建設に伴いインター接続線が新規に作られれば今後も増えていくと思います。
また管理上からか欠番になっている番号も多く、統廃合によって消滅した番号もあるので実際1177本の道があるわけではないでしょう。

ただ、ここで注意していただきたいことが、路線番号では1177号線が最大番号になりますが、北海道では管理番号ってのも存在しています。これは
路線番号(普通に道道の番号)が1号線〜200号線までが主要道道であり
路線番号が201号線以降が一般道道と呼ばれています。
このうち
主要道道の管理番号には+1000を付加し
一般道道の管理番号には+3000を付加して表記させているものもあります。

本来路線番号しか使われないはずなのに、何故か管理番号が案内板に表示されることもあり、非常にややこしくなってしまいます。
となると、主要道道1号線は1001号線にもなってしまい、一般道道1001号線も存在してしまうことになるわけです。

上記「富士川上線」の場合も道道1000号線ですが、管理番号では道道4000号線とも表記してもおかしくないのです。
何気に気が付かないへえ〜かもしれません。

ただ不思議なことに、北海道の国道には100番台の国道が一本も無いこと。
つまり国道44号線の次は国道227号線なのです。これは何を意味しているのか研究課題の一つになりそうです。

No6 通行止めの地点はどうなっているの?

冬に旅行された方には「○○は冬季通行止め」って聞きますよね。だからそこは行ってもムダだからパスすると思います。
当然ですよね。チョッとヘソ曲がりのナビはそんなところにも行ってきました。通行止めの終点はどうなっているの?って疑問に答えるべく行動おこしました。
単純にヒマ人ですね!ボクって!
知床横断道路の羅臼側です。ゲートでしっかり封鎖されちゃいました。しかしこの先まで除雪はされているんですね。歩いて先へ行ってみたものの寒さに負けて戻ってきちゃいました。ここは丁度熊の湯の入り口の前です。入り口は左側に橋があります。ですからこの国道が丁度良い駐車場になってしまいます。 こちらは逆にウトロ側からの知床横断道路です。ゲートの存在は分からなかったのですが、正面が道路だってのは後ろ向きの案内板を見ても分かります。やや右カーブしていますね。雪壁がバリヤになっていてとても行けませんでした。知床ネイチャーセンターのすぐ近くで左側には岩尾別方面の道があります。 裏摩周方面に行く清里峠です。前方に道道150号線の案内板があるのに行けません。ただこの道は尾根伝いに比較的フラットな道の上に雪があるのでクロスカントリーで裏摩周に行かれる方がいます。距離も片道2kmくらいですから1時間くらいのクロカンは人気があるらしいです。ナビも行ってみたい!! ちょっとマイナーな標津町にある川北温泉の入り口。冬に行きたければここもクロスカントリーしかダメらしい。ただ片道2時間はかかるし、狭い林道だから注意が必要。ここは絶対携帯電話の届かない場所だから一人で行くようなことは慎みたい。

まだまだへえ〜の旅は続きます。道東でアレはなに?ってのを発見したらナビに教えて下さいネ!
出来る限り調べてみますね!ただ一般的な旅行やツーリングでの過程での内容にしてくださいね!
阿寒富士の頂上はどう?って言ってもナビは登山家じゃないから、、、、、、!!!