関寛斎資料館
住  所 北海道足寄郡陸別町字陸別原野基線69
問い合わせ先 陸別町教育委員会
電話番号 01562-7-2123
営業時間又は訪問可能期間 9:30〜16:30
毎週月曜休館、年末年始休館
駐 車 場 有り
入場料又はそれらに関わる料金 300円
ホームページ又は関連サイト http://www.bfh.jp/theme/theme_searchdetail.html/80040210701
コ メ ン ト
関寛斎って言うだけで歴史を語れる方はすごいなあ〜って思います。結構歴史に興味のあるナビですら関寛斎っていう人の事は知りませんでした。

簡単に関寛斎氏の生涯をまとめると、現在の千葉県東金に農家の吉井家に生まれ親戚である儒学者、関俊輔の養子として育ちます。そして苦しい生活の中佐倉順天堂に入門して、その才能を師匠の佐倉泰然に認められて当時最新の西洋医学である蘭学を取得しました。当時の医学は東洋医学が一般的で、鍼や灸、漢方が当然のように扱われていました。ですから佐倉順天堂に入門するにしろ先見の妙があったのかもしれませんね。
さて氏は佐倉順天堂に通いながら結婚して氏は銚子にて医院を開業します。

その後浜口悟陵の推薦により長崎に渡り、蘭医ボンベの師事を勤め上げ1年間の遊学を行います。
彼は銚子に戻る事もせず、阿波徳島藩の藩医の道に進みます。幕末、阿波藩は戊辰戦争で官軍側に付くために彼も軍医として従軍し、各地の野戦病院で負傷兵の手当てに従事します。その実績から病院長まで昇進したほどです。戊辰戦争終了後、明治政府の軍医男爵の位を断り、徳島に戻って町医として生計をたてます。

明治35年、彼が72歳になって、残りの余生を北海道の医療と開拓に捧げる事を決意します。まだ未開の場所だった陸別に入植し開拓を行います。ただ、場所も極寒地であるだけでなく、豊かな自然があるだけの場所には何度も挫折があったことでしょう。82歳で他界するまでの苦労は並大抵ではなかったと思われます。彼が他界してから数年後国道や鉄道が開通したわけで、想像を絶する生活だっただろうと考えられます。

その関寛斎氏の功績を偲んで、生誕時から戊辰戦争で使用された用具などを展示してあります。見ればみるほどジーンとしてくる資料には思うものがあるかもしれません。できればユックリみてほしいものです。
関寛斎資料館の写真集
資料館は道の駅「オーロラタウン93りくべつ」の中にあります。昔は鉄道の駅だったんですけどもね! 裏にまわると、道の駅でありながら鉄道の駅でもあるんです。現在では廃止になってしまいましたけど。
関寛斎氏の活躍の軌跡を紹介しています。鉄道も道路もない時代に広範囲にわたってますね。 関寛斎氏に関連する方々です。佐藤泰然、松本良順など当時はとても有名な方々の説明です。
これが住まいのレプリカだそうです。当時をかんがみても質素だったんでしょうね。冬の生活ははどうだったんでしょうか? 黒船来航の頃の歴史と、氏が係わった事項を説明してあります。でも、まさか陸別で明治維新の説明を見るとは、、、。
官軍として従軍した野戦病院の旗でしょうか? ビデオで歴史もわかりやすく説明してありますから、ちょっと勉強になりますね。