越川橋梁 |
住 所 | 北海道斜里郡斜里町字越川245番8他 | |
問い合わせ先 | 斜里町立知床博物館 | |
電話番号 | 01522-3-1256 | |
営業時間又は訪問可能期間 | 通年 | |
駐 車 場 | 有り | |
入場料又はそれらに関わる料金 | ーーーー | |
ホームページ又は関連サイト | http://www.pref.hokkaido.jp/kseikatu/ks-bsbsk/bunkashigen/parts/10564.html | |
コ メ ン ト |
国道244号線を斜里方面から根北峠を進むと、越川集落で突然コンクリートの橋が両側に架かっているのがわかります。何だろうって思った方もいらっしゃるのではないでしょうか?それは元国鉄根北線の工事線の跡です。正式には第一幾品川橋梁という10連のアーチ橋の跡です。 根北線?聞いた事ないなあ!って方もいらっしゃるでしょうから、その説明から掲載します。 大正後期、北海道は開拓のため各地で鉄道の建設計画がありました。大正11年。網走から釧路まで硫黄を運ぶための釧網線や海産物を運ぶための標津線、また釧網線から分岐して斜里から標津までの根北線などの計画が立てられました。 網走から斜里までは起伏が激しくない場所でもあり大正13年に開通。それに伴い根北線の計画も工事予定線として測量を開始、工事に着手していきます。ところが根北峠の工事が難関でなかなか工事が進みませんでした。そのまま日本は第二次世界大戦に突入していきます。 軍部は網走から根北峠を通って根室海峡に抜ける鉄道はソビエトとの軍事上必須路線であるとして、強引に建設を進めていきます。戦争末期に朝鮮から強制労働で連れてこられた人を初め、沢山の犠牲者を出しながら峠の手前の幾品川橋梁まで完成しました。もっとも終戦間近の時は物資が乏しく鉄筋などが手に入らない時期だったので鉄筋の代わりに竹が使用されたりしました。 やがて、終戦をむかえます。工事は中断しました。もともと軍事路線としての位置づけでしかなかったわけで、駅など建設されていませんでしたが、地元の要望により幾品川橋梁手前の越川まで路線を復活、国鉄根北線として営業を開始しました。昭和32年の事です。終戦から12年も経ってからでした。この先は建設予定線として残ってはいたものの、当時から離農で人口が減っていた地区でもあり、建設しても赤字は確実と判断され工事は凍結されます。釧網本線から枝線として営業していた根北線ですが、黒字の見通しは全くないと判断され、結局昭和45年に斜里ー越川間も廃止されました。というわけで、この橋は一度も列車が走った事がない橋として残されました。 本来ならば取り壊されるはずの橋梁ではありますが、場所が奥地であったため、そのまま放置されてしまったわけです。その頃は10連の美しい橋が架かっていた事でしょう。JRに以降後、国鉄清算事業団の所有になり、事業団ではこの橋梁を撤去する予定でしたが、地元斜里町が保存の意向をを示したため解体を免れました。 その後、文化庁による登録有形文化財に指定されることになりました。やがて国道244号線を建設するにあたり、この橋が邪魔になり中央の2連部分だけ撤去して現在に至っています。しかしながら、補修等は行っていませんから、自然の成り行きに任せたままですので、一部は崩落している場所もあります。 夏は木々が生い茂っていて間近まで来ないと判りにくいですが、冬季は枯れた木々の間からよく見渡せます。 |
越川橋梁の写真集 |
突然現れたこの橋って何だろうな?って思う人も多いかもしれませんね。 | 木々が覆ってしまって夏は見にくいのが難点でもあります。 | |
斜里町の説明文があります。 | 右側は国道があります。そのため安全のためここで撤去されました。 | |
紅葉の季節では見事な橋が続きます。 | 葉が枯れる冬は国道からもよく見えますよ。 | |
こちらは越川側の橋。 | こちらが標津方面の橋です。 |